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九夜 死霊の迷霧(めいむ)
九夜 死霊の迷霧 8
しおりを挟む「うーん。やっぱり、体が温まると生き返るよなァ」
滝は、固形燃料の火で入れた、熱いコーヒーを飲みながら、食後の満腹感も交えて、表情を緩めた。
若い、とはいっても、やはり、冬の寒さと、岩山は、思いっきり体に堪えるのだ。
よっこらしょ、っと腰を上げ、お尻を暖めるために、火に背中を向けて――雲海を臨む形で、岩場に立つ。
一条は、その滝の背中を、切ない眼差しで、見つめていた。それは、届かぬものを見つめるような眼差しでも、あった、だろうか。
コーヒーを置き、一条も、静かな動きで立ち上がった。――いや、わざと静かにした訳ではないが、それでも、音一つ立てない動きになったのだ。
滝の背後に、そっと近づき、ためらうように、足を、止める。
胸が痛くなるような時間、であった。
それでも、固めた決意を思い出すように指を開き、一条は、両手で、滝の背中を突き飛ばした。――いや、突き飛ばそうとした時、
「かーさまああ――っ!」
と、上空から、幼子のものらしい、涙声が、耳に届いた。
「へ?」
と、滝がその声を追って、視線を上げる。
一条は、ハッとして、滝を突き飛ばそうとしていた両手を、引っ込めた。そして、滝と同じように、上空を見上げた。
「な……っ。子供が――っ」
滝が声を上げた時には、幼子は、もうそこまで迫っていた。
子供が空から落ちて来た、のだ。切り立った断崖を、滑るようにして。
滝が、反射的に、その幼子へと手を伸ばした。
だが、落下速度のついたものを受け止めようとすれば、たとえ相手が小さな子供であろうと、滝も無事ではいられない。――いや、子供と共に、突き出した岩に叩きつけられ、死んでしまっても、おかしくはない。
一条は、ハッ、と目を瞠った。
「無理だっ、滝!」
と、滝の体を、抱え込むようにして、その場に倒す。
ドン、っとすぐ側で、地鳴りのような振動が、響き渡った。
何が起こったのか、知りたくもないような音であった。
見たくない――その思いだけが、胸にあった。
一条は、ただ石のように固まって、滝の上に被さっていた。
滝が、信じられないような面持ちで、顔を上げた。
「……落ちたのか?」
と、震える声で、それを、訊く。
一条は、何も応えず、そこに、いた。
「どうして……こんなところに、子供が……」
あまりに、現実味のない出来事であったのだ。
こんな冬の岩山で、子供が落ちて来るなど、誰が想像し得たであろうか。
「確かめないと――。まだ息があるかも知れない」
滝は、ガバ、っと体を起こした。
「よせっ、滝! もう助かるはずがない!」
その言葉は、尤もであっただろう。
だが――。
「おまえが生きてたんだ。あの子だって生きてるかも知れない」
「それは……」
「とにかく、こんなところに放っておけない」
滝は、子供の落ちた岩の陰へと、足を向けた。
もちろん、滝としても、転落死体など、見たい訳では、なかった。最悪の場合、岩に全身を砕かれて、見るも悍ましい姿になっていることも考えられるのだ。
それでも――。
まだ子供、だったのだ。出来れば、助けてやりたい、という思いがあった。もちろん、助けられなかったとしても、それを、滝を制した一条のせいにする積もりは、なかった。一条の制止がなければ、滝も大怪我をしていたかも知れないのだ。もしかすると、死んでいたかも知れない。一条の制止は、犠牲者を増やさないためにも、最も正しい判断であったのだ。
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