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十一夜 猩猩(しょうじょう)の娘
十一夜 猩猩の娘 16
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天府で奇妙な事件が起こり始めたのは、夏にさしかかる短い夜のことであった。
首筋に二つの傷痕を残した死体が、町の中で見つかったのだ。
死体には、その首の傷以外のものは見つからず、頸動脈が破れた際に見られる多量の出血痕もどこにもなく、ただ死体だけが転がっていた。
夜に出歩くような不埒な者たちのことだから、魔物にでも喰い憑かれ、血を吸い取られたのではないか、という噂だった。
もちろん、天府の役人たちも夜の巡回を増やすなどして、犯人探しを行っていたが、何しろ暗い夜の出来事、目撃者もいなければ、出歩いていた者も人目を避けていたとみられ、一向に成果は上がらなかった。
そして、夜に出歩く人々も、魔物に出くわさないよう用心はしていたが、ただの人間に――しかも、幼い子供に出くわしたところで、用心などはしなかったのだから……。
「おやおや、こんな夜にどうしたんだい?」
気安い人妻の元への間男の帰り、男は道端に座り込む幼子の姿を目に止めて、いつも以上に優しく声をかけた。
その幼子は夜目にも高価と解る衣装を身につけていたし、近くで見ると、驚くほどに端麗な面をしていたのだ。
「玲玲を追いかけて来たの……」
幼子は言った。
「玲玲?」
「わたしの子猫。寝床の中から逃げ出したの」
ハッハッ、と男は笑い、
「そりゃ、もう夏も近くて、いくらネコでも暑いからなぁ。――見つかったのかい?」
「ううん。足をくじいて、歩けなくなったから……」
足をさする幼子の姿に、『礼金』という言葉が、駆け抜けた。
この身なりの娘なら、送り届ければさぞたっぷりと礼金をはずんでもらえるだろう。
「どれ、わしが家までおぶってやろう」
「ありがとう」
そして、知ることになるのである。
己の浅はかさと、欲の深さを――。
首筋に突き立った、冷たい牙の感触の果てに――。
たとえ短い夜であろうと、喉の渇きを潤すには、充分過ぎる長さであった……。
「またか」
町の噂を聞きつけて戻ってきた従者の一人に、昨夜の事件の報を聞き、宗厚はさして関心もなく、髪飾りを選ぶ香月の様子を眺めていた。
町の職人の元から、ありったけ運ばせて来た品々である。
ある日の品物は絹、またある日の品物は帯……と、至極の玉を扱うように、さらに香月を磨くことにこそ、日々の重きを置いていたのだ。
「そこの螺鈿細工も美しい。つけてごらん」
この天府一美しい――いや、大陸一美しい娘に磨きあげて、己の力と成すために。
ここで栄華を極めるためには、金と腕だけでは、どうにもならないこともある。
例えば、身分――。より高い位を望むなら、姻戚関係が物を言う。もし、香月が蜀王に見染められることにでもなったなら……。いや、必ず見染められる。それだけの資質を有しているのだから。
全ての者から、黄貴妃、とその高貴な名で呼び表わされる日が、必ず来る――。
「――宗厚さま、『あれ』が出来て参りました」
また一人、従者が傍らに来て、耳打ちをした。
「そうか、出来たか!」
宗厚はたちまち破顔して、
「さっそく見に参る。――香月、好きなものを幾つでも選んでおくがよい」
それは、久々の胸躍る知らせであった。
あの湯治場で、香月に会ったあの日から、宗厚の元には次々と至極の品が集い来る。――いや、香月と『あれ』を、他の安っぽい品々と一緒にしてはいけない。その二つは、いくら金を積んだところで、易々と手に入れられるものではないのだから。
まるで、美しき神々の落し子であるかのような娘と、伝説の落しものである、あの……。
「どうやら、全ての運が私に向いて来たようだ……」
首筋に二つの傷痕を残した死体が、町の中で見つかったのだ。
死体には、その首の傷以外のものは見つからず、頸動脈が破れた際に見られる多量の出血痕もどこにもなく、ただ死体だけが転がっていた。
夜に出歩くような不埒な者たちのことだから、魔物にでも喰い憑かれ、血を吸い取られたのではないか、という噂だった。
もちろん、天府の役人たちも夜の巡回を増やすなどして、犯人探しを行っていたが、何しろ暗い夜の出来事、目撃者もいなければ、出歩いていた者も人目を避けていたとみられ、一向に成果は上がらなかった。
そして、夜に出歩く人々も、魔物に出くわさないよう用心はしていたが、ただの人間に――しかも、幼い子供に出くわしたところで、用心などはしなかったのだから……。
「おやおや、こんな夜にどうしたんだい?」
気安い人妻の元への間男の帰り、男は道端に座り込む幼子の姿を目に止めて、いつも以上に優しく声をかけた。
その幼子は夜目にも高価と解る衣装を身につけていたし、近くで見ると、驚くほどに端麗な面をしていたのだ。
「玲玲を追いかけて来たの……」
幼子は言った。
「玲玲?」
「わたしの子猫。寝床の中から逃げ出したの」
ハッハッ、と男は笑い、
「そりゃ、もう夏も近くて、いくらネコでも暑いからなぁ。――見つかったのかい?」
「ううん。足をくじいて、歩けなくなったから……」
足をさする幼子の姿に、『礼金』という言葉が、駆け抜けた。
この身なりの娘なら、送り届ければさぞたっぷりと礼金をはずんでもらえるだろう。
「どれ、わしが家までおぶってやろう」
「ありがとう」
そして、知ることになるのである。
己の浅はかさと、欲の深さを――。
首筋に突き立った、冷たい牙の感触の果てに――。
たとえ短い夜であろうと、喉の渇きを潤すには、充分過ぎる長さであった……。
「またか」
町の噂を聞きつけて戻ってきた従者の一人に、昨夜の事件の報を聞き、宗厚はさして関心もなく、髪飾りを選ぶ香月の様子を眺めていた。
町の職人の元から、ありったけ運ばせて来た品々である。
ある日の品物は絹、またある日の品物は帯……と、至極の玉を扱うように、さらに香月を磨くことにこそ、日々の重きを置いていたのだ。
「そこの螺鈿細工も美しい。つけてごらん」
この天府一美しい――いや、大陸一美しい娘に磨きあげて、己の力と成すために。
ここで栄華を極めるためには、金と腕だけでは、どうにもならないこともある。
例えば、身分――。より高い位を望むなら、姻戚関係が物を言う。もし、香月が蜀王に見染められることにでもなったなら……。いや、必ず見染められる。それだけの資質を有しているのだから。
全ての者から、黄貴妃、とその高貴な名で呼び表わされる日が、必ず来る――。
「――宗厚さま、『あれ』が出来て参りました」
また一人、従者が傍らに来て、耳打ちをした。
「そうか、出来たか!」
宗厚はたちまち破顔して、
「さっそく見に参る。――香月、好きなものを幾つでも選んでおくがよい」
それは、久々の胸躍る知らせであった。
あの湯治場で、香月に会ったあの日から、宗厚の元には次々と至極の品が集い来る。――いや、香月と『あれ』を、他の安っぽい品々と一緒にしてはいけない。その二つは、いくら金を積んだところで、易々と手に入れられるものではないのだから。
まるで、美しき神々の落し子であるかのような娘と、伝説の落しものである、あの……。
「どうやら、全ての運が私に向いて来たようだ……」
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