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Karte.10 天才児の可不可―孤独
天才児の可不可―孤独 22
しおりを挟むそれから、暁春は必要な荷物をまとめて、春名のコンドミニアムに移り住んだ。
もちろん、母親が戻って来た時のために、連絡先を残しておいた。
冷蔵庫の中身を処分し、ゴミを捨て、鍵のかけ忘れがないか、確かめた。二人暮らしで身に付いた習慣だった。
そんな暁春の様子を、春名は感心するように眺めていた。こんなことは、生活して行く上では基本的なことだというのに。
そして、知ることになるのだ。
春名のコンドミニアムには、生活感のあるものが、余りにも少ないことを――。
冷蔵庫はあるが、ビール以外に中身はない。調理道具などもちろんないし、コーヒーメーカーはあるが、誰かが淹れてくれないと飲まないのではないか、と思えるほどに使い慣れていない。
部屋が片付いているのは、ハウスキーパーが来た後だから、というよりも、寝る以外のことに使っていないからではないか、と思えてしまう。
「――もう夕飯の支度をしないと、食べるのが夜中になるのに……」
学校が終わり、暁春の家に寄っていただけでなく、春名が病院に戻ったりもしていたので、すっかり遅くなってしまったのだ。
取り敢えず、暁春の荷物を部屋に運び、今度の休みに物置になっている一室を片付けて、そこを暁春の部屋にしよう、ということになった。
それで、時間も時間だし、夕飯作りの手伝いをしなくては、と、暁春はキッチンに来たのだが……そこには見事に何もなくて……。
「ああ、もうこんな時間か。お腹が空いただろう。すぐに食べに行こう」
当たり前のように、春名が言った。
「……食べに?」
――外食なんて、高くつくのに。
母親はいつもそう言って、不経済な外食は、何か特別な時だけと決まっていた。
「何が食べたい? 中華でも、和食でも――」
「何でもいい」
きっと、いつもこんな時間になるのなら、作っている暇もないのだろう。後片付けだってしなくてはならないし――。暁春が来たことで、今以上に時間を取らせてしまうことは出来ない。
――いい子でいなくては……。
そう思ったのだが――。
「何で、あっちの灰皿に煙草を置いたまま、こっちでも火を付けてるんですか!」
「スプレー缶をゴミ箱に捨てないでください、って言ったじゃないですか」
「また靴のままベッドに横になったでしょう? シーツが泥だらけでしたよ」
「洗面所に歯磨き粉を落としたら、ちゃんと流しておいてください、って言ったじゃないですか。夜帰って来た時には固くなってるんですから!」
「靴下はベッドの中で脱がないでください」
「ズボンと上着は、必ず渡してください。シワにならないように掛けておきますから」
その他にも、あれも、これも……。
週に一度、ハウスキーパーが来て、契約通りの清掃をしてくれるとはいえ、日々の春名の生活には、目に余るものがあり過ぎた。
きっと、何もやる必要がない裕福な家庭に生まれ育ち、何もしなくても日々の生活が送れていたのだろう。
食事はいつも外食で、下着以外はクリーニング、忙しくて自分で出来ないことは、全部お金を払ってやってもらう――そんな生活をしていてお金が続くのだから、余程お金が余っているか、貯金などというものはしていないに違いない。
どこもかしこも、暁春がいなければあっと言う間に汚くなるし――。
――暁春がいなければ……。
――ぼくがいなければ、ドクター・春名は、昨日外したネクタイの場所だってわからないんだから……。
本当に春名は、暁春が何を言っても生返事だけで、何から何まで暁春に任せて――暁春をあてにして、頼ってばかりで……。
――頼られてる……。
文句を言いながらも、そんな日々が何だか少し、楽しかった。
そして、暁春がこれだけ毎日うるさく言っても、春名はただの一度も、暁春に母親が出て行った理由を訊くことはしなかった。
一度くらい、小言の腹いせに、冗談ででも訊いてくれれば、今なら話してしまえそうな気がするのに……。
こんなに何でも言えるようになった、今なら……。
「――仁くん」
やっと、その話だろうか。――そう思ったが、
「今日は小言はないのか?」
「……」
――なあんにも出来ない、精神科医のクセに……。
やっと、あの日こぼせなかった涙が、溢れて、来た……。
――役立たずの精神科医のくせに!
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