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十三夜 聖なる叡智(ハギア・ソフィア)

十三夜 聖なる叡智 5

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 そこには、妄想にまで見た――いや、失礼。夢にまで見た愛しい少年――今は青年となった、神秘的な容貌の麗人が立っていた。
 長い漆黒の髪は緩やかに流れ、夜の一族に相応しい白蠟の肌は、決して解けることのない万年雪のように美しい。
 何より――。
「舜……!」
 デューイは思わず、久しぶりに会った愛しい『思い人』に抱きついた。
 何故そんな大胆なことをしてしまったのか――と問われても、その場の雰囲気と、舜から感じられる穏やかな気が、以前のようにデューイの性癖を拒むものではなかったから、としか言いようが無い。
 少年時代は、多感な年頃のためか、デューイの性癖を極端に嫌っていた舜だったが、やはり十年経ち、大人になってくれたのだろう。
 それに、あの憧れの黄帝に、こんなにもそっくりに成長するなど――。髪の色が黒でなければ、黄帝かと思ったほどだった。――いや、皆さまはすでにお気づきだろうが……。
 ――黄帝かと……。黄帝かと……。黄帝かと……。
 いや、そんなはずは……。だが、余りにも、黄帝に似過ぎている。髪が黒いというだけで、それを元の銀髪に変えれば、それは……。
「おや、デューイさんでしたか」
 その、のんびりとした、どこか間延びした口調は……。
「こっ、こっ、こっ……」
 言葉が出ない。
 何しろ、すでに抱きついてしまっているのである。神とも崇める、触れることなど許されない存在に――。
「えーと、にわとりの真似ですか?」
 本気なのか、この場を和ませるためのジョークなのか、それでもデューイには、和めなかったが。
「うわああああ――っ! もっ、申し訳ありませんっ、黄帝様あああっ!」
 と、すぐさま、抱きしめる体を引き剥がし、真っ青になって後ろに下がる。――いや、夜の一族になってからというもの、顔はいつも蒼白いのだが。
 そのまま崖下に転落して、一度死んでおきたいくらいの失態である。――いや、そんな死体になってまで、黄帝に遺体回収の迷惑をかけるわけにはいかない。
 今度は酸欠の金魚くらいでは済まず、エラ呼吸が追い付かないノルウェー産のサーモンのように、凄まじい呼吸困難に陥ってしまう。
「ああ、構いませんよ。シスコに帰って十年も経てば、やはり、あちらでの習慣に戻るでしょうし、この中国でも、ハグを挨拶にする若者は増えていますからねぇ」
 パク、パク、パク……と口呼吸で息と意識を整えながら、黄帝の言葉に、滝のように流れ落ちる汗を拭い取る。
 夜の一族になってから、これほどの汗をかいたのは初めてである。
「もっ、申し訳ありません。黒い髪が一番に目に入って、すっかり大人になった舜かと……」
 いや、大人になった舜になら抱きついても良い、という訳ではないのだが、彼の場合はまだ年齢が年齢なだけに、どこか人に似たモノを持っていて、神のように近寄りがたい黄帝とは、また雰囲気が違うのだ。
 もちろん、舜ならきっと、『抱きつくな近寄るなオーラ』を、目一杯に体中から発散させていただろうが。
 このまま貧血を起こして倒れてしまいたい。――いや、そんな迷惑を黄帝にかけるわけには――いや、これに似たことは、さっきも自問自答した。
「こんなところで立ち話もなんですから、どうぞ中に入ってください」
 その人間離れした人外の美貌と、神秘的な姿で、そこらへんの主婦のような言葉を吐かないで欲しい(※全国の主婦の皆様、申し訳ございません。陳謝)。
 10年前と変わることのない優しさに、
「い……いのですか?」
 デューイは感動と共に、涙ぐんだ。
 相変わらず、涙もろいままなのである。
 何しろ、あの日、急に『家族の元へ帰っては?』と黄帝に言われた日から、自分だけ蚊帳の外のような、とてつもない疎外感を感じていたのだから。
「いつでも歓迎しますよ」
 もう死んでもいい。――いや、だから、何度も言うけど、それは迷惑をかけるから……。

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