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Karte.3 沈黙の可不可-声
沈黙の可不可-声 19
しおりを挟む仁が梯子を持って戻って来たのは、その後すぐのことだった。
飛んで行った風船は、木に引っ掛かることもなく、夜の中へと消えている。
「あーっ。風船、風に飛ばされちゃったの、ランディ?」
風船が絡まっていたはずの木を見上げ、仁は、落胆を露わに肩を落とした。
せっかく梯子を持って来たというのに、木の枝には、すでに風船の姿はなかったのだ。
「……ぁ」
ランディが真摯な瞳で口を開いた。
「え?」
微かに聞こえたその声に、ランディの方へと視線を向ける。
「あぅ……な……」
「え、何、ランディ?」
「あ……ぅ。あぅ……な……っ」
ランディが聞き取れる言葉を口にした。
「すごいや、ランディっ。声が出てる。思った通りの声だ」
仁は、ランディと同じ高さに身を屈め、小さな手を握り締めた。歓びのままにはしゃぎ回り、ランディの体を抱き締める。
だが、ランディは、ブンブンと首を振り、
「う……っ! レン……。ハルナ……。ハルナっ」
「聞こえてるよ。――そういえば先生は?」
ランディの言葉に眉を寄せ、仁は辺りへ視線を巡らせた。
春名の姿は、見当たらない。
そして、柵の側には、見慣れた上着だけが残っていた。春名の着ていた上着である。しかも、柵は壊れている。
――え……?
「レン……。ハルナが……っ」
ランディが同じ言葉を繰り返す。
その時の心境を、どう表現すればよかっただろうか。
落ちた、のだ。
春名は柵の向こうへと飲み込まれてしまった。
思いもかけない出来事に、全身が瞬く間に震えだした。
膝が笑い、心臓がこれ以上はないほどに早鐘を打つ。
「せ……。先生――っ!」
仁は、すぐさま柵の側へと駆けつけた。と、その時――、
「仁くんか。手を貸してくれ」
崖の下から、聞き慣れた声が、耳に届いた。
どういう状況かは判らないが、無事であることは間違いない。
見れば、春名は崖に張り出した木の根につかまり、ぶら下がっている。どうやら、断崖の下まで落ちずに済んだものの、声を出せばランディが近づいて来て危ないため、仁が戻って来るのを、ずっとそこで待っていたらしい。
――無事……。
仁は断崖に春名の姿を確認して、胸が詰まるような思いで、手を伸ばした。心臓は、まだ激しく脈打っていたが、ただ春名を引き上げるのに夢中で、そんなことを考えている余裕など、全く、なかった。そして、春名が無事に登り着いたのを見て、ペタン、とその場に座り込んだ。
頭の中が、真っ白に、な、っ、た。
「ハルナっ。ハルナ……っ」
ランディが、春名の胸へと大きく飛び込み、泣きじゃくりながら、しがみつく。何度も鼻をすすり上げては、春名の汚れたズボンを握り締める。
「心配かけたな。この通り無事だ」
春名は軽く笑みを渡し、ランディの頭を優しく撫でた。とはいえ、内心もその表情ほど穏やかであったとは、言い難い。
いくら春名でも、こんなショック療法は心身に悪い。何しろ、手足は擦り傷だらけで、治療対象たるランディだけでなく、春名自身にもショックがあったのだから。
少しすると、ランディが春名のズボンから手を放した。
春名はもう一度ランディの頭を優しく撫で、仁の方へと視線を向けた。
仁は、まだその場にペタンと座っている。
「大丈夫か、仁くん?」
歩み寄って声をかけると、仁は微かに唇を動かした。
だが、声は、ない。
「――仁くん?」
「……」
瞳だけが、すがり、つく。
「声……は? ――仁くんっ! 何か喋ってみなさい! 早く!」
春名はその様子にハッとして、仁の肩を揺さぶった。
「ぼくが……」
「仁くん――」
「ぼくが失語症になったらどうするんですかっ!」
仁の怒りが爆発した。
どうやら、今回の一番の被害者は、仁らしい。
「……。その時は俺が治してやるさ」
春名は、不敵な眼差しで、請け負った。
夜の海に、波が飛沫を上げて、心地よくざわめく。
ランディが仁の傍らに来て、ちょこん、と座った。
「レン……」
「……良かったね。君が教えてくれたからだよ、ランディ」
仁は、ランディの涙を拭いながら、優しく言った。
「ぼく……?」
「ああ、そうだよ、ランディ」
ああ、そうだよ、ランディ……。
初夏の肌寒い別荘地は、穏やかな温もりに包まれていた……。
完
※次回『Karte.4 児童精神医学の可不可-他人』を掲載します。
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