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第一章 喪失の令嬢

2.出来事

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 ここは闇の森にある泉の監視小屋、中にはなんとも言えない不快な匂いが充満している。人の気配はあるが声は聞こえず、ただギシギシという何かのきしむ音とハァハァという激しい息遣いだけが聞こえてくるだけだ。目を覚ましたクラウディアは最初なにが起きているのかわからなかった。背中を奴隷の証明である刻印で焼かれ、熱さと痛みに耐えきれず気を失ったはず。

 揺れる身体に釣られて頭が揺さぶられていて考え事に集中できないが、どうやらテーブルにうつぶせにされているようだった。まだ背中に熱さを感じる。しかし同時に冷たさも感じていた。それと誰かに圧し掛かられているような重み、これは一体なんだろうか。

 誰なのかと声を掛けようとしたがうまく声が出ない。大体それを知ったところで何になると言うのか。ここに誰かいたとしても会話の出来ない異形の男か、まだいたとしても明らかに味方ではない騎士団員たちだろう。

 しばらくすると水の音が聞こえた。ボタボタと雫の垂れる音が激しくなってから鳴りやむ。どうやらタオルを絞ってクラウディアの背中を拭いているようだ。熱さが軽減されていくのはそのせいだろうが、こすられて痛みも感じるのでありがたいとは言い切れなかった。

「どなたか存じませんが、強く擦らないでいただけますか?
 やけどの跡がとても痛いのです」

 ようやく絞り出すことが出来たか細い声で彼女がそう言うと、背中へ掛けられていた重みはすっと軽くなり、あとには濡れたタオルの重みだけが残った。体の中までジンジンと侵食してくるかゆみを伴う痛みはすぐになくなることはないだろう。それでもぬるくなったそれは気持ちをわずかに軽くしてくれる。

 自由の効かないまま顔だけを動かして辺りを見回すと、そこが見慣れた監視小屋の中であることがわかった。だがなにか様子がおかしい。それにこの匂いはなんだろう。何とか起き上がろうとテーブルに腕をついて腹に力を込めた。

 すると腿の間に冷たいものが垂れるように流れていることに気が付いた。ああそうか、あの騎士団員たちの仕業か、とクラウディアは自らの身に起こった初めての出来事を察し落胆した。両親の死とともに降りかかった不幸を思い出した彼女の頬には再び涙が流れ落ちていく。背中が大きく裂かれたドレスのままでテーブルの上にへたり込むと、足の間に広がる欲望の残滓と顎を伝って落ちていく涙が入り混じり、赤みの混じった乳白色の水たまりを作る。

 止まらない涙は考える力を奪い、その場から動くことすら思い浮かばない。まだすぐ近くに誰かがいるのだと言うことも忘れひたすらに泣いた。どのくらい泣いていただろうか。クラウディアはふと我に返り背後に人の気配があることにようやく気が付いた。

「そこにいるのは誰なの!?
 お願いだからもうひどいことはしないで!」

 クラウディアが精いっぱいの声で叫んだが返事は帰ってこない。胸元を押さえながらゆっくりと振り向くと、そこには濡らしたばかりのタオルを手に持ったアルベルトが、その醜い顔を歪ませながら泣いているのか笑っているのかわからない顔をして立っていた。

◇◇◇

 アルベルトはどうしていいかわからなかった。背中にキズを付けられた女が小屋の中へ連れ込まれて兵士に何かをされている。その行動自体が何なのかはわからないのだが、なぜか自らの肉体の一部に変化が起きているのだ。今までも変化が起きたことはある。しかしこのようなおかしな気持ちにはならなかった。朝起きた時にそうなっているだけで小便をすれば元通りになっていたから気にしたこともない。

「早くしろ、次は俺だぞ。
 一番は譲ったんだから手短に済ませろよ、もう我慢しきれないぜ」

「そうだそうだ、別に逃げやしないんだから早く済ませて交代してくれ。
 気を失っているから口じゃあ楽しめねえからな」

 板の隙間から覗いた先には三人の騎士団員たちがアルベルトと同じように身体の一部を固くして薄汚い笑いを浮かべている。その姿を見て自分も同類なのかと頭を悩ませていると、女のまたぐらへ体を差し入れていた男が交代しまた薄汚く笑っていた。

 その光景を呆然として見ていたアルベルトだったが、次第に体が熱くなり頭に血が上っていくのを感じる。男たちが何度も場所を入れ替わっていき、やがて疲れたように座り込んだ。しかし表情は相変わらず悪意に満ちた笑いを浮かべたままだ。

 自分でもわからない気持ちが込み上げ我慢しきれなくなったアルベルトは、獣を追い払う時に使っている棍棒を握りしめ監視小屋へと飛び込んだ。虚を突かれた騎士団員たちが立ち上がる隙を与えず、次々と脳天へ棍棒を振り下ろす。狭い小屋の中には血の匂いが充満したが、立ち上っているのはそれだけではなく、汗や他のなにかの匂いが混ざっていてとにかく不快だった。

 目の前で起きた出来事と自分の身に湧き上がった感情については何もわからなかったが、自分が打ちのめした三名の命が失われたことくらいはわかっていた。そのわからない感情、すなわち興奮して荒い呼吸をしながらアルベルトは水を汲みに表へ出て再び戻ってくる。しかし息はまだ荒く、今まで経験したことがないくらい胸が苦しかった。

 テーブルへ目をやると、気を失ったままの女は背中をあらわにしており、そこには先ほどつけられた模様がその立場を表している。しかしアルベルトにはそれが何かわからなかった。ただ模様がつけられた時の様子から良くないものだとは感じており、泉から水をくみタオルを絞って擦りはじめる。だが消える気配はなくますます絵柄が浮き上がるのみだ。

 それでも何とかならないかとタオルを何度も絞り、水で流そうと懸命に擦りつづけた。しかし何の成果も得られないうちに女は目をさまし、やめてほしいようなそぶりを見せる。そもそもこいつは誰なのだろうか。自分とも、日に一度食事を運んでくる女とも違い色が白くて線が細い。その割にいたるところが柔らかそうだし近寄るといい匂いがする。

 女がアルベルトを初めて見た時には、今まで出会った幾人(いくにん)かと同じようにギョッとした顔をして驚いていた。それが不快であることを表していることくらい彼にもわかる。獣と違い襲ってくるわけではないが、かといって味方と言うわけでもないと認識していたのがこの女だ。

 振り返った女は怯えているようで小刻みに震えている。アルベルトは敵意がない事を示そうと、精いっぱいの笑顔を作った。
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