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二 弁天娘女男芝居
五幕目
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さて、心配事のなくなった柳井堂。
なくなったはずではあるのだが――。
「徳くーん。水菓子買ってきてくれないかーい?」
「嫌だ。自分で行け」
「えー? つれなーい」
店の裏の作業部屋。筆を作る徳蔵の後ろに寝転がり、徳蔵の背中を指先でいじっていたのはお菊だった。
「あー梅乃ちゃーん。そろそろ交代の時間?」
「……はい。私、休憩させてもらうので、店番お願いします」
「分かったー」
お菊は勢いをつけて起き上がると、髪をちょいちょいといじり店へと向かった。
部屋に沈黙が落ちる。
徳蔵はやっと煩いのがいなくなったとでも言うかのように、また筆作りに専念し始めた。
とても話しかけられる雰囲気ではない。梅乃は昼餉を取ることにした。
改めてよろしくした梅乃とお菊だったが、お菊の徳蔵たちに対する態度は変わらなかった。
ちょっと気に入らなかったとお菊は言っていた。梅乃の徳蔵に対する想いに気付いて、お菊があんな態度を取っているのかと邪推したが、そうではないらしい。ただ単に、元々の距離感が近いようだ。
不安になってしまう。
別に梅乃は徳蔵の恋人だというわけではないのだ。二人が恋仲になったとしても、なにも言う権利はない。
そもそも徳蔵から好きだといわれてすらいない。誰に対してもそっけない態度の徳蔵が、自分だけに優しいと勘違いしただけ。梅乃はそんな気がしてきていた。
結局なにも話しかけることができないまま、梅乃は昼餉を食べ終えてしまった。
ちらりと徳蔵に視線をやると、真剣な表情で毛先を整えている。なにか話すきっかけがないかと考えるが、思いつかない。
お菊が戻ってきて、柳井堂の店番にも大分余裕ができた。もうしばらく休憩していていいようだ。
蝉の鳴き声が聞こえる。
開け放たれた窓からは風が吹き込んできていて、汗ばんだ肌を涼しくさせる。真剣な徳蔵のこめかみを、汗が一筋流れていった。
梅乃の鼓動が早くなる。作業中の徳蔵は、色気があるのだ。お菊のような女性らしい色っぽさとはまた違う、禁欲的な色気を感じる。
ずっと見てたら気付かれてしまうかもしれない。ちらちら盗み見していた梅乃だったが、小刀を置いた徳蔵にびくりとした。
徳蔵は梅