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幸福に浸りながら望む貴石※

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 僕は近頃、まったく怒りもしなかった。――悲しむこともせず、…思えば僕は、忘れていたのだ。
 
 そもそも、性奴隷として馬鹿にされるのなんか当たり前のことであった。――陵辱され、見下され、馬鹿にされ…“馬鹿オメガ”なんて言われて、ブスとけなされ、浅ましい、いやしい、いやらしい…他にもざまざまな侮辱の言葉を、このところはずっと言われ続けてきた。
 毎日だ。言われなかった日なんかそれこそ一日もなかった。…すると、それにいちいち怒り、傷付いていたらキリがないと、僕は感情の消費をするほうがよほど疲れるからと、…僕は怒ることも、嘆くことも、悲しむこともすべてを放棄し、諦め――その感情を認識しそうになると、あえて思考を止めた。
 
 それなのに…――僕は今、ソンジュさんに怒ったのだ。…なぜかソンジュさんの、子供のような我儘さに怒ったのだ。…僕を馬鹿にしている、と、プライドを傷付けられた、と思ったのだ。――悔しいと。
 それこそソンジュさんより、僕を犯していた人々のほうがよっぽど身勝手なことを僕にしてきていたというのに、…僕はソンジュさんに、ムカついた。
 僕はいつの間にか、結構…彼に気持ちを、許しているのかもしれない。――まだ何回も会ったわけじゃないのだが、それほど時間を過ごしたわけでもないのだが、…それでも僕は、ソンジュさんに少しずつ気持ちを許してはじめている。
 
 僕のことを、大事に大事に――守り、抱き締め、眠らせてくれた。…深く僕を愛してくださるソンジュさんを、僕はもう、信じはじめているのかもしれない。
 信じよう、信じないでおこう。――そういったスイッチで、パッと切り替わるのではないようだ。…じわじわと、信じてしまうものらしいのだ。じわじわと…彼に気持ちを許していってしまうもの、らしいのだ。
 
 それはきっと――案外その人の感情が、わかりやすい、というのもあるかもしれない。…怒って、しょんぼりして、笑って、嬉しそうにして。…意外だが、ソンジュさんは結構わかりやすい。
 
「…ははは…、久しぶりに笑いました。あと…久しぶりに、怒りました。」

 自分でも自分がおかしいと、笑ってしまった。
 そんな僕を、嬉しそうな、庇護のあたたかい目で眺めていたソンジュさんは、「それでいいんですよ」と静かな声で言うと、その白い歯を見せて笑った。
 
「…いや、存分に怒ってください、ユンファさん。――たくさん笑って、好きに泣いてください。嬉しいときは、嬉しい、ありがとうと言えば、それでいい。――嬉しいことは、遠慮せず…どうか、すべて受け取ってほしい。」
 
「……、はい…ありがとうございます、…」
 
 笑っているのだが――僕は泣きそうな震えを目元に、喉に、口元に感じてうつむいた。…するとソンジュさんは、そんな僕のことをふわりとゆるく、抱き締めてくれた。
 
 
「…貴方は人として、それが許されている存在なんです。それをどうか、少しずつで構わない…ゆっくり、ユンファさんのペースでいいからどうか、思い出してください」
 
 
「……、…はい、…」
 
 喉が震える。それでも、精一杯声を出した。…どうしても上擦り、少し僕の声は、裏返っていた。
 
 やっぱり――僕は、ソンジュさんの本物の恋人に、なりたい。…“契約”じゃ嫌だ、なんて、駄目だろうか。おこがましいだろうか。…本当に好きだと言ったら、彼に拒絶されてしまうんだろうか。
 
「――僕、…これで思い出しました、…」
 
 ありがとう…今はきっと、それしか言ってはならないのだ。
 
「……ええ…」
 
「…僕は、決して絶望するために、…性奴隷になったんじゃありませんでした、…――僕は自分の誇りのために、性奴隷になったんだ、…」
 
 僕は…忘れていた。
 が、自分の両親であることは覚えていたが――しかし、なぜ自分の両親を守りたいのか、なぜ自分が彼らを守るために今耐えているのか、…それを忘れていた。
 感情と共に忘れていたのは…――その誇り。
 その誇り、プライドというものもまた、一つの感情である。――僕は、すべてを諦めるために、性奴隷になったんじゃない。
 
 僕は、――性奴隷になったのだ。
 
「…貴方は、自然と思い出させてくださった、…ソンジュさんが、僕に思い出させてくださったんです、…っ、…っありがとうございます、…」
 
 僕は、自分の肉体を売っていた。
 しかし――精神も、魂も、売っているつもりはなかった。…それがいつの間にか、薄れてゆく感情の中で、それらさえも売り渡しているように思っていた。
 
 でも、僕はそれを切り売りするべきではなかった。
 目的はただ、自分の誇りに懸けて――自分が守りたいものを、守る。…ただ、それだけのことであった。
 
 思い出した――怒りも、悲しみも、苦しみも――その感情に襲われるとき、僕は両親の顔を思い出した。
 ならばきっと、僕は忘れていただけだ。――自分の誇りを、ただ忘れ、見ないふりをしていただけなのだ。
 むしろ、都合が悪いからとその誇りを隠すため、性奴隷の顔をしていた。…自分には誇れるものなどありません、下等な人間以下の存在です。――しかし、そうして自分の誇りを隠しているうち、僕はいつの間にか本当に、その自分の誇りを自ら傷付け、そして、本当にそうであるような気になっていたようなのだ。
 
 
 思い出した。
 確かに僕は――元はプライドが高いほうの人であった。
 
 
「……ユンファさん…」
 
 僕を優しく抱き締めてくれたソンジュさんの肩口に、僕は熱くなった目元を押し付けた。――すると彼は、僕の後ろ頭を優しく、撫ででくれる。
 
「…ありがとう、俺の前で泣いてくれて…――ありがとう、貴方の気高き魂を、一つ思い出してくれて…、俺、本当に嬉しいです……」
 
「……っ、…~~っ」
 
 貴方は優しい。――やっぱり優しい人だ。
 僕に夢のような魔法をかけてくださる、本当に優しい人。――いや、少しずつ、少しずつ僕の呪いを解いてくれる…神様だ、ソンジュさんは、やっぱり。
 
 
 
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