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従順な狼

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 朝目覚めたとき、僕は口の中にべとっとした感触が残っているのを感じた。そう言えば寝る直前になってからお菓子をを食べてそのまま寝てしまったのだ。それは亜美に貰ったあの箱に入っていたもので、チョコレートたっぷりのブラウニーだった。

 顔を洗ってから歯磨きをして、それからジャージに着替える。まだ五時なので少し早いけど準備が出来たら行くとしよう。今日はゆっくり長く走るつもりだからだ。

「おう、おはよう、随分早いじゃないか。
 昨日の疲れは残ってないみたいだな」

「父さんおはよう。
 練習試合だったってこともあるけど、継投がうまくはまったし球数も少なかったからね。
 三回で二十一球か、いつもあんな投球が出来たらいいんだけどな」

「それはお前の相棒がよくやってくれたってことだろう。
 でも高校までで野球辞めるつもりらしいじゃねえか」

 そうだ、木戸のやつは家業の居酒屋を継ぐと言っていた。でもまだまだ僕と野球がしたいとも言っている。でもそれが高校卒業までの話なのか、それともその先を見据えて言っているのかはわからない。

「たとえばさ、プロを目指すとしても同じチームになるとは限らないよね。
 いくらドラフトが無くなったからってスカウトする球団の都合もあるだろうし……」

「おいおい、もうスカウトされるつもりでいるのかよ。
 取らぬ狸のなんとやらってことにならなけりゃいいけどな」

「いや、だからたとえ話だよ。
 もしどこかの目に留まるなんてことがあったとしてさ、それはピッチャー一人の功績じゃないじゃん?
 やっぱりバッテリーあっての成績だと思うんだよね。
 もっと言えば、勝利を基準としてスカウトするならチーム全体の力ってことでしょ」

「ははは、活躍したチームごとスカウトしてたら世の中がプロ野球選手であふれちまうわ。
 その中から吟味して将来にわたって活躍しそうな選手をつまんでいくのがスカウトの仕事、やつらもプロなのさ」

 確かに、プロ野球はグラウンドでプレイする選手だけで成り立っているわけじゃない。球団運営やグラウンド管理、その他多くの役割があって多くの人が必要だから球団は会社組織となっているわけだ。

「まあお前はまだそんなことまで考える必要はないさ。
 今だけだぜ? 純粋に野球を楽しんでいられる時期はよ」

「うん、そうだね、毎日楽しませてもらってるよ。
 チームのみんなにも、父さん母さんにも感謝してる。
 もちろん江夏さんご夫婦にもね」

「そう言ってるそばから迎えに来たみたいだわ。
 コーヒーだけセットしてもらっていいか?」

 今日は珍しくゴルフへ行くらしい。父さんは車の運転をしないので、ゴルフの時にはいつも江夏さんが迎えに来ている。僕は頼まれたことにうなずいてからコーヒーメーカーをセットしてスイッチを入れた。

 そうこうしているうちに、母さんが慌ただしく起きて来て僕に向かって突進してくる。やばい、すっかり忘れてた!

「カズ! 朝起こしてって言っておいたじゃないの!
 早く用意しないと置いてきぼりにされちゃうわ」

 母さんと江夏さんの奥さんは、ゴルフ場へ行く途中まで乗っていって観劇にいくと言っていたんだった。自分の事じゃないからすっかり頭から抜けてしまっていた。

 そんなバタバタした朝、結局ランニングへ行く前に全員を見送っていたら、予定時間も大分過ぎてしまっていた。早くランニングへ出かけるとしよう。

 玄関の鍵を閉めてからゆっくりと歩き出し、体を温めながらピッチを上げていく。今日はいつもの防災公園じゃなくて、もっと距離のある神社まで行くのだ。

 だが、僕は走り出してすぐ足を止めて考え込んでしまった。

『父さんも母さんも帰りは夜になると言ってたな。
 ちゃんと夕飯代も置いて行ってくれたし、ということは……』

 そうだ、これって今日一日ずっと咲と一緒にいられるってことじゃないのか!? そうとわかればゆっくりとランニングしてる場合じゃない。手を抜くわけじゃないけどペースは上げていくことにしよう。

