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Karte.4 児童精神医学の可不可-他人
児童精神医学の可不可-他人 25
しおりを挟む「見えるだろう? 真っ赤な血だ。――その血はどこに付いている?」
「……どこに?」
どこにそんなものがついているというのだろうか。もしかして、目が開かないのではないか、とも思ったが、以外にもすんなりと瞼は上がった。
それなのに、体がだるい。
「手だ。君の手に赤い血がついている。手のひらが滴る血に塗れている……」
まさか。そんなことがあるはずもない。あの血は車に付いていたもので、ブライアンは触ってもいないのだから。――いや、触っただろうか。車を洗う時に――。
「手……」
ブライアンは、両手をのぞき込んで、呆然とした。
「手だけではない。顔にも、足にも、体中に……。すべてが血に濡れ染まっている。洗っても落ちない血だ。何度洗っても、その血は消えない。また、体中を赤く染める……。洗っても、洗っても……」
「う……あ、あ……。血が……。血が……。あ……あ……」
血を落とすために、ブライアンは懸命に体を擦り始めた。汗を浮かべて、何度も何度も、自分の体を洗い続ける。
強い幻覚剤と、闇の中の催眠術に囚われた神経は、最早、正気に戻る術もなかった。
「……」
春名は冷ややかな眼差しで煙草を投げ捨て、くるりとそこから翻った。
後には、体を洗う狂人だけが取り残された。
そして、夜は、明けた……。
夏の陽差しも強まった頃――。
病院の中庭の芝生に座り、葉は黙々と絵を描いていた。一部分だけが――興味のある部分だけが細かく描かれた、自閉症児特有の絵である。
春名は木陰のベンチに腰を下ろし、その姿を黙って見つめていた。
最近は、こんな時間を楽しんでもいる。
しばらくそうして過ごしていると、仁が紙切れを手に姿を見せた。
「先生、車の修理代の請求書が届いてましたけど……」
と、心配げな顔でのぞき込む。
「ああ。少し打付けて傷がついた」
春名は軽い口調で受け応えた。
「この修理に出した日付って――。まさか、あの男が何か――」
「大丈夫だよ。怪我も何もしていない。――君の方こそ腕を吊っていなくてもいいのかい?」
と、煙草を抜いて、話を変える。
「……本当に大丈夫だったんですか?」
仁はまだ心配げに、眉を落として、そう訊いた。
「ああ。医者としての腕には自信がある」
「それならいいですけど……」
木洩れ陽が、風に透けて揺らめき、騒ぐ。
翠色の眩しい風が、今日も心地良くすり抜ける。
「――ほら、葉くん、バッタだ」
芝生に跳びはねるバッタを見て春名が言うと、葉は、何とも愛らしく、きょとん、とした。
そして、その戸惑いもつかの間、小さな手に持つクレパスを放し、バッタを捕まえようと手を伸ばした。
だが、あまりに遠慮のないその動作に、バッタはすぐさま跳びのいてしまう。
「クックッ……。こうして捕まえるんだよ」
春名はそっと側に近づいて、芝生に溶け込む小さなバッタを手に収めた。
「さあ、手を出して」
と、バッタを葉の手の中に移し変える。
「……ハルナセンセー、ありがとー」
葉が、愛らしい瞳を持ち上げた。
――え……。
刹那、出合ったその視線に、春名は、呆然と動きを止めた。
どう言えばいいのだろうか。
視線が合ったのだ。
適当な言葉が見つからないが、確かに葉と目が合った。そうとしか言いようがない出来事だったのだ。
他人と関係のない世界に住む彼と、今日、ほんの少し世界が重なった。
「先生……」
仁が呟くように、言葉を落とす。
春名は、その声を心地よく聴きながら、夏の陽差しに心を溶かした。
彼らは、たった一つの言葉や仕草が、どれほど医者を喜ばせるか知っているのだろうか。
彼らに存在を認められたということが、どれほど医者を勇気づけるかを……。
《選ばれてあることの恍惚と不安と、二つ我にあり…… ヴェルレエヌ》
もう、夏……。
完
※次回『Karte.5 多重人格の可不可-交代』を掲載します。
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