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6.愛しいことば

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家に着いて暫くしてインターフォンが来客を告げる。玄関で出迎えた人は、昨日と同じベージュのスーツ姿で深々とお辞儀をした。居間に案内して、机を挟んで私と男の前に座った加東さんは、差し出したお茶を丁寧な所作で一口飲んだ。昨日この街にやってきた彼女は、近くのホテルで一泊したらしい。逃げ出したことへ謝罪を告げると、ただ、優しく微笑んだ。

「…私は、東明さんの主治医でした。最初に東明さんがうちの病院を訪ねてきたのは、確か去年の夏頃だったと思います」

「去年の、夏…、」

「健康診断で再検査に引っかかったのだと仰ってました。出来る限り遠い場所で、誰にも見つからないように検査をしたかったと言った彼は、もしかしたら何か勘づいていたのかもしれません。うちで2週間ほど入院して精密検査した時には、発見しにくいと言われている膵臓の癌は、骨にも転移していて、ステージⅣの状態でした」

嘘つき。何が、バカンスだ。
母が検査入院でさえ相当怖かったと言ったのを思い出した。
シノさん。どんな気持ちで1人、その事実を受け取ったの?


「診断結果をお伝えした私は、すぐにこのまま入院の手配を進めるつもりでした。ですが、治療をするつもりは無いと。彼ははっきり、そう言いました」

『加東さん、死ぬのは怖くないです。愛する妻の元へ行けるから』

「自分の現状を受け入れられず、治療を受ける気力さえ湧かない。そういう患者さんは、いらっしゃいます。でも、あんな風に、ただ静かに自分の死を待たれる方は、そうはいません。私はどうしたらいいのか、分かりませんでした。大学は、今年中には退職する予定だと、身辺整理をして最後は旅でもしながら死んでいきたいと。そういう終わりは、格好いいでしょう、と。…不自然なほどに、穏やかな笑顔でした」


私も、隣の綾瀬も、言葉を発することができない。シノさんの気持ちを図ろうにも、あまりに困難で、その場から動けなくなかった。


「…だけど。11月頃、でしたかね。急に連絡がありました。──治療は間に合うだろうかと」


『とてもお恥ずかしい話ですが僕はね、ずっと視野を広げようと思ったことは無くて、自分の研究と、妻が傍にあればそれで良いと思っていました。でも妻を失って、少しずつ、世界というものを見てみようかと。そう思いながらも方法が分からず模索していた時に出会った子達が居ました。人生の集大成、じゃ無いですけどね。最後にこの子達を助けて、颯爽と去る、みたいな。そういう終わりも格好良いかなと、思っていたのに。
とても、誤算でした。出来る限り、この子達のことを見ていたい、傍に居たい。どうしてかなあ、一緒にいればいる程、そればかりが膨らんで。──少しでも長く生きていたい、そういう理由を僕は今更、見つけてしまいました』


シノさん。シノさんはずるいよ。私だって、綾瀬だって、シノさんにはもう、何度も恥ずかしいところばかり見られてきたのに。自分はそんな風に、勝手に覚悟を決めて。一緒に、戦いたかった。

「…だから、“休職“だったんですね」

ポタポタと、ただ涙を落とす私に、隣から確かめるような掠れた声が聞こえた。大学は、いつの間にか休職届を出していて、自分の知り合いの教授に、ゼミの引継ぎを済ませて。

『綾瀬。僕ね、此処に、意地でも戻ってきたいんだよ』

出発前に異変を感じて問いただした綾瀬に、シノさんはただ静かに笑って伝えたらしい。

「…捜索願なんか、出してなかった」

「、」

「……もっかい、あの人に会えるって、俺は、信じていたかった」

苦しそうに呟いた綾瀬は左手で目元を覆って、震える声で言葉を落とす。私は、馬鹿だ。

此処に縋り付いていたいのは自分だけだと、そう思っていた。──違う。この人はずっと、葛藤の中で、それでもちゃんと、シノさんを信じて前に進むことも止めなかった。


「最後まで、彼はどんなに辛い治療も諦めませんでした。身体の強く無い東明さんは、体力も免疫力も低下して、治療を一時的に中断しなければならないくらいに過酷な状況下もありました。それでも、弱音を吐きませんでした。強い強い、意志を感じていました。

