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五夜 木乃伊(ミイラ)の洞窟(ペチェル)

五夜 木乃伊の洞窟  11

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「何を見ていらっしゃるの、舜様?」
 時々、辺りを見回す舜の様子に気づいたのか、リジアが言った。
「あ、いや……。あの、ぼくのことは舜でいいから」
「いいえ! そのようなことは出来ません」
「え?」
「そのお名前は、古代中国の伝説の中の、理想の帝王の名だと、おじいさまから聞きました。黄帝様のお名前と同じように」
「でも、ぼくは帝王でも何でもなくて……」
「私がそうお呼びしたいのです。――ご迷惑ですか?」
「あ、いや、そんなことは……」
 舜は困りながらも、曖昧に言った。
 あのとんでもない化け物(注・黄帝のことである)と、ずっと二人で暮らして来たため、この少年、あまり自分の凄まじい力を知らないのである。人々が帝王と呼びたがる、その力を。
 もちろん、今の舜は、父親の力の下で喘いでいるだけの少年で、あまり他の《一族》の者にも逢ったことがないのだから、それを知らなくても当然なのだが。
 何しろ黄帝と来たら――いや、もうあの父親のことを思い出すのは、やめよう。せっかくの初デートである。二人っきりではないが。
 それに、舜の母親も、夫である黄帝のことを『黄帝様』と呼ぶのだから、周りから見れば、リジアのような接し方こそ、正当なものであるのかも、知れない。
 舜にしても……ちょっといい気分、だったりする。
「舜様、デューイ様のことをお尋ねしてもよろしいかしら? 黄帝様のお客人だとしか、お聞きしていないので」
 リジアが言った。
「え、あ、ああ。――彼は、黄帝の知り合いに咬まれて、黄帝が責任を感じて、それで面倒を……」
 本当は、舜と関わったがために、同族の者に咬まれてしまったのだが、まあ、咬んだ相手は確かに黄帝の知り合いでもあるので、この場合、舜の説明に大きな間違いはない。
 舜が、デューイに負い目を感じているのもそのためであり――負い目がある割りには態度がデカイのだが――まだ《夜の一族》として独り立ち出来ないデューイの面倒をみる義務を、黄帝から言い付けられているのである。
 人間を襲わないように。
《夜の一族》は、絶え間ない喉の渇きに苛まれ、それが癒されるのは、血を吸っている時だけ、という哀しい生き物なのだ。狂いそうになるほどの飢えの中でも死に切れず、その苦しみを堪えながら生きていかなくてはならない、という苛酷な宿命を背負っている。
 そんな話をしながら馬を進める中、舜は、また辺りの様子を窺っていた。
 森の中など、どこも同じように見えるのは当然だが、それでも、舜の体は、さっきから同じ場所を通っている、と告げている。
 視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の全てが、普通の人間より優れていることは言うまでもなく、舜の場合、一族の中でも、ズバ抜けている。その舜の五感が、森の異常を告げているのだ。
 ずっと黙ったままのイリアの様子にも気をつけていたのだが、別に、何かをした、という風には、見受けられない。
 それに、今日は奇妙なほどに狼の遠吠えが聞こえない。
 東スラヴの森の精レーシイは、人を森で迷わせ、或いは娘を攫ったりするそうだが、これが、その森の精レーシイの仕業である、とも思えない。
「ちゃんと目を開いて、耳を澄ましてるつもりなんだけどな……」
「何かおっしゃいまして、舜様?」
 舜の呟きを耳に留めたのか、リジアが言った。
「あ、いや、別に……」
 口は閉じておけ、というのも、黄帝から言われていることである。
「もうすぐ着きますわ」
 リジアが言った時、どこからか、鐘の音が、遠く聴こえた。
 舜の耳でも、どこから聴こえたのか聞き分けられないのだから、普通ではない。
 だが、それ以上の音を聴くこともなく、
「ぼくはもう我慢できない! 帰ろう、リジア」
 と、ずっと黙っていたイリアが、口を開いた。
 怒鳴りつけた、と言ってもいい。
「何を言っているの、イリア――」
「帰ろう。――おまえたちも、さっさと中国へ帰れ! でなければ、殺してやる」
 と、リジアの言葉を聞きもせず、リジアの馬の手綱を取って、馬を駆る。
「待って――。待ちなさい、イリア。何て失礼なことを――」
「あんな奴、姉さまに似合うものか! ぼくたちは、ずっとこのままでいいんだ」
「イリア――。駄目よ、イリア。おじいさまもおっしゃっていたじゃないの。血族結婚ばかりを繰り返していては、一族は衰退する、って――」
「衰退した方がいいんだ、こんな血! 強い力なんて持たない方がずっといい。今まで通り静かに暮らせれば、それでいいじゃないか」
「イリア――」
 二人の姿は、その言葉と共に、木々の向こうへと、消えて行った。



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