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二夜 蜃(シェン)の楼(たかどの)

二夜 蜃の楼 11

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 蜂のように鋭く高い鼻、吊り上がった切れ長の瞳、鷹や鷲のように突き出した胸、やまいぬのように獰猛な声――虎や狼の如き心を持つと言われる野心家の皇帝、秦の始皇帝は、壮麗な阿房宮の表御殿にいた。
 複雑な出生の事情を持つ――荘襄王そうじょうおうの子ではなく、そのパトロンたる呂不韋りょふいの子ではないかと言われるこの皇帝は、十三歳で即位し、父親殺しによって、天下統一の一歩を踏み出したのだ。
 目的のためには手段を選ばず、人間不信、人間嫌悪――それら情緒性に欠ける気質で、六国を握った。
 だが、それは本当に真実なのであろうか。
 少なくとも、今、舜やデューイが目の前にしている人物は、そんな殺伐とした人生とは、縁もゆかりもない者のように、思えた。
『もし秦王が天下を取ったなら、天下の者は一人残らず奴隷にされてしまうだろう』
 そう謳われたほどの人物であるはずなのだ、目の前の男は。
 それでいて、ここへ来る前に逢った少女や、周りにいた老若男女は、あたかもここが地上の……天地冥界の楽園であるかの如く、夢のような一時を過ごしていた。
 とてもではないが、暴君が支配する、地獄絵のような世界とは、掛け離れていたのだ。舜やデューイを、皇帝が座する御前まで、あっさりと通したことにしても。
 そして、目の前にいる人物も、生前に謳われていたような暴君とは、全く以て違っていた。覇気がない、と言ってもいい。この楽園に相応しい、お飾り人形のような存在だったのだ。
 何より、その男もやはり、血の匂いを全く持っていなかった。
「よう参られた。――われの民は、湯も食事も用意せんかったかな」
 獰猛な、それでいて生前の威圧感、且つ、残忍な攻撃性など全くない口調と面で、秦の始皇帝、秦王政は言った。
 自らをちんと称するのだから、彼は間違いなく、この世界の皇帝なのであろう。
 だが、兵も側に置かず、見知らぬ旅人をこうもあっさり通すなど、あまりにも無防備ではないか。
「いえ、とても親切にしていただきました」
 そう応えたのは、デューイであった。
 舜は何をしていたのか、というと、この場で一番有意義なこと、考え事、である。
 もし、この世界が生前の秦王政の妄執によって生まれたものなら、もっと覇気に満ち溢れた、血生臭い世界であってもいいはずなのだ。――いや、そうなっている方が自然だ。
 だが、この世界には悪の芽など一つもなく、ただ心地よいと思えるものだけが存在している。
 訪れる者にとっての楽園、なのだ。
 それとも、永遠の生命を持った人間とは、互いを傷つけ合う意味も失せ、これほどまでに穏やかで豊かな人格を持ってしまうものなのだろうか。
 そうして舜が考え込む中、デューイは相変わらず、憧れの秦の始皇帝との対面に感動するよう、毒にも薬にもならない会話を続けていた。
 だが、それは、生前の始皇帝の話ばかりであり、今の話――天地冥界を支配してからの話は、一つもなかった。
「――さて、部屋を用意させよう。旅の疲れもあることだろうからな」
 気味が悪いほど好意的に――飽くまで素直に好意と受け取れる口調で、秦王政は言った。
 そして、それは、慣れた手順のような言葉でもあった。
 その至れり尽くせりの理由を訊くと、ここへ訪れる人間は皆、腹を空かせ、泥と垢に塗れて疲れ切っているため、訊くまでもなく何が欲しいのかは解るのだ、と言う。
 まあ、何日も山の中で迷った揚げ句、この異質の世界へと迷い込んでいるのだから、食べ物と湯が欲しいのは、当然だろう。
「オレたちの他にも、旅人がいるのか?」
 皇帝に対する言葉遣いだとは思えない口調で、舜は敬意を払うでもなく、無愛想に訊いた。
 自らも伝説の帝王の名前を持っているだけあって、大物なのだ、この少年。
「不老長生を求めて之罘山に入る者は多いと聞くが、ここへ辿り着く者は、極わずか――。本心から不老長生を願って、仙人を求める者は少ないのだろう。一説には、オオハマグリが気を吐く間だけ、このたかどのへの道が開かれるとも聞くが」
「オオハマグリ?」
「……ただの伝説だ。――さあ、部屋へ行くがよい。ここでは旅人はいつでも歓待する」
「……。もう一つ訊きたいことがある。ここから出て行った旅人はいるのか?」
 その問いかけに、秦王政は何も応えなかった。――いや、しばらくして、ただ一言。
いな
 とだけ、言った。
 ここから出て行った者はいないのだ。今まで、ただの一人として――。
「ここは、仙人を求めて之罘山に入った者たちが、その不老長生ののぞみを叶えられる楽園だ。誰も出て行きたがりはせぬ」
「不老不死ではなく、不老長生というからには、死ぬ方法もあるんだろうな?」
「……。ああ。旅人には教えられぬが、ここへ留まることになれば、すぐにも耳にするだろう。――さあ、行くがよい。光の差し込む一番美しい部屋へ案内させよう」
「そんな部屋は要らない。用意してくれるなら、地下の暗い部屋がいい」
 飽くまでも大きな態度で、舜は言った。
 それに目を瞠ったのは、デューイであった。
「舜! せっかく陽の当たる場所で過ごせるのに――」
「オレは夜の方が好きなんだ。別に光の下での生活になんか憧れてやしないさ。もちろん、不老長生にも」
 舜の希(のぞみ)は、そんなものではないのだ。
 デューイは心を見透かされたかのように、うつむいている。
「ここで暮らしたいかい、デューイ? 別にそれでも構わないんだ。本来なら、あんたはこうして光の中で暮らして行ける人間だったんだし」
 優しい口調で、舜は言った。
「ぼくは……」
「まあ、どっちにしろ、ここから出る手段が見つかるまで、ここにいるしかないことだし、答えを急ぐ必要はないさ。――オレは探し物があるから、もう行くぜ」
「探し物?」
「伝説のオオハマグリさ」


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