36 / 47
4.二人だけの世界
4-4
しおりを挟む◻︎
それから、アパートで会う度に彼女と話をするようになった。夏の暑い日に、アイスを携えて帰ってきた彼女と鉢合わせした時。
『懐かしいなあ。学生の頃、こそこそみんなで部活後に買ったアイスって、なんか、とびきり美味しかったよね』
『そうなんだ』
『え、東明さん知らなかったの?』
冬の寒い日に、寒さを耐えるように身体を竦めてドアの前まで来た時。
『おかえり』
『ただいま。そんなとこで座って何してんの』
『東明さん待ってた。こういう寒い時は、こたつで鍋して、アイス食べるのか鉄板でしょ?』
『そうなんだ』
『え、それも知らなかったの!?』
彼女は、突然現れては、俺が知らなかった日常を教えてくれる。大体が食べ物のことだったのは気の所為では無いと思うけど。「知らなかったの?」なんてちょっと悪戯に笑って、でもその笑顔がやけに可憐で、降り積もる気持ちには、とっくに気付いていた。
「……え?就職するの?」
「うん」
特に連絡をしなくても、アパートで出会えば、どちらかの家で過ごすのが日常になっていた頃。俺は大学4年生になっていた。同い年だった彼女は、短大を卒業してアルバイトをしていた幼稚園にそのまま就職した。
「そっか、意外。東明さんは院に行くのかと思った」
「え?」
「何その顔。だって東明さん勉強好きでしょう?」
「……好きじゃないよ」
「ええ!?」
アイス片手に驚いてこちらを凝視する彼女は、やはりくるくると表情がいつも変わる。日差しの強い今日は、後ろで髪をまとめ上げていて、細く長い頸がよく目立って、目のやり場に困る。思うだけで勿論、言ったりはしないけど。
「俺、反骨精神だけで文学部に来たんだ」
「…どういうこと?」
「医学部しか興味の無い家族に反発したら勘当されて。だったらもっと失望させてやろうかなって、全く関係無い文学部を選んだ。真似しただけだよ」
「真似…?誰の?」
「夏目漱石の"こころ"に出てくる、K。医学生になるって親を偽って、文学の道に進むんだ。バレて勘当されてからも、自分の道をストイックに目指す」
先人が居る。俺はただそれを模倣しただけだ。Kのような強靭な精神力も無いし、邪な理由でこの学問に近づいた。「だから俺は好きとかそういうのでは無い」と自分の説明を終えようとすると、いつの間に目の前まで近づいていたのか、彼女が眉を寄せて俺の頬を抓る。
「東明さんの言うことは難しくて、たまによく分からん!」
「安里さん、痛い」
「分からないけど、私が見てるのはKさんじゃないもの。東明さんだよ。家もこんなに本だらけで、徹夜して論文書いたりして、たまに無理して熱出して。勉強にぞっこんだよ。それは事実でしょう?」
「……俺、そんな風に見えてる?」
「見えてるというか、そうでしょ?」
こちらへアイスを差し出しながら、とても軽やかに言う彼女に、俺は遠い日の図書室を思い出していた。
『馬は走る。花は咲く。人は書く。
────自分自身になりたいが為に。』
あの時出会った言葉を前に、痛む心を抑えた。反骨精神たっぷりで入ったと思っていた学部だったけど。本当はあの時確かに心が動いた"言葉"が与える力を、俺はずっとずっと、知りたかったのかな。
いつの間にか夢中だった。日本語そのものを学ぶ日本語学の文献を読み漁った。それは確かに、俺の意志だ。
やっと、自分が好きなもののために、自分がなりたいもののために、走れるだろうか。
「……知らなかったの?」
未だにアイスを食べながら、無垢な瞳で告げてくる彼女に思わず笑った。最近毎日食べているチョコレートがコーティングされたそれはお気に入りらしい。
不意にその手を取れば驚いた顔で「なに?」と尋ねようとする小さな唇に、自分のものをそっと重ねた。暫くして離すと、それはもう大きな瞳を見開いている。
「安里さんが、好きなんだけど」
「………え」
「“知らなかったの?“」
いつもの仕返しのようにそう言えば、少し悔しそうに目を細めて真っ赤な顔をした彼女に、声を出して笑う。やわらかな新緑が澄んだ空に一際映える、そんな7月20日のことだった。
__________________
________
寒さがやっと緩んで、日差しの暖かさに春を感じる3月の初め頃だった。
俺は結局、就職では無く、大学院へ進む道を選んだ。
教授になるまでの道は気が遠くなる程に遠く、笑って側にいる梗佳を早く楽させるくらいにはなりたいと焦りもあったけど。
「まあもし教授になれなくても、私がダブルワークでもなんでもして養うよ」とケロリと笑う彼女には敵わなかった。
「高熱が続いてる、と」
「はい」
「なんとも判断が難しいですが、とりあえず飲み薬出しますね」
体の強くはなかった俺は、相変わらず時々熱を出し、それが時には高熱になることもあった。自分では慣れていたことだが、梗佳が怒るからと定期的に通院もしていた。街の小さな病院で、触診を終えてシャツのボタンを留めていた時だった。
「でも少し心配ですね。昔からよく高熱は出ますか」
「そうですね、割と」
「東明さん。──お子さんは、将来望まれていますか」
尋ねられた言葉を反芻して、手が震えて上手くボタンがかからない。
今まで何度も何度も熱を幼い頃から出してきて、その考えが過ぎったことは無かった。やっぱり俺は医者には向いていない。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
思い出を売った女
志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。
それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。
浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。
浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。
全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。
ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。
あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。
R15は保険です
他サイトでも公開しています
表紙は写真ACより引用しました
凪の始まり
Shigeru_Kimoto
ライト文芸
佐藤健太郎28歳。場末の風俗店の店長をしている。そんな俺の前に16年前の小学校6年生の時の担任だった満島先生が訪ねてやってきた。
俺はその前の5年生の暮れから学校に行っていなかった。不登校っていう括りだ。
先生は、今年で定年になる。
教師人生、唯一の心残りだという俺の不登校の1年を今の俺が登校することで、後悔が無くなるらしい。そして、もう一度、やり直そうと誘ってくれた。
当時の俺は、毎日、家に宿題を届けてくれていた先生の気持ちなど、考えてもいなかったのだと思う。
でも、あれから16年、俺は手を差し伸べてくれる人がいることが、どれほど、ありがたいかを知っている。
16年たった大人の俺は、そうしてやり直しの小学校6年生をすることになった。
こうして動き出した俺の人生は、新しい世界に飛び込んだことで、別の分かれ道を自ら作り出し、歩き出したのだと思う。
今にして思えば……
さあ、良かったら、俺の動き出した人生の話に付き合ってもらえないだろうか?
長編、1年間連載。
2人のあなたに愛されて ~歪んだ溺愛と密かな溺愛~
けいこ
恋愛
「柚葉ちゃん。僕と付き合ってほしい。ずっと君のことが好きだったんだ」
片思いだった若きイケメン社長からの突然の告白。
嘘みたいに深い愛情を注がれ、毎日ドキドキの日々を過ごしてる。
「僕の奥さんは柚葉しかいない。どんなことがあっても、一生君を幸せにするから。嘘じゃないよ。絶対に君を離さない」
結婚も決まって幸せ過ぎる私の目の前に現れたのは、もう1人のあなた。
大好きな彼の双子の弟。
第一印象は最悪――
なのに、信じられない裏切りによって天国から地獄に突き落とされた私を、あなたは不器用に包み込んでくれる。
愛情、裏切り、偽装恋愛、同居……そして、結婚。
あんなに穏やかだったはずの日常が、突然、嵐に巻き込まれたかのように目まぐるしく動き出す――
白衣とブラックチョコレート
宇佐田琴美
ライト文芸
辛い境遇とハンディキャップを乗り越え、この春晴れて新人看護師となった雨宮雛子(アマミヤ ヒナコ)は、激務の8A病棟へと配属される。
そこでプリセプター(教育係)となったのは、イケメンで仕事も出来るけどちょっと変わった男性看護師、桜井恭平(サクライ キョウヘイ)。
その他、初めて担当する終末期の少年、心優しい美人な先輩、頼りになる同期達、猫かぶりのモンスターペイシェント、腹黒だけど天才のドクター……。
それぞれ癖の強い人々との関わりで、雛子は人として、看護師として成長を遂げていく。
やがて雛子の中に芽生えた小さな恋心。でも恭平には、忘れられない人がいて─────……?
仕事に邁進する二人を結ぶのは師弟愛?
それとも─────。
おっちょこちょいな新人と、そんな彼女を厳しくも溺愛する教育係のドタバタ時々シリアスな医療物ラブ?ストーリー!!
【R18】豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網〜策士な後輩から逃げられません!〜
湊未来
恋愛
「ねぇ、本当に陰キャの童貞だって信じてたの?経験豊富なお姉さん………」
30歳の誕生日当日、彼氏に呼び出された先は高級ホテルのレストラン。胸を高鳴らせ向かった先で見たものは、可愛らしいワンピースを着た女と腕を組み、こちらを見据える彼の姿だった。
一方的に別れを告げられ、ヤケ酒目的で向かったBAR。
「ねぇ。酔っちゃったの………
………ふふふ…貴方に酔っちゃったみたい」
一夜のアバンチュールの筈だった。
運命とは時に残酷で甘い………
羊の皮を被った年下オオカミ君×三十路崖っぷち女の恋愛攻防戦。
覗いて行きませんか?
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
・R18の話には※をつけます。
・女性が男性を襲うシーンが初回にあります。苦手な方はご注意を。
・裏テーマは『クズ男愛に目覚める』です。年上の女性に振り回されながら、愛を自覚し、更生するクズ男をゆるっく書けたらいいなぁ〜と。
セカンドラブ ー30歳目前に初めての彼が7年ぶりに現れてあの時よりちゃんと抱いてやるって⁉ 【完結】
remo
恋愛
橘 あおい、30歳目前。
干からびた生活が長すぎて、化石になりそう。このまま一生1人で生きていくのかな。
と思っていたら、
初めての相手に再会した。
柚木 紘弥。
忘れられない、初めての1度だけの彼。
【完結】ありがとうございました‼
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる