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Karte.1 自己愛の可不可-水鏡

自己愛の可不可-水鏡 10

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「先生は……笑うと少し兄さんに似てる」
 安堵するような眼差しで、珠樹が言った。その表情には、焦がれ、というものも混じっていたかも、知れない。
「安心出来るということ? それとも、そういう仕草だけ?」
 春名は訊いた。
「また質問ですか?」
 皮肉げな口調だった。
「クックッ」
 春名は笑いをかみ殺し、持て余した指をこめかみに、当てた。
「そういうちょっとした仕草が、似てる……」
 ――似てる……。
 彼の基準は全て、兄、なのだ。
「冬樹君の帰国は?」
「三週間後です。でも、ぼくがミラノに行かなければ、すぐに戻って来る」
「仕事を放って?」
「ぼくが心配だから。――先生も兄弟が入院したら、仕事を休むでしょう?」
「……」
「どう思われてもいい……。ぼくは冬樹がいないと生きていけない。ぼくは冬樹の半身だから……」
 珠樹は自嘲のように、視線を落とした。
「君は一人の人間で、大人だ。ぼくは同性愛を非難している訳でも、一人で生きろと言っている訳でもない。一人の人間としての自覚を持つべきだ、と言っているんだ。――解るね?」
 それが理解できなければ、この問題は解決しない。もちろん、この二十数年間、信じ続けて来たことを、急に変えられはしないだろうが。
 珠樹も黙って瞳を伏せている。
「顔を上げて……」
 その珠樹の頬に手を伸ばし、長い指を静かに重ねる。
 戸惑うような瞳が持ち上がった。頬にはうっすらと朱が差している。
「君に触れているのはぼくの手だ。解るね?」
「……はい」
「冬樹くんの手が触れていても、それは別の人間の手だ。解るだろう?」
「……」
「もっと自分に自信を持つといい」
「……自信?」
「ああ。自惚れる必要はないが、君は魅力ある一人の人間だ。君が認めていなくても、俺がそれを認めている」
「先生が……?」
 珠樹の表情が、茫と変わった。
「ああ。君は聡明で、頭のいい人間だ。自信がつくまでここにいなさい。看護師が喜ぶ」
「え……っ。そんなことっ」
「クックッ。――行っていいよ。今日はもう何も訊かない」
 春名は、珠樹の頬から手を離し、煙草を銜えて席を立った。
「あの――。何かテストをするんでしょう? DSM……何とかを元にした、そういう――。NPIとか、ロールシャッハとか。先生の本に……」
「ん、ああ。必要な時は」
「じゃあ、診察は今のだけですか?」
「今のだけで給料をもらっている医者は楽に見える? ――それとも、ぼくに何か話したいことが?」
「……」
「その気になったら話すといい」
 実際、気が長くなければ、目に見えない病気など扱っていられない。そして、患者のペースに合わせてこその治療でもある。
「……先生は毎日?」
 まだ何か言いたげに、珠樹が言った。
「毎日、という訳には行かないが」
 外来もあるし、入院患者の病室ばかりを回ってはいられない。
「……。シカゴにいらしたでしょう? 大学時代からずっと」
「ん、ああ。君たちの先輩に当たる訳だ」
 彼らと春名は、同じ大学の出身になる。もちろん専攻も違い、十年という年の開きはあるが。
「ぼく、先生の本、読みました。『自己病理学セルフ・パソロジー』『自由意志フリーウィル率先性イニシャティブ』『自己愛ナルシズムの数式』『正常ノーマル異常アブノーマルの公式』……。他にも――」
「……」
「先生に会ってみたいと思っていました。先生と日本の病院で会えるなんて思わなかった」
 熱心に頬を紅潮させ、珠樹は憧憬の眼差しで春名を見上げた。
「君自身の意思で会いたい、と?」
「あ、はい。母から先生の名前を聞いて。それでここに……」
 話は、またしばらく続くことになった。
 その話の間、珠樹はここでの治療に不満を見せる様子はなく、むしろ、楽しみにさえしている様子で、熱心に言葉を綴っていた。
 だが、彼が治療を受ける気になっていても、彼にはまだ、切り離すことの出来ない兄がいるのだ。
 春名はその問題を見つめるように、銜えた煙草に火を点けた。


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