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第一章
第1話 「では、牛乳をくれ」
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煤けた暖簾をくぐって薄暗い小屋に入ると、五対の視線が男を出迎えた。
埃。
どぶろく。
汗。
焦げた脂。
諸々のニオイが渾然となった煙たさが鼻につき、まだ少年と呼ぶべき年頃の男は顔を顰める。
入り口で佇んでいる五尺五寸(約百六十七センチ)の人影に、店主である初老の男は干魚を炙る手を止めて問う。
「……客か?」
「ああ」
「……注文は」
「そうだな――では、牛乳をくれ」
「うしぢちぃ? 何でぇ、そりゃあ」
頓狂な声を上げる店主に、少年は落ち着き払って答える。
「知らんのか。文字通りに牛の乳だ。南蛮では皆が当たり前に飲むのだが」
「ここは日本で、そして酒場だ。酒を飲まんのなら帰れ」
店主は不機嫌そうな表情に磨きをかけ、つっけんどんな態度で追い返そうとする。
だが少年はまるで怯まずに、平然と話を続ける胆の太さを見せた。
「そうは言うがな、牛の乳を飲んで獣の肉を食らっているから、南蛮人や紅毛人はああも体がデカくなるらしいぞ」
「それがどうしたってんだ?」
「だから、牛乳も馬鹿にしたものでは――」
「クッ……ハッハッハッハッ!」
わざとらしい笑い声が響き、少年は言葉を切ってそちらを見る。
右奥の卓に陣取った浪人風の男は、地面が剥き出しの床に唾を吐き棄てて言う。
「ペッ――南蛮かぶれの小僧が。その妙なナリも、かぶれの賜物かぁ?」
旅装に汚れとほつれの目立つ浪人風が、ニヤつきながら質問を投げてくる。
一見すると南蛮風の拵えではあるが、よくよく観察すれば少年は得体の知れない奇妙な風体をしていた。
相手の放つ剣呑な雰囲気にも構わず、少年は小さく首を傾げて訊く。
「俺の格好が、どうかしたか?」
「別にどうもしねぇがな、ここはてめぇみたいな小僧の来る場所じゃねぇ。そんなにチチが恋しけりゃ、家に帰ってお袋のをしゃぶっとけ……親父と仲良く片乳ずつな」
浪人風の発した下世話な言葉に、店内の淀んだ空気は品のない笑声で揺れる。
「違ぇねぇ! 酒を飲んでるよりゃあ、そっちが似合いな年頃だ」
「だなぁ! おめぇみたいな餓鬼、こんなトコ来るには十年早ぇわ」
荒んだ気配を持つ二人の酔客が囃し立て、店主も一緒になって笑う。
ただ一人、店の左奥で碗を傾けている髭面の男だけが、無表情で状況を見守っている。
ここで少年は今までの柔和な雰囲気から一変し、刺々しい声を浪人風に投げつけた。
「そうもいかん。何せ俺の帰るべき家は村ごと燃やされ、母も父も――一族の皆が殺されてるんでな」
「あぁん? なぁに言ってんだ、てめぇ」
言われた方も苛立ちを隠さずに応じ、瞬時に店内が静まる。
炙られていた干魚が爆ぜて静寂を破ると、少年は一つ大きく息を吸ってから告げた。
「探したぞ、山室帯刀」
名を呼ばれた浪人風の男はゆらりと腰を上げ、元々良くない目付きに獰猛さを混ぜて少年を見据える。
「おい小僧……どこでその名を」
「ほう、自分が山室帯刀だと認めるのだな」
失敗を悟った山室は、口の端を引き攣らせ言葉に詰まる。
卓上の椀を一息に乾すと、それを叩き付けるように戻して少年に問う。
「それで、何の用だっ!」
「仇討ちだ。いざ尋常に勝負を致せ」
その申し出を聞いた山室は、壁に立て掛けた長物に手を伸ばしながら鼻で笑う。
「ハッ、どこの誰だか知らんが、この御時勢に仇討ちとはマヌケな小僧だ」
少年は挑発を受け流し、呆れ気味に言葉を返す。
「マヌケはそっちだ。その様子ではどうせ、己が『三日月の山室』という二つ名で賞金首になってるのも知らんだろ。俺は『探索方』となって、お主に関する情報を手に入れた」
「なっ――」
山室は絶句し、右手に掴んだ槍の独特な穂先に目を遣る。
探索方とは賞金を懸けられた罪人の捕縛や追討を生業にしている役職で、世間では『人狩り』とも呼ばれている。
自分が置かれた立場を知った山室から、余裕の態度は完全に消え去った。
「そんな油断ぶりでは、遠からず誰かに討たれただろうな」
