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4.二人だけの世界

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『医者一家』

言葉にすれば簡単だが、その環境の異様さに気づいたのはいつだろう。両親は共に医者、兄弟の居なかった俺は、当然のように医者を目指す道を幼い頃から掲げられた。親戚も勿論医療に携わる家系で、大学病院に勤める者もいれば、開業医をしている者もいる。
当然のように家庭教師がいて、厳しい英才教育を受けていた。成績次第では父親に叩かれることもあったし、母も庇ったりせず、後で「次は大丈夫よ」と無責任な鼓舞だけを受け取った。でも「そういう家庭なのだ」と刷り込みされた心では、境遇に対して違和感は特に抱かなかった。

──いや、嘘だ。

心のどこかで、いつも思っていた。何よりも勉学を優先する生活の綻びは、確かに感じていた。
身体が決して強い方では無かった俺は、熱を出すとなったら高熱が続き、長くベッドに伏せることも多かった。そういう期間、常に枕元にあったのは対象年齢が自分より2.3歳上の参考書だった。ぼんやりした頭では文字や数字も上手く頭に入らない。それでも本を開き続けた。そうする以外、此処で俺が生きる道が無い。

言われるがままに闇雲に知識を蓄積していく頭と、何処かで違和感を拭えない心を同じ身体に保つことは地獄のようだった。でも、こんな状況はそれこそ何か劇的な出逢いが無ければ打破出来ないと分かっていた。天地がひっくり返るようなそういう大きなことが起きない限り、俺はこの箱庭を出ることは無いと思っていた。
高校に入ってからも、環境はさほど変わらない。放課後も当然家庭教師が家で待つ生活では、クラスメイトとの距離が縮まる筈も無かった。部活動に勤しんだり、教員に隠れて楽しそうに寄り道をする同級生を、送迎車の窓から感情を殺して見つめる日々は、もはや早く終わって欲しいとさえ思っていた。


──だからあの日は、とても偶然だったと思う。

『この大雨で電車が止まっているようで、先生、まだ家にお見えになって無いのよ。車でお迎えに上がってから駿さんの学校へも寄るから、少し待っててもらえるかしら』

そんな事情を態々、職員室の電話を使ってまで伝えてくる母に言葉短く了承を告げ、突然生まれた空白の時間は、初めての経験だった。結局は勉強しかやることの無い自分が情けなかったが、学校の図書室で教科書を広げると、いつもと違う空間に気持ちは新鮮だった。古書の独特の匂いが充満している。紙やインクの元々の匂いに歴史が上乗せされたような、人工では作られない香りが、嫌いでは無いと思った。

図書委員が昔に作ったのか、古びた壁に色褪せて少し破けた紙が貼ってあるのを見つける。それが何故だかやけに気になったのも、本当に偶然のことだった。

《文豪たちの名言集》

そんなタイトルがつけてあって、言葉が羅列してある。名言、というものが何かはあまり上手く想像出来ないが、有名な人が言えばそれは有難い言葉になるのか。小説を読むことよりも、参考書を読み漁ることが多い疑心暗鬼の中で、冷めた顔でそれを見つめていた俺は、ふと視線を留めた。

『馬は走る。花は咲く。人は書く。
────自分自身になりたいが為に。』

自分の中で反芻した瞬間、心にずしんと、あまりに重いものがのしかかってきて身体を支えるのが困難だった。全然、難しい言葉じゃない。自分の行動は、自分自身であるためだと、この人は言う。
今の自分には、あまりにも痛すぎた。毎日毎日、当然のように机に向かう日々。その行動の中に自分の気持ちなんか1ミリも無い。こんな状況は何か劇的な出逢いが無ければ打破出来ないと思っていた。天地がひっくり返るような、そういう大きなことが無ければと。

ただきっかけを待つだけでは、何も起こる筈が無いと、初めて気がついた。

揺れている心の中で、作者名を見る。

「夏目漱石、か」

俺でも勿論、知っている文豪だ。嗚呼、なるほど。名言は、“有名な人“の有難い言葉じゃ無い。こんな風に、心にズブズブと意図せず侵入してくる言葉だ。そしてそんな言葉を紡げる人が文豪になりうる。