──東明さんは、貴方達に、会いたかったのね」


私と綾瀬をその視界に収めた加東さんは、濡れた瞳のままで優しく微笑んだ。
そうだ、あの日の朝。シノさんは「行ってきます」と笑っていた。シノさん。私も、もうずっと会いたくてたまらなかったよ。






いつもの縁側で、ぼうっと庭の生きる様を見ていた。これから夏が来る。新緑の季節への期待を孕んだ木々の様子も、その傍で咲いている桔梗の花も。やっぱり、あの人と、一緒に見たかった。

「……桔帆」

隣にしゃがむ、いつも不機嫌そうな男。その大きな手には、1通の手紙が握られていた。加東さんが帰り際に、私と綾瀬に渡してくれたものだ。あの、お日様の言葉が、此処には書かれている。

「…開けるの怖い?」

「怖いよ。綾瀬。私は、シノさんがいないって、認められる気がしない。いつかそれを立ち直って生きていく、そういう自分を想像、したくもない」

どうしたって、私は結局弱い。膝を折って座りながら、本音を漏らす私を男は暫く見つめて。だけど何を思ったか、言葉をかけること無く、急にかさりと本当に軽く、その封を開けた。驚いて思わず顔を上げてその様子を見つめると、綾瀬はその内容を確認して、切れ長の瞳を細めながら笑った。

「お前は、まだまだだな」

「は?」

「桔帆。今日は立ち直れないくらい悲しくても、明日はちょっとマシかもしれない。でもまた、その次の日は悲しくてたまらないかもしれない。それを繰り返す時、1人じゃなければ、頑張れる?」

「、」

低くて少し掠れた声。だけど包み込むような言葉が、何故だか酷くあのお日様を思わせた。そのまま再び笑って、綾瀬は私に手に持っていた紙を渡してくる。震える手でそれを開けば、いつも見ていたものより筆圧が薄い、線の細い字。だけど、とても彼らしい字。

たったの、3行。


《綾瀬 桔帆
大好きな俺の死を、1人で悼んだりしないで。
2人で、一緒に泣いてよ。》

──とても愛しいことばだった。


「…大好きって、自分で言う…?」

「…だからお前は、まだまだあの人を分かってねえよ。先生がそんなお堅い遺言書、書くわけねえだろ」

手紙を握る手に、力があまりにもこもる。

あの人は、愛する人との2人だけの世界を、最初は選んだ人だから。その幸福さも、だけど過酷さも、知っている。あの日の海で一緒に泣いた、シノさんからの言葉。 

"狭い世界に、閉じこもっていたりしないで"

彼だから言える、そういう言葉に思えた。

「……綾瀬」

「……」

「寂しい」

「うん」

「…もっと、シノさんと一緒に、居たかった、」

「……うん」

ぽつりぽつり溢れる言葉が、縁側に纏う穏やかな風に包まれている。まるで、シノさんそのものみたいな優しさを肌で感じていた。

「………綾瀬、一緒に、頑張ってくれるの…?」

この悲しみを、克服なんてできなくても。少しずつ、受け止めて、生きていくことに。
綾瀬は、尋ね終えたその瞬間、私を引き寄せて抱きしめた。

「……遺言だからな」

「……これ、そんな拘束力ある?」

「知らね。でも、俺がそうしたいから、そうする」


綾瀬の声も、とても珍しく震えていた。
私たちは、とても穏やかで、シノさんが好きだった縁側で。1人じゃ無い。2人で、お互いの涙を共有した。


シノさん、この人に出会わせてくれてありがとう。私が貴方の居ないこの世界に立ち止まりそうになる時。この人はきっと、いつだって付き合ってくれる。

「シノさんが居なくて悲しい」

そう言い合えるこの人が、私はとても大事だよ。





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