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Karte.11 黒魔術の可不可―悪魔

黒魔術の可不可―悪魔 20

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 夜の十時を過ぎた頃――。
「春名――」
 霧谷笙子きりたにしょうこは、マンションのエントランスを出て、闇に消えて行くその人物に、思わず声をかけそうになった。
 暗い夜のこととはいえ、マンションの明かりも灯る中、全くの別人を春名と見間違えてしまうなど――。しかも、今、笙子に背中を見せて通りの向こうへと消えて行こうとしている人物は、男ではなく、女。常夜灯のわずかな明かりの中とはいえ、今ならそれも難なく判った。それなのに、何故、その女が春名に見えてしまったのだろうか。
 ――欲求不満?
 だが――。
 言い訳のようになってしまうが、ほんの一瞬、その人物を見た時、春名に似ているような気がしたのだ。もちろんそれは刹那のことで、笙子もすぐに間違いに気付いたのだが。
 今見ても、それほど似ているとは思えない。性別だけでなく、身長も、年齢も……。
 ――これは本当に欲求不満かも。
 心の中でそう呟き、笙子はマンションのエントランスへと足を進めた。
 笙子は、クリニックを開業するセラピストである。美人セラピスト、と紹介してもいい。――いや、もちろん自分ではそんな紹介の仕方はしないが。
 今日もこの時間まで有閑マダム達の愚痴を――悩みを聞き、疲れ果てて帰って来たところである。だから、見間違えてしまったのかも知れない。日々の仕事の疲れのあまり……。
「仁くんの作ったお味噌汁でも残ってたら、飲ませてもらおう」
 エレベーターがフロアへ着くまでの間にそう考え、笙子は片手で肩を揉んだ。
 忙しいのはいつものことだが、土曜日だというのに午前中の予約だけでは終わらず、某政治家夫人に呼び出され、今まで話相手をさせられていたのだ。豪華な食事とワインも付いていたが、肩も凝るというものである。今はただ、あたたかいお味噌汁が飲みたい。
 そんな訳で、自分の部屋に戻る前に、春名の部屋のチャイムを鳴らしたのだが……。
「仁くんは出掛けていていないぞ」
 部屋から出て来た春名は、そう言った。
 同じフロアの向かいの部屋に棲む青年精神科医は、その秘書の少年に、家事の一切を頼っているのだ。そして、笙子もそのおこぼれにあずかっているのだが……。
「お味噌汁も?」
「それはある」
「自分で温めるから、上がるわよ」
 勝手知ったる他人の家――。笙子はさっさと上がり込み、キッチンへと直行した。するとそこには、『SAVON NOIR』の見知ったボトル――。
「あら、これって、引越しのご挨拶でいただいたものよね」
 そこまで言って、笙子はマンションのエントランスから出て来た婦人が誰であったのかに、やっと思い当たったのだった。
 あの、春名と間違えそうになった婦人は、つい数ヶ月前に越して来たばかりのこのフロアの住人、斉藤鶴江だった。
 だが、あんな感じの婦人だっただろうか。
 年は五十代で、もっと肥えて、いかにもよく喋りそうな顔つきの婦人だった。それこそ、笙子のクリニックにも多くいるような――。
「この『SAVON NOIR』で思い出したんだけど、さっきねェ、このマンションのエントランスで――」
 笙子は、全く似ていない別人を、春名と間違えそうになってしまったことを話して聞かせた。
 もちろん、味噌汁を火にかけて、温め直すことも忘れてはいない。
「――ちょっと待て。相手は女で、しかもあの占星術師だろ? どこが俺に似てるんだ?」
 不満そうな春名の問い返しも、当然のことだったかも知れない。
「そうなのよ。よく見たら全然似てないのに、エントランスの逆光でマンションから出て来るのを見た時、何だか似てるような気がしたのよ。――私も欲求不満が溜まってるのね、きっと」
 もちろん、春名へ向けての皮肉である。
 温めなおした味噌汁をお椀に入れて、ダイニングテーブルに持って行くと、笙子はその欲求不満を解消するように、春名の唇に口づけた。
 もちろん、春名も拒まない。今日は、あの小姑のように煩い仁も、出掛けていていないのだから。
 味噌汁の椀をテーブルに置き、深く唇を重ね合わせる。
 こんな時間は、随分久しぶりのような気がしていた。
 あの日から――。
 春名の口から、結婚は考えていない、と言われた、あの日から――。


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