「もう、逃げ出したい」と心から思った。四方を分厚い壁に囲まれた箱の中で生きる自分は、このまま一生こうなのかと思ったら、居ても立ってもいられなかった。


急に進路を変更して受験すると言った俺が、勘当されたのはそれからすぐだった。


怒り狂う両親や戸惑う親戚の中に「やりたいことがあるのか」と俺の意志を聞く者は誰もいなかった。所詮、それだけの世界だった。反骨精神たっぷりに、今までの自分とは縁もゆかりも無い「文学部」に入学した。自分のお金でなんとか生計を立てて、ぼろいアパートを借りて、これまでの生活とは全然違ったけど、気持ちはとても楽だった。


その日は、確か夜勤明けで、そのまま早朝の新聞配達を終えて中途半端な朝の7時頃だったと思う。
身体が、強い方では無い。それでも生活の為だと酷使した身体の悲鳴に気付いてるようで、気づかないふりをしていた俺は「医者には向いていなかった」と自嘲的に笑う。
3階建の木造アパートの錆切った外階段をふらふらで上る。頭がやけに重い。2階の1番奥の自分の部屋までたどり着くのも、気が遠くなるほどに身体が重怠い。荒くなる呼吸の中で、なんとか1階と2階の踊り場まで辿り着いた瞬間、その場に蹲ってしまった。これは熱も既に出ていそうだと嫌な予感が冷や汗と共に流れた瞬間、タンタンタン、と軽快な音が聞こえた。

「え、大丈夫ですか!?」

やけに通る声だな。それだけを確認して、俺はあっさりとその場で意識を手放した。







◻︎

「あ、起きましたか?」

見慣れた天井をぼやけた視界に入れた瞬間、側から凛とした声が届く。重い身体をなんとか起き上がらせると、ビー玉のように透き通った無垢な瞳とぶつかった。そして視界が変わった時、天井は「見慣れた」と思ったが、此処が自分の部屋では無いことを知る。

「……えっと、」

困惑の中で、視線を落とすと自分にかけられた布団にも気がつく。俺のすぐ側に正座する女性は痛みの知らない、肩に付かないくらいの黒髪を艶やかに靡かせて微笑んだ。

「はじめまして、3階に住んでる安里あんり  梗佳きょうかです

「……ご迷惑おかけしました。東明 駿です。大変でしたよね、俺を運ぶの」

「ええ、大変でした」

あの時、蹲み込んで意識を失った俺を自室まで運んで看病してくれたらしい。ケロリと笑って正直に大変だったと伝える彼女に面食らった。
「だって、凄い繊細そうなのに意外と重いんですもん。大量に汗かきながら、なんとか運びました」

楽しそうな笑い声で状況を報告してくる彼女は、意外と豪快だった。

「あまり無理するのは良く無いですよ」

「はい」

「あと、最近あまり食べて無いんじゃないですか?顔色が悪いです」

「あー、そうですね」

「睡眠と食事は絶対大事です。そんなのお医者さんじゃなくても知ってます。分かりましたか?」

まるで子供を叱るような表情と声で語られたそれに、俺は一瞬固まる。“医者じゃなくても分かる“、本当にそうだな。医者を目指していた俺はあれだけ色んな参考書を読み漁っておいて、そんな単純なことを失念していた。やっぱり俺は絶対、医者には向いてなかった。

「…あ、ご、ごめんなさい」

「え?」

「私、すぐ近くの幼稚園でバイトしてるんですけどつい口調がその、“分かりましたか?“とか、すいません。子供に話すようになる時があって」

先ほどまでハキハキと喋っていたくせに、急に顔を赤くする彼女に、目を瞬かせた。照れるタイミングが、よく分からない。でもそれがやけに可愛らしくて、俺は思わず破顔した。するとその様子をじ、と見つめる彼女に気がついて、失礼だったかと謝ろうとした時だった。

「東明さんは、お日様みたいに笑うんですね」

嬉しそうに発見を語る彼女の表情がやけに焼き付いた。


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