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Karte.6 不老の可不可-眠り
不老の可不可-眠り 7
しおりを挟む「……先……生?」
春名の瞳が揺れ動いた。
「春名先生です。精神分析学者で、精神科医の――。ぼくは仁です。先生の秘書の仁です。覚えているでしょう? 思い出すでしょう?」
仁は早口に言葉をまくし立てた。
だが、春名の瞳は戸惑うばかりで、苦しげに面を歪めている。
部屋は、沈黙に、包まれていた。
「先生……。ぼくと先生は、夏期休暇でモスクワに来ていて、今日はチャイコフスキー博物館に行く予定で――。酷い嵐で道に迷って、森の中で雷を受けた木が車の上に倒れて来て――」
「……雷?」
「そうです。先生はぼくをかばって怪我をして、ぼくは無傷で……。先生だけが……」
「俺が……君を……?」
「そうです。思い出すでしょう?」
「……。俺が……君を……。解らな……。思い出せない……」
春名は苦悩するように、頭を抱えた。
心が砕けてしまいそうになる刹那だった。
仁にはその言葉を受け入れることはもちろん、信じることも出来なかった。
「先生――っ。ぼくです! 仁です! 思い出してください――っ」
と、ベッドに乗り出し、春名の肩につかみ掛かる。
忘れるはずがない――忘れられたくない――ただそれだけの想いだったのだ。
「何をするんだ! 彼は怪我をしているんだぞ」
ニコライが、取り乱す仁を見て、ベッドの脇から引き離す。が――。
「放せ――っ!」
仁はその手を振り払った。
「先生! ぼくですっ。仁です。思い出すでしょう? 忘れたりしないでしょう? 先生の秘書の仁です!」
と、再び、春名の前へと身を乗り出す。
「……レ……ン?」
「そうです。仁です。ぼくと先生はシカゴにいた頃から一緒に暮らしていて――」
「シカゴ……? 俺が君と一緒に……?」
「そうです。今は日本で暮らしていて――」
「くっ……。やめ……。判らな……い……」
春名の表情が、痛みにきつく強ばった。
何も思い出さない、というのだろうか、彼は。
もう仁のことすら忘れてしまった、と。
「そんな……」
森に一人で放り出された仔犬のように、仁は呆然と立ち尽くした。
「嘘……でしょう……? ぼくを思い出さない……なんて……。嘘でしょう……先生……? そんなの……」
「……」
「ぼくと先生はUSAで出逢って――。あの教室で出逢って、それから――。ぼくが小さい頃からずっと一緒に――。もう何年も一緒に暮らして来たのに! そんなのって――っ」
「――っ!」
激しく肩に食い込む指に、春名の喉が苦鳴を上げた。
「やめないかっ!」
再び、ニコライが止めに入る。
「いやだあああ――――――――っ!」
仁は、心が砕けんばかりの叫びを上げた。身を捩りながらニコライの手を振り払い、春名の元から離されまいと、激しく暴れる。
「落ち着くんだっ。彼は目を醒ましたばかりじゃないか! もう少し時間が経ってからでも話しは――」
「いやだ――っ。放せ――っ!」
「君――」
「あなたになんか解らない! ぼくには先生だけなんだっ。もう先生しかいないんだ! 母さんがぼくを捨ててから、先生だけが全てで――。先生っ! 春名先生!」
「やめないか! 彼は怪我人だぞっ。そんなことも忘れたのか!」
「――」
ニコライの言葉に、仁は、喉の声を圧し潰した。
怪我人を責め立て、追い詰める自分に――それに気付いて、冷たい床に座り込む。
雨の音が、強く、なった。
記憶さえも洗い流してしまう、冷たい雨……。
「先生……。先生がぼくを忘れたら、ぼくはどこへ行けばいいんですか……?」
――ぼくはどこへ……。
もう行く所などないというのに……。
仁は、唇をきつく噛み締めた。
父親でもなく、兄でもなく、恋人でもなく……その春名が仁のことを忘れてしまったら、仁の居場所はなくなってしまう。
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