「やっ、やかましいわ小僧めが! ……それで、いくらだっ!」
「ん?」
「この首にいくら懸かっているか、と訊いている!」
「確か――五両と二分」
少年の返答を聞いて、山室は気が抜けたような表情を見せる。
「たった? たった、それだけなのか?」
「まぁ、お主の様なチンケな悪党には、この辺が相応しい。ともあれ、探索所の人相書きが上出来で助かった」
「おい、舐めるなよ――」
激昂しかけた山室の目の前で、つづら折りにされた紙が開かれる。
身の丈五尺四寸(約一六四センチ)、歳は三十前後、痩せ型だが厚い胸板。
浅黒い肌、こけた頬、右こめかみの古傷、そして得物の三日月槍。
そんな情報の羅列と共に描かれた絵には、山室によく似た姿が描写されていた。
「クソッ! 面倒な物が出回ってやがる」
「この勝負、受けてもらえるだろうな、山室帯刀」
「……そんなに死に急いでるなら、相手をしてやろう」
武士が人前で果し合いを申し込まれたなら、断るのは不可能に近い。
もし一対一の勝負を逃げたのが広まれば、死ぬまでどころか死んだ後も笑いものだ。
少年と山室のやりとりを眺めていた二人の客は、巻き込まれるのを避けようとしてか足早に店を出て行った。
「そこの御仁、立会を頼めるか」
「お、ワシか? 構わんぞ」
少年に声をかけられ、店の奥に残っていた髭面の男が気軽に応じて立ち上がる。
結構な量を飲んでいそうなのに乱れた様子はなく、その上背は六尺(約一八二センチ)を超える程に高い。
「では、宜しくな」
少年は男に懐から出した金を投げ、山室も舌打ちしながら同じ金額を投げた。
この金は、果し合いで敗死した場合の埋葬代とその手間賃、そして勝った場合は立会への礼金となるもので、双方が共に一朱を出すのが慣例とされている。
立会人を置いての果し合いは、卑怯な行動を封じようとする意味合いが強く、多分に侮辱的な申し出でもある。
だが山室は、そうと知らないか或いはどうでもいいのか、特に抗議はしなかった。
「果し合いだーっ!」
「人狩りと浪人の勝負だぞーっ!」
トンズラした二人の客が、大声で辺りに触れ回っている。
少年が店の外に出ると、滅多にない騒動を見物しようと、見物人がわらわらと酒場の周囲へと集まってきた。
埃。
どぶろく。
汗。
焦げた脂。
諸々のニオイが渾然となった煙たさが鼻につき、まだ少年と呼ぶべき年頃の男は顔を顰める。
入り口で佇んでいる五尺五寸(約百六十七センチ)の人影に、店主である初老の男は干魚を炙る手を止めて問う。
「……客か?」
「ああ」
「……注文は」
「そうだな――では、牛乳をくれ」
「うしぢちぃ? 何でぇ、そりゃあ」
頓狂な声を上げる店主に、少年は落ち着き払って答える。
「知らんのか。文字通りに牛の乳だ。南蛮では皆が当たり前に飲むのだが」
「ここは日本で、そして酒場だ。酒を飲まんのなら帰れ」
店主は不機嫌そうな表情に磨きをかけ、つっけんどんな態度で追い返そうとする。
だが少年はまるで怯まずに、平然と話を続ける胆の太さを見せた。
「そうは言うがな、牛の乳を飲んで獣の肉を食らっているから、南蛮人や紅毛人はああも体がデカくなるらしいぞ」
「それがどうしたってんだ?」
「だから、牛乳も馬鹿にしたものでは――」
「クッ……ハッハッハッハッ!」
わざとらしい笑い声が響き、少年は言葉を切ってそちらを見る。
右奥の卓に陣取った浪人風の男は、地面が剥き出しの床に唾を吐き棄てて言う。
「ペッ――南蛮かぶれの小僧が。その妙なナリも、かぶれの賜物かぁ?」
旅装に汚れとほつれの目立つ浪人風が、ニヤつきながら質問を投げてくる。
一見すると南蛮風の拵えではあるが、よくよく観察すれば少年は得体の知れない奇妙な風体をしていた。
相手の放つ剣呑な雰囲気にも構わず、少年は小さく首を傾げて訊く。
「俺の格好が、どうかしたか?」
「別にどうもしねぇがな、ここはてめぇみたいな小僧の来る場所じゃねぇ。そんなにチチが恋しけりゃ、家に帰ってお袋のをしゃぶっとけ……親父と仲良く片乳ずつな」
浪人風の発した下世話な言葉に、店内の淀んだ空気は品のない笑声で揺れる。
「違ぇねぇ! 酒を飲んでるよりゃあ、そっちが似合いな年頃だ」