 足を再び踏み出した僕は全力疾走に近いくらいのペースで神社へ向かった。


◇◇◇


 早く帰ってきたいという気持ちは強かったけど、それでもトレーニングはきっちりしなくてはいけない。僕はそう自分に言い聞かせながら決めたコースを走り切った。

 家の前の道、すなわち咲の家の前を通る時に二階を見上げたがそこに人影はない。残念な気もしたが慌てることはない。今日一日、時間はたっぷりあるのだ。

 ウキウキしながら玄関の鍵を開け、ドアノブを回したところで僕は足を止めた。

「だ、だれ?」

 背中に何か固いものが押し付けられた感触に思わず冷や汗が流れる。まさかまた亜美がやってきたのだろうか。

 振り向いて確認しようとしたところで背中に当たっていた何かが取り除かれた。そのまま振り返るとそこには誰もいない、なんてことは無く、にっこりと笑っている咲がいた。

「おはよう、びっくりさせないでくれよ」

「あら? なにか思い当たることでもあるのかしら?
 背中へなにか押し付けられるなんて、スパイ映画か何かくらいなものでしょ」

「別にそう言うわけじゃないけどさ……
 急にそんなことされたら驚くに決まってるじゃん」

「それは失礼、ちょっとしたおふざけだったのよ、許して頂戴。
 今帰ってきたところだから朝ごはんまだよね?」

 僕は頷いてから玄関の中へ入り、咲も続いて家の中へ入ってくる。

「ちょっ、ちょっと、また!?」

 後ろからついてきた咲が、また僕の背中になにかを押し付けてきた。しかしそれは先ほどと全く異なり、この世で一番柔らかいものなんじゃないかって思うほどの物体だ。

「うふふ、おはよう、愛しいキミ。
 昨日は試合があって疲れてるでしょうに、今朝もランニングするなんて偉いわね」

「う、うん、一応どんな時でも体を動かしてないと不安になっちゃうからね。
 それよりさ…… あの、背中がさ……」

「嫌だった?
 もしかして背後を取られるのが嫌いとか、どこかで見たマンガみたいなこと言うのかしら」

「そう言うわけじゃなくてさ……
 だってさ、その、む、胸が当たってて……」

 背中に当たっている感触はそれはもう今までで最高に柔らかくて温かい。というか、もしかしてこの柔らかさってことは……

 今まで何度も咲に体を押し付けられてきた僕だけど、不意打ち的にこんなことをされるとさすがに我慢の限界がやってきそうだ。

「いいのよ、我慢しないでも。
 今日はお休みだし、ご両親もお留守よね。
 カオリがお昼と夕食の分、冷蔵庫へ入れておいたから使ってって言ってたもの」

「二人が出かけるって知ってたのか。
 だからと言ってそんなにくっつかれたらさ、僕だっておとなしくしていられないよ?」

「おー怖い、まさか君の口からそんな言葉が出てくるなんて驚きだわ。
 いったいどの口が言っているのかしら」

 咲はそう言うと僕の背中から離れ、両腕で肩を掴んできた。そして僕の体を回すように力を入れてきたので、僕はそれに従い体を反転させる。すると手振りで玄関先へ座るように指差した。

 なんでかはわからないけど、こういうときってなぜか逆らおうとする気が無くなってしまう。僕は言われるがまま、なすがまま玄関先へ座り咲を見上げた。

「脅し文句を言っていたのはこの口なのね。
 まったく、従順でかわいいキミがそんなこと言うなんて驚きよ」

「なんだよそれ、僕は飼い犬じゃないさ。
 いつもやり込められているんだ、たまには言い返したっていいじゃないか」

「ふふ、うふふふ、これはこれは怖い狼さんね。
 もちろんいいわよ、さ、もっと言い返してみて」

 そういうと、靴を脱ぎ捨てながら僕の膝の上へまたがってきた。腿に柔らかな感触が伝わってくる。

「ちょとまててて」

「狼さん、何言ってるかわからないわよ。
 早く言い返して頂戴、遠慮はいらないわ」

 そう言いながら、完全に矛盾した行動、すなわち僕の口をふさぐと言う行動に出たのだ。

「ん…… んう……」

 つい先ほど背中で感じてた柔らかな感触が今度は僕の胸に押し付けられる。背中には咲の両手が絡みついてるし、腿の上にはこれまた柔らかな尻が程よい重みを与えていた。

 咲の息遣いがすぐ目の前ではっきりと感じられる。僕の頭の中から飛び出た、混乱と快感の入り混じった感情が体中を駆け巡り血流を早くする。

 僕も思わず自分の頭を咲に向かって強く押し付け、二人の唇はまるで一つになったようにぴったりとくっついていた。

 やがて僕の口の中に咲の舌が入って来た。そして温かな唾液と共に僕の舌と絡み合う。

「んん、んふ…… ちゅっ……」

 声なのか音なのかわからない、そもそもどちらが発しているのかすらわからない、そんななにかが、玄関先と言うごく普通の空間に充満している。。

 朝っぱらから高校生の男女が玄関先でこんな激しいキスをするなんて…… そんなこと今まで想像したこともなかった。
 
 僕はもう自分の体を支えていることが難しくなり、そのま床へ背中をつけ寝転がった。しかし咲と僕の唇は繋がったままだ。

 もう一生このまま剥がれないんじゃないかと言うくらいしっかりと繋がったまま、僕と咲はゆっくりと玄関前の廊下に寝転がった。

 寝転がった後も二人のキスは続き、先ほどまで咲が僕の背中に腕を回していたのとは逆に、今度は僕が咲の背中に腕を回してその体を引き寄せていた。

『咲…… 咲…… 大好きだよ…… ずっとこうしていたい……』

 僕は声に出さずに咲への想いを頭に浮かべていた。すると咲は急に頭を上げて僕に語りかけた。

「ありがとう、愛しいキミ、私も……」

「わ、私も!?」

 いったん離れたお互いの唇には、もはやどちらの物かわからなくなった唾液が糸を引いている。しかしそんなことはお構いなしで、僕が聞き返そうとしたその瞬間には再び口をふさがれてしまった。

 玄関先でどれくらいの間重なり合ってたのだろうか。はっきりした時間はわからない。なぜならば僕は、またもやそのまま眠りについてしまったのだから。
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