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デザインカプチーノ

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今日はマスターから少し早めに来るように言われ、いつも来ている時間の一時間前に店を訪れた。
「マスター、今日はどうしたんですか?」
「うん。今日はだね。君に覚えてもらいたいことがあってね」
何やら勿体ぶっているマスターはひとつの小さなカップをカウンターに置いた。手のひらに乗るくらいの小さなカップ。これは
「エスプレッソ……ですね?」
前々から(といってもここで働き始めてから)興味があったエスプレッソ。正確にはデザインカプチーノ。マスターが出したカップよりは大きめの、至って普通のカップを使うのだけど、ミルクフォームがハートや葉っぱの形になっていたりと、とにかくかわいい。紅茶はすぐに淹れさせてもらえるようになったけど、エスプレッソは別だった。
「まあ、マシーンがほとんどやってくれるからそんなに難しいことはないとは思うんだけどね。
君も紅茶を淹れて手順を覚えたように、エスプレッソも大体は同じなんだ」
手招きをされカウンターの中に入ると、見慣れた赤いエスプレッソマシーンに小さなカップがセットされていた。
抽出口からお湯が流れ、マシーン内部とカップを温める。そしてカップのお湯を捨てると改めてカップをセットする。
見せたかったのは基本的な流れと小さな気回しの事だろう。紅茶というアナログな淹れ方を覚えさせると同時になぜその動きをするのかと考えさせる。いきなりオートなエスプレッソを先に教えてもらうよりも、より丁寧な作業になる。
マスターが教えたかったことはきっとそういうことなんだと思う。ほんとにこの人は人をよく見ている。
パウダー状のエスプレッソ粉をセットし、抽出を開始するとマスターはコツを教えてくれる。
「水っぽかったり、ちたんちたんと出てくるようじゃちょっとまずいかな。とろりと出てくるようなら大丈夫。豆の挽き方でこのへんは調節が必要なんだけど、最初のうちは覚えなくていい。
色々挑戦して少しずつ覚えていこう」
マスターの言う通り、成功の例を見せてくれる。とろとろと滑らかなエスプレッソが抽出口からゆったりと流れてくると同時に、ふんわりと香ばしく上品なエスプレッソの香りが店内に広がっていく。こなままでは苦くて私には飲みづらい。けれどミルクフォームを乗せることによってとてもマイルドなカプチーノと変化する。
マスターがミルク用の小さなピッチャーにミルクを適量入れて来ると、スチームパイプをミルクピッチャーの中に差し込んだ。
こぉおおおっ。
空気がいっきに流れ、ミルクを回転させる。蒸気の音がミルクを踊らせ、そして膨らませる。マスターは撹拌し盛り上がったところでスチームパイプをピッチャーから抜いて、カウンター内部のテーブルにとんとんと叩き大きな空気を逃がす。
「最初はこれが一番難しいだろうけど」
大きめのカップに移されたエスプレッソにミルクを回しながらゆっくりと注いでいく。左右に微妙に揺らしながら注がれると、真っ白なクリーミーなミルクがエスプレッソに筋を描いていく。これだけでもなかなか綺麗だというのにマスターはやめなかった。一本、真ん中に筋を描くと、エスプレッソに息吹を芽生えさせる。普段フェリシアではお目にかかることがないデザインカプチーノ。エスプレッソの淡い茶色に白が滲む。葉の先端がハートの形になったかわいらしく、飲むのが勿体ないアートだ。
「お客さんがいない時色々いじっていいよ。あ、でも勿体ないからちゃんと飲んでね。飲めないようなら飲んでもらっても構わないから」
ここまでスムーズに淹れることが出来るようになるまで100杯そこらじゃきかないだろう。けれど私にはそんな不安より期待の方がはるかに大きかった。
「はい!」
これはきっとゆくゆくは紅茶だけではなくエスプレッソも任せてくれる暗示だろう。そしたらカフェメニューもおのずと増えていく。
しかし残念ながららそううまくはいかないことを痛感した。
「マスター、エスプレッソが出てきません!」
「えっと、それは……」
「マスター、ミルクフォームがべっしゃりしててほぼ液体なんですけど……」
「んと、それは……」
「マスター……」
「…………」
という風に最高のほうは無言だった。お世辞にも上手いとは言えないいびつなハートの形に描かれたカプチーノに思わず肩を落とした。
「わたし、才能ないのかな」
先端の丸いいびつなハートにぶつぶつと気泡ができちゃっているエスプレッソ。
「最初はそんなもんだって。ミルクは撹拌しすぎ。とんとんってやった?忘れてたでしょ。だから泡が目立つんだ」
「なるほど」
「あと、ミルクを回しながら注ぐのも忘れてたね」
初めてのエスプレッソマシーンを触る事で頭がめいっぱいだった。
マスターが言っていたことの半分も実行できてなくて何だか申し訳ない気分でいっきに落ち込んでしまう。
「ごめんなさい。でももう一回やらせて下さい!」
この失敗作だって飲まないと。勿体ないし、うまく作るヒントがいっぱい詰まっている。
「開店準備もあるからあと10分だけね」
そう言い残すとマスターは準備に向かった。
これから10分間。私は誰にも教わることもできず、ひたすら記憶を再現させてマスターの助言を思い出しながら作ることになる。いきなりデザインカプチーノなんて高度な物より普通のカプチーノでじゅうぶんだ。今は何よりもきっちり基本を抑えること。
多分次で今日の練習は最後になるだろうし、帰ったら動画を探して勉強してみよう。
「よぉし、やってやる!」
分量や淹れ方を脳内で再現させ、イメージを重ねると私はエスプレッソマシーンにエスプレッソ粉をセットした。
初めて入れたカプチーノは悲惨な味だった。
濃いだけの粉っぽいエスプレッソに、口当たりの悪い弾けるミルクフォーム。ひとつひとつの気泡の大きさがまばらで、決して美味しいとは言えない文字通りに苦い思い出。でもここから私のエスプレッソ修行が始まり、これを通して様々なレパートリーを増やし、お客様と交流するのもそう遠くない未来のはず。
一ウエイトレスだけど、マスターはそれ以上の事をさせてくれるし、体験もさせてくれる。時給以上の貴重な対価だ。
そう思うと普段は頼りなくちゃらんぽらんに見えるマスターが立派な人に見えてくる。店長の血を確実に受け継いでいるマスターも私も、このフェリシア夜間営業部もまだまだ成長できる伸び代はまだまだある。ここで私が手を抜くわけにはいかない。
がんばらないと。
私の作ったエスプレッソが、カプチーノが。美味しいと言ってくれる人が現れるまで。あれ?現れてもがんばりは続けないとね。
本日の営業はこれから!接客、更にエスプレッソの勉強が追加され、まだまだ悩む事が多そうだけど、一ウエイトレスからバリスタ見習い。これからもがんばります!
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