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Karte.13 籠の中の可不可―夜明
籠の中の可不可―夜明 47
しおりを挟む「リカントロピー?」
「人間が獣化する――自分が人間ではなく、野生動物だと思い込む精神疾患だ。他人に対して狂暴になったり、幻覚を見たり――。過去の症例では、自分に爪が生え、鋭い牙と毛に覆われ、生贄を探していると信じているものもあった」
春名が言うと、
「十七世紀のフランスでも、十三歳の少年が、五十人以上の子供を襲って、その肉を食べる、という事件があったな。森の精に狼の毛皮を渡されてから、自分は狼になった、とか言って――。周囲の証言でも、夜中に少年が駆け回ったり、生肉を食べているのを見たとか」
沼尾が言った。彼は民俗学にのめり込む中で、人狼伝説や信仰にも、やはり興味を持って調べていたのだろう。
残念ながら、こちらは病気であるとは認められず、死刑にされてしまったが――。
「――この里には、そんな精神疾患を持った人たちが暮らしているんじゃないのか、イサク君?」
振り返りもしないイサクに、春名が問うと、
「……そんな病気があるんですか?」
初めて聞く病に驚くように、イサクが訊いた。
「ああ。リカントロピーを発症した人の多くは、自分を野生動物――中でも狼だと信じていることが多い。狂暴になり、人を襲うこともある。――そんな人間が、この里の中にいるんじゃないのか?」
そう考えれば、辻褄が合う。熊の獣害で死んだとされる小春の父親や、今朝――いや、昨夜の助川――。彼らが獣を装った爪や牙で殺され、それが精神病に侵された人間の仕業だったとすれば……。
「リカントロピー……。化け物じゃなく、病気……」
「恐らく、この里の人たちは、ずっと昔からその病気のために、村から隔離されて生きて来たんだろう。――違うかい?」
「……」
「さっき、仁くんが見たという獣人もその一人だ。君たちは、自分たちが人狼だという妄想型の病を持ち、それ故に山査子の垣根を越えられない。山査子は魔除けの象徴だからね」
旧約聖書ダニエル書にまで遡ってみることが出来るこの精神病は、ネブカドネザル王が自らを狼であると思い悩んだように、狼男や人狼伝説の一端を担うものでもある。
「そして……」
春名は、イサクの前に立ち、
「君には双子の兄弟か、年の近いよく似た兄弟がいたんじゃないのか? 子供の頃に村の人たちに殺されたという、あの――。あれは君自身ではなく、君の兄弟だったんだろう?」
でなければ、生き返ってここにいることの説明がつかない。
あの時殺されたのは、ここにいるイサクではなく、また別の子供だったのだと――。
仁も沼尾も、イサクの答えを待っていた。
だが――、
「ハルちゃんが来る。――行かないと」
そう言って、再びイサクは歩き始めた。
長年の籠の中の生活と、村の人たちへの恨みは、そんな病気の判明くらいで揺らいだりするものではないのだろう。
だが、だからと言って、このまま何も出来ないままに、ただついて行くしか出来ないのだろうか。もちろん、イサクが言ったように、小春がそこへ来るのなら、春名たちもそこへ行くしかないのだが……。
イサクの後について行くと、小道から、また道なき森へ入り、木々の合間を通り抜けた。森の中など同じようにしか見えない三人には、この辺りがどこなのかも全く不明で……。
「代わろう」
草が膝丈まで生い茂る森を歩きながら、春名は、仁を背負う沼尾に言った。
すると――、
「静かに――。この先は大きな声を立てないでください」
イサクが言った。そして、辺りへ目配せする。
見れば、木々の陰にぽつりぽつりと、人が隠れているのが目についた。里の麻布で作った服なのか、生成りの質素な装いは、森の木々に同化して、意識して目をやるまで気付かなかった。――いや、彼らの気配そのものが、この森に同化しているのかも知れない。
「先生、向こう……」
沼尾の背から下りた仁が、木々の向こうの明るくなっている方を見て、小声で言った。
「ん?」
同じ方向に目をやるが、春名には――もちろん沼尾にも、何のことだか解らない。
「あの先にある木、山査子ですよ」
二人の表情を見て、仁が言った。そう言われても、遠くに少し見える葉の切れ端だけでは、仁のようには見分けられない。1=1+αの能力が薄れようと、彼のずば抜けた記憶力やIQの高さは健在なのだ。
「じゃあ、ここは……」
「多分、あの小川の向こう側です」
あの、村と森のボーダーラインたる、小川と山査子の……。
イサクが足を止めると、周囲の木の陰に隠れていた里の人々が静かに集った。
「おい、イサク、本当に大丈夫なのか?」
集まってきた中の一人の青年が、春名たちの方へと目を配りながら、イサクに訊いた。村の人間でないとはいえ、余所者が森にいることが不安なのだろう。
「この人たちがいないと、ハルちゃんが一人になる……。町の児童施設とか、ハルちゃんがちゃんと生活していけるように相談に乗ってくれる人たちなんだ」
「そうか」
青年の顔も、優しくなった。――そう。彼らは優しい人間なのだ。そして……。
「先生、ぼくには彼らがリカントロピーだとは思えないんですけれども……」
仁が言った。
「俺もだ」
自らを野生動物――大抵が狼であると思い込むこの病気は、精神的な不安を伴い、他人に対して狂暴で、倒錯的な性癖を発症するケースもある。
だが、目の前にいる里の住人たちに、そんな症状は見られない。少なくとも、ここに集っている十数人は、そんな精神疾患とは無縁の、穏やかな住人のようである。
なら、彼らは一体……。
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