「だなぁ! おめぇみたいな餓鬼、こんなトコ来るには十年早ぇわ」
荒んだ気配を持つ二人の酔客が囃し立て、店主も一緒になって笑う。
ただ一人、店の左奥で碗を傾けている髭面の男だけが、無表情で状況を見守っている。
ここで少年は今までの柔和な雰囲気から一変し、刺々しい声を浪人風に投げつけた。
「そうもいかん。何せ俺の帰るべき家は村ごと燃やされ、母も父も――一族の皆が殺されてるんでな」
「あぁん? なぁに言ってんだ、てめぇ」
言われた方も苛立ちを隠さずに応じ、瞬時に店内が静まる。
炙られていた干魚が爆ぜて静寂を破ると、少年は一つ大きく息を吸ってから告げた。
「探したぞ、山室帯刀」
名を呼ばれた浪人風の男はゆらりと腰を上げ、元々良くない目付きに獰猛さを混ぜて少年を見据える。
「おい小僧……どこでその名を」
「ほう、自分が山室帯刀だと認めるのだな」
失敗を悟った山室は、口の端を引き攣らせ言葉に詰まる。
卓上の椀を一息に乾すと、それを叩き付けるように戻して少年に問う。
「それで、何の用だっ!」
「仇討ちだ。いざ尋常に勝負を致せ」
その申し出を聞いた山室は、壁に立て掛けた長物に手を伸ばしながら鼻で笑う。
「ハッ、どこの誰だか知らんが、この御時勢に仇討ちとはマヌケな小僧だ」
少年は挑発を受け流し、呆れ気味に言葉を返す。
「マヌケはそっちだ。その様子ではどうせ、己が『三日月の山室』という二つ名で賞金首になってるのも知らんだろ。俺は『探索方』となって、お主に関する情報を手に入れた」
「なっ――」
山室は絶句し、右手に掴んだ槍の独特な穂先に目を遣る。
探索方とは賞金を懸けられた罪人の捕縛や追討を生業にしている役職で、世間では『人狩り』とも呼ばれている。
自分が置かれた立場を知った山室から、余裕の態度は完全に消え去った。
「そんな油断ぶりでは、遠からず誰かに討たれただろうな」
「やっ、やかましいわ小僧めが! ……それで、いくらだっ!」
「ん?」
「この首にいくら懸かっているか、と訊いている!」
「確か――五両と二分」
少年の返答を聞いて、山室は気が抜けたような表情を見せる。
「たった? たった、それだけなのか?」
「まぁ、お主の様なチンケな悪党には、この辺が相応しい。ともあれ、探索所の人相書きが上出来で助かった」
「おい、舐めるなよ――」
激昂しかけた山室の目の前で、つづら折りにされた紙が開かれる。
身の丈五尺四寸(約一六四センチ)、歳は三十前後、痩せ型だが厚い胸板。
浅黒い肌、こけた頬、右こめかみの古傷、そして得物の三日月槍。
そんな情報の羅列と共に描かれた絵には、山室によく似た姿が描写されていた。
「クソッ! 面倒な物が出回ってやがる」
「この勝負、受けてもらえるだろうな、山室帯刀」
「……そんなに死に急いでるなら、相手をしてやろう」
武士が人前で果し合いを申し込まれたなら、断るのは不可能に近い。
もし一対一の勝負を逃げたのが広まれば、死ぬまでどころか死んだ後も笑いものだ。
少年と山室のやりとりを眺めていた二人の客は、巻き込まれるのを避けようとしてか足早に店を出て行った。
「そこの御仁、立会を頼めるか」
「お、ワシか? 構わんぞ」
少年に声をかけられ、店の奥に残っていた髭面の男が気軽に応じて立ち上がる。
結構な量を飲んでいそうなのに乱れた様子はなく、その上背は六尺(約一八二センチ)を超える程に高い。
「では、宜しくな」
少年は男に懐から出した金を投げ、山室も舌打ちしながら同じ金額を投げた。
この金は、果し合いで敗死した場合の埋葬代とその手間賃、そして勝った場合は立会への礼金となるもので、双方が共に一朱を出すのが慣例とされている。
立会人を置いての果し合いは、卑怯な行動を封じようとする意味合いが強く、多分に侮辱的な申し出でもある。
だが山室は、そうと知らないか或いはどうでもいいのか、特に抗議はしなかった。
「果し合いだーっ!」
「人狩りと浪人の勝負だぞーっ!」
トンズラした二人の客が、大声で辺りに触れ回っている。
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