35 / 47
4.二人だけの世界
4-3
しおりを挟む________
__
『医者一家』
言葉にすれば簡単だが、その環境の異様さに気づいたのはいつだろう。両親は共に医者、兄弟の居なかった俺は、当然のように医者を目指す道を幼い頃から掲げられた。親戚も勿論医療に携わる家系で、大学病院に勤める者もいれば、開業医をしている者もいる。
当然のように家庭教師がいて、厳しい英才教育を受けていた。成績次第では父親に叩かれることもあったし、母も庇ったりせず、後で「次は大丈夫よ」と無責任な鼓舞だけを受け取った。でも「そういう家庭なのだ」と刷り込みされた心では、境遇に対して違和感は特に抱かなかった。
──いや、嘘だ。
心のどこかで、いつも思っていた。何よりも勉学を優先する生活の綻びは、確かに感じていた。
身体が決して強い方では無かった俺は、熱を出すとなったら高熱が続き、長くベッドに伏せることも多かった。そういう期間、常に枕元にあったのは対象年齢が自分より2.3歳上の参考書だった。ぼんやりした頭では文字や数字も上手く頭に入らない。それでも本を開き続けた。そうする以外、此処で俺が生きる道が無い。
言われるがままに闇雲に知識を蓄積していく頭と、何処かで違和感を拭えない心を同じ身体に保つことは地獄のようだった。でも、こんな状況はそれこそ何か劇的な出逢いが無ければ打破出来ないと分かっていた。天地がひっくり返るようなそういう大きなことが起きない限り、俺はこの箱庭を出ることは無いと思っていた。
高校に入ってからも、環境はさほど変わらない。放課後も当然家庭教師が家で待つ生活では、クラスメイトとの距離が縮まる筈も無かった。部活動に勤しんだり、教員に隠れて楽しそうに寄り道をする同級生を、送迎車の窓から感情を殺して見つめる日々は、もはや早く終わって欲しいとさえ思っていた。
──だからあの日は、とても偶然だったと思う。
『この大雨で電車が止まっているようで、先生、まだ家にお見えになって無いのよ。車でお迎えに上がってから駿さんの学校へも寄るから、少し待っててもらえるかしら』
そんな事情を態々、職員室の電話を使ってまで伝えてくる母に言葉短く了承を告げ、突然生まれた空白の時間は、初めての経験だった。結局は勉強しかやることの無い自分が情けなかったが、学校の図書室で教科書を広げると、いつもと違う空間に気持ちは新鮮だった。古書の独特の匂いが充満している。紙やインクの元々の匂いに歴史が上乗せされたような、人工では作られない香りが、嫌いでは無いと思った。
図書委員が昔に作ったのか、古びた壁に色褪せて少し破けた紙が貼ってあるのを見つける。それが何故だかやけに気になったのも、本当に偶然のことだった。
《文豪たちの名言集》
そんなタイトルがつけてあって、言葉が羅列してある。名言、というものが何かはあまり上手く想像出来ないが、有名な人が言えばそれは有難い言葉になるのか。小説を読むことよりも、参考書を読み漁ることが多い疑心暗鬼の中で、冷めた顔でそれを見つめていた俺は、ふと視線を留めた。
『馬は走る。花は咲く。人は書く。
────自分自身になりたいが為に。』
自分の中で反芻した瞬間、心にずしんと、あまりに重いものがのしかかってきて身体を支えるのが困難だった。全然、難しい言葉じゃない。自分の行動は、自分自身であるためだと、この人は言う。
今の自分には、あまりにも痛すぎた。毎日毎日、当然のように机に向かう日々。その行動の中に自分の気持ちなんか1ミリも無い。こんな状況は何か劇的な出逢いが無ければ打破出来ないと思っていた。天地がひっくり返るような、そういう大きなことが無ければと。
ただきっかけを待つだけでは、何も起こる筈が無いと、初めて気がついた。
揺れている心の中で、作者名を見る。
「夏目漱石、か」
俺でも勿論、知っている文豪だ。嗚呼、なるほど。名言は、“有名な人“の有難い言葉じゃ無い。こんな風に、心にズブズブと意図せず侵入してくる言葉だ。そしてそんな言葉を紡げる人が文豪になりうる。
「もう、逃げ出したい」と心から思った。四方を分厚い壁に囲まれた箱の中で生きる自分は、このまま一生こうなのかと思ったら、居ても立ってもいられなかった。
急に進路を変更して受験すると言った俺が、勘当されたのはそれからすぐだった。
怒り狂う両親や戸惑う親戚の中に「やりたいことがあるのか」と俺の意志を聞く者は誰もいなかった。所詮、それだけの世界だった。反骨精神たっぷりに、今までの自分とは縁もゆかりも無い「文学部」に入学した。自分のお金でなんとか生計を立てて、ぼろいアパートを借りて、これまでの生活とは全然違ったけど、気持ちはとても楽だった。
その日は、確か夜勤明けで、そのまま早朝の新聞配達を終えて中途半端な朝の7時頃だったと思う。
身体が、強い方では無い。それでも生活の為だと酷使した身体の悲鳴に気付いてるようで、気づかないふりをしていた俺は「医者には向いていなかった」と自嘲的に笑う。
3階建の木造アパートの錆切った外階段をふらふらで上る。頭がやけに重い。2階の1番奥の自分の部屋までたどり着くのも、気が遠くなるほどに身体が重怠い。荒くなる呼吸の中で、なんとか1階と2階の踊り場まで辿り着いた瞬間、その場に蹲ってしまった。これは熱も既に出ていそうだと嫌な予感が冷や汗と共に流れた瞬間、タンタンタン、と軽快な音が聞こえた。
「え、大丈夫ですか!?」
やけに通る声だな。それだけを確認して、俺はあっさりとその場で意識を手放した。
◻︎
「あ、起きましたか?」
見慣れた天井をぼやけた視界に入れた瞬間、側から凛とした声が届く。重い身体をなんとか起き上がらせると、ビー玉のように透き通った無垢な瞳とぶつかった。そして視界が変わった時、天井は「見慣れた」と思ったが、此処が自分の部屋では無いことを知る。
「……えっと、」
困惑の中で、視線を落とすと自分にかけられた布団にも気がつく。俺のすぐ側に正座する女性は痛みの知らない、肩に付かないくらいの黒髪を艶やかに靡かせて微笑んだ。
「はじめまして、3階に住んでる安里 梗佳です
「……ご迷惑おかけしました。東明 駿です。大変でしたよね、俺を運ぶの」
「ええ、大変でした」
あの時、蹲み込んで意識を失った俺を自室まで運んで看病してくれたらしい。ケロリと笑って正直に大変だったと伝える彼女に面食らった。
「だって、凄い繊細そうなのに意外と重いんですもん。大量に汗かきながら、なんとか運びました」
楽しそうな笑い声で状況を報告してくる彼女は、意外と豪快だった。
「あまり無理するのは良く無いですよ」
「はい」
「あと、最近あまり食べて無いんじゃないですか?顔色が悪いです」
「あー、そうですね」
「睡眠と食事は絶対大事です。そんなのお医者さんじゃなくても知ってます。分かりましたか?」
まるで子供を叱るような表情と声で語られたそれに、俺は一瞬固まる。“医者じゃなくても分かる“、本当にそうだな。医者を目指していた俺はあれだけ色んな参考書を読み漁っておいて、そんな単純なことを失念していた。やっぱり俺は絶対、医者には向いてなかった。
「…あ、ご、ごめんなさい」
「え?」
「私、すぐ近くの幼稚園でバイトしてるんですけどつい口調がその、“分かりましたか?“とか、すいません。子供に話すようになる時があって」
先ほどまでハキハキと喋っていたくせに、急に顔を赤くする彼女に、目を瞬かせた。照れるタイミングが、よく分からない。でもそれがやけに可愛らしくて、俺は思わず破顔した。するとその様子をじ、と見つめる彼女に気がついて、失礼だったかと謝ろうとした時だった。
「東明さんは、お日様みたいに笑うんですね」
嬉しそうに発見を語る彼女の表情がやけに焼き付いた。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
野良インコと元飼主~山で高校生活送ります~
浅葱
ライト文芸
小学生の頃、不注意で逃がしてしまったオカメインコと山の中の高校で再会した少年。
男子高校生たちと生き物たちのわちゃわちゃ青春物語、ここに開幕!
オカメインコはおとなしく臆病だと言われているのに、再会したピー太は目つきも鋭く凶暴になっていた。
学校側に乞われて男子校の治安維持部隊をしているピー太。
ピー太、お前はいったいこの学校で何をやってるわけ?
頭がよすぎるのとサバイバル生活ですっかり強くなったオカメインコと、
なかなか背が伸びなくてちっちゃいとからかわれる高校生男子が織りなす物語です。
周りもなかなか個性的ですが、主人公以外にはBLっぽい内容もありますのでご注意ください。(主人公はBLになりません)
ハッピーエンドです。R15は保険です。
表紙の写真は写真ACさんからお借りしました。
私と継母の極めて平凡な日常
当麻月菜
ライト文芸
ある日突然、父が再婚した。そして再婚後、たった三ヶ月で失踪した。
残されたのは私、橋坂由依(高校二年生)と、継母の琴子さん(32歳のキャリアウーマン)の二人。
「ああ、この人も出て行くんだろうな。私にどれだけ自分が不幸かをぶちまけて」
そう思って覚悟もしたけれど、彼女は出て行かなかった。
そうして始まった継母と私の二人だけの日々は、とても淡々としていながら酷く穏やかで、極めて平凡なものでした。
※他のサイトにも重複投稿しています。
【完結】雨上がり、後悔を抱く
私雨
ライト文芸
夏休みの最終週、海外から日本へ帰国した田仲雄己(たなか ゆうき)。彼は雨之島(あまのじま)という離島に住んでいる。
雄己を真っ先に出迎えてくれたのは彼の幼馴染、山口夏海(やまぐち なつみ)だった。彼女が確実におかしくなっていることに、誰も気づいていない。
雨之島では、とある迷信が昔から吹聴されている。それは、雨に濡れたら狂ってしまうということ。
『信じる』彼と『信じない』彼女――
果たして、誰が正しいのだろうか……?
これは、『しなかったこと』を後悔する人たちの切ない物語。
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
アスタラビスタ
リンス
ライト文芸
※全話イラスト付きです※
主人公・紅羽はその日、マンションの17階の手すりに立っていた。下の非常階段から聞こえてくる男2人の会話を聞きながら、チャンスを待っていた。
手すりから飛び降りると、驚異的な身体能力で階段へと乗り込み、見ず知らずの若い男に刃物を持って襲いかかった。
自分の意識はあるが、何か別の感情に突き動かされていた。
直前、紅羽は二人の男ではない、もう一人の人間の存在を感じた。
襲い掛かられた若い男の髪は、突如としてオレンジ色へと変わり、紅羽の刃物を寸でのところで止める。
突然の容姿の変貌に、何が起きたのか理解できなかった紅羽は、愕然としている間に若い男に押しのけられる。その勢いで背中を打ちつけた自分の身体から、黒髪の男が出てきた。
黒髪の男はマンションから飛び降り、逃走してしまう。
我に返った紅羽は、自分が人を殺そうとしていたことを理解し、混乱に陥る。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる