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4.二人だけの世界

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◻︎

それから、アパートで会う度に彼女と話をするようになった。夏の暑い日に、アイスを携えて帰ってきた彼女と鉢合わせした時。

『懐かしいなあ。学生の頃、こそこそみんなで部活後に買ったアイスって、なんか、とびきり美味しかったよね』

『そうなんだ』

『え、東明さん知らなかったの?』

冬の寒い日に、寒さを耐えるように身体を竦めてドアの前まで来た時。

『おかえり』

『ただいま。そんなとこで座って何してんの』

『東明さん待ってた。こういう寒い時は、こたつで鍋して、アイス食べるのか鉄板でしょ?』

『そうなんだ』

『え、それも知らなかったの!?』


彼女は、突然現れては、俺が知らなかった日常を教えてくれる。大体が食べ物のことだったのは気の所為では無いと思うけど。「知らなかったの?」なんてちょっと悪戯に笑って、でもその笑顔がやけに可憐で、降り積もる気持ちには、とっくに気付いていた。




「……え?就職するの?」

「うん」

特に連絡をしなくても、アパートで出会えば、どちらかの家で過ごすのが日常になっていた頃。俺は大学4年生になっていた。同い年だった彼女は、短大を卒業してアルバイトをしていた幼稚園にそのまま就職した。

「そっか、意外。東明さんは院に行くのかと思った」

「え?」

「何その顔。だって東明さん勉強好きでしょう?」

「……好きじゃないよ」

「ええ!?」

アイス片手に驚いてこちらを凝視する彼女は、やはりくるくると表情がいつも変わる。日差しの強い今日は、後ろで髪をまとめ上げていて、細く長い頸がよく目立って、目のやり場に困る。思うだけで勿論、言ったりはしないけど。



「俺、反骨精神だけで文学部に来たんだ」

「…どういうこと?」

「医学部しか興味の無い家族に反発したら勘当されて。だったらもっと失望させてやろうかなって、全く関係無い文学部を選んだ。真似しただけだよ」

「真似…?誰の?」

「夏目漱石の"こころ"に出てくる、K。医学生になるって親を偽って、文学の道に進むんだ。バレて勘当されてからも、自分の道をストイックに目指す」

先人が居る。俺はただそれを模倣しただけだ。Kのような強靭な精神力も無いし、邪な理由でこの学問に近づいた。「だから俺は好きとかそういうのでは無い」と自分の説明を終えようとすると、いつの間に目の前まで近づいていたのか、彼女が眉を寄せて俺の頬を抓る。

「東明さんの言うことは難しくて、たまによく分からん!」

「安里さん、痛い」

「分からないけど、私が見てるのはKさんじゃないもの。東明さんだよ。家もこんなに本だらけで、徹夜して論文書いたりして、たまに無理して熱出して。勉強にぞっこんだよ。それは事実でしょう?」

「……俺、そんな風に見えてる?」

「見えてるというか、そうでしょ?」

こちらへアイスを差し出しながら、とても軽やかに言う彼女に、俺は遠い日の図書室を思い出していた。

『馬は走る。花は咲く。人は書く。
────自分自身になりたいが為に。』


あの時出会った言葉を前に、痛む心を抑えた。反骨精神たっぷりで入ったと思っていた学部だったけど。本当はあの時確かに心が動いた"言葉"が与える力を、俺はずっとずっと、知りたかったのかな。
いつの間にか夢中だった。日本語そのものを学ぶ日本語学の文献を読み漁った。それは確かに、俺の意志だ。

やっと、自分が好きなもののために、自分がなりたいもののために、走れるだろうか。



「……知らなかったの?」

未だにアイスを食べながら、無垢な瞳で告げてくる彼女に思わず笑った。最近毎日食べているチョコレートがコーティングされたそれはお気に入りらしい。

不意にその手を取れば驚いた顔で「なに?」と尋ねようとする小さな唇に、自分のものをそっと重ねた。暫くして離すと、それはもう大きな瞳を見開いている。

「安里さんが、好きなんだけど」

「………え」

「“知らなかったの?“」


いつもの仕返しのようにそう言えば、少し悔しそうに目を細めて真っ赤な顔をした彼女に、声を出して笑う。やわらかな新緑が澄んだ空に一際映える、そんな7月20日のことだった。







__________________

________



寒さがやっと緩んで、日差しの暖かさに春を感じる3月の初め頃だった。

俺は結局、就職では無く、大学院へ進む道を選んだ。
教授になるまでの道は気が遠くなる程に遠く、笑って側にいる梗佳を早く楽させるくらいにはなりたいと焦りもあったけど。
「まあもし教授になれなくても、私がダブルワークでもなんでもして養うよ」とケロリと笑う彼女には敵わなかった。




「高熱が続いてる、と」

「はい」

「なんとも判断が難しいですが、とりあえず飲み薬出しますね」

体の強くはなかった俺は、相変わらず時々熱を出し、それが時には高熱になることもあった。自分では慣れていたことだが、梗佳が怒るからと定期的に通院もしていた。街の小さな病院で、触診を終えてシャツのボタンを留めていた時だった。

「でも少し心配ですね。昔からよく高熱は出ますか」

「そうですね、割と」

「東明さん。──お子さんは、将来望まれていますか」

尋ねられた言葉を反芻して、手が震えて上手くボタンがかからない。
今まで何度も何度も熱を幼い頃から出してきて、その考えが過ぎったことは無かった。やっぱり俺は医者には向いていない。




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