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5.迫るタイムリミット

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"バカンスに行ってくる"

いつものようにそう告げて、出かけたシノさんはまだ帰って来ない。私は、高校3年生になって、綾瀬は大学院2年生になった。あの男は今も変わらず夜な夜な研究に励んでいる。瀬尾さんと一緒に、研究会や学会で発表する資料を作っている日もある。

だけど、シノさんは帰ってこない。携帯も繋がらない。

『……警察に、言った方がいいのかな』

寒さが厳しくて、縁側から見える庭の木々が泣いているように葉擦れを起こす。そんな夜に震える声で綾瀬に言った。冷やされた床板は、足先から身体全てを凍らせてしまう。
振り返って、私を射抜く男はいつものように無表情を貫く。だけどそれが冷たい、とはもう思わない。

『…お前も家出娘のくせして何言ってんの』

『、』

『お前はなんもしなくて良いよ』

『……でも、』

『警察には俺が行くから、ガキはもう寝ろ』


不安な表情を隠し切れない、私のそんな顔を見て綾瀬はふと笑う。ぐしゃぐしゃに髪を乱す男は、そう言って自分の部屋へと戻って行った。

"お前はいつまでここにいる気なの?"

綾瀬は、一度もそうは聞いて来なかった。あんなに最初は私を面倒くさいって言ってたくせに。シノさんを、待ってても良いのかと震える声のまま頼りなく尋ねた私に「今更何言ってんの?」と笑っただけだった。

それから、ずっと。
──私は、時限爆弾を抱えている。



もう、6月になった。シノさん、出会ってから1年が経とうとしてるよ。庭の桔梗が、また咲く季節になるよ。毎日ちゃんと手入れして育ててるのに、それを見ないってどういうこと?
新しいクラスは、りおとは離れてしまった。私達の噂は跡形もなく消えるなんてことは無い。だけど好奇心に煽られて膨らんだものは、萎んでいくのも速い。以前のような好奇の目を受けることは少なくなった。

それに少し、変わったこともある。新学期になった途端、女子2人が下駄箱近くで突然声をかけてきた。上履きの色から、2年生の子達だと分かる。

『梶先輩、園芸部に入ってくれませんか!?』

部員が足りなくて困っているらしく、私が高校近くの花屋でバイトをしているという何とも平和な噂を聞きつけてやって来たと言う。

『……私のこと、知らないの?』

『知ってます!!全然周りと群れずに、亜久津先輩といつもいらっしゃいますよね!麗しくてうちの学年では密かに"孤高の2人"って呼ばれてるんですよ!』

よく分からないが、輝く眼差しと圧に若干負けるようにして、体験だけ行こうと思っていたのに、あれよあれよという間に入部してしまった。3年生から部活に入るなんて、また何か噂をされそう。
でも太陽の下で、花壇の前で、仁美さんや光さんとは違う人達と花のことを話が出来るのは楽しかった。
──自分でやってみたいと思えたから、それで良かった。


『いや、2人の時点で孤高じゃなく無い?』

それを聞いた りおが金髪アッシュの髪を揺らしてケラケラ笑っていたのも。

『お前が部活ね』

何か言いたげに揶揄いの瞳だけを向ける綾瀬の腹の立つ顔も。
ねえ、シノさん。私はまだ、直接報告ができてないよ。



______

____



「進路調査票、来週までに提出なー」

帰りのHRに担任が、間延びした声で告げて配布した紙に視線を落とす。りおは、大学には行かないらしい。
「あたしのテキストを使う勉強は高校で終わった」と、全くぶれることなく、働きたいという意志がしっかりしていることが羨ましかった。

今日はバイトの前に園芸部の活動があって、少し遅くなってしまった。《家で待ってるよ、バイトがんば》と、りおからのメッセージを確認して足早に校門を出る。


「──桔帆」

「…橙生…」

曲がり角で直ぐに呼ばれた声に、急いでいた足が止まった。声の方へ顔を向けると、そこに佇んでいたのは、昔から何だってできて、優秀で、地方紙なんかにも登場してしまう、私の兄だった。質の良さそうなグレーのスーツ姿は、こんな学生の往来が大半を占める場所ではあまりに目立つ。


「久しぶり。元気?」

「……」

「お前、家出中らしいじゃん」

「……何しに来たの」

「可愛い妹の様子を見にきたんだろ。アホだねお前は。もっとうまいことやればいいのに」

「……私は橙生みたいに要領が良く無いんだよ」

「それは知ってるけど」

この男は、昔からいつも注目を集める、“優秀で完璧な男“だったけれど、その実態は割と腹黒い。爽やかな印象を必ず抱かせるであろう短い黒髪が風で少し揺れた。

「全然連絡とって無いんだろ」

「誰と?」と聞かなくても、流石に文脈から推測は出来る。俯いて唇を結んだままの私を見て、橙生は肯定と受け取ったらしい。1つ溜息を漏らした男は、私に近づいて頭を撫でる。

「…まあ、俺はあっちにも問題あるって思うよ。だからお前のことを連れ戻しに来たわけでも無い」

「……あの人たちは、もう私に興味は無いよ」

「ふうん、そうなんだ?」

一定の音調で出た言葉は、私に何かを促したりはしない。この男はいつも人当たりの良い笑顔を携えながら、冷静に物事を見ている気がする。


「…母さん、あんまり体調が良く無い」

「…え?」

「来週かな。検査入院するって」

突然の報告に言葉が詰まる。全身で嫌な脈を刻み始めれば、体温が着実に下がっていく。よく似てると散々言われた自分と同じ形の瞳が、真剣な眼差しで私を捕らえた。

「だからって、会いに来いって言ってるんじゃ無い。でも、お前はもう分かってるだろ?」

「…な、に」

橙生は、自分にも、他人にも甘く無い。ぬるい言葉は一切使わない。昔からそうだった。何を言われるかなんて、私は予言者じゃないから分からない筈なのに、どうしてだか、先行して身体が小刻みに震えていた。

──やめて、言わないで。

「お前はずっと今の場所にいられるわけじゃないよ」

真っ直ぐに伝えられた言葉が、目を逸らしてきた自分を容赦なく射抜いた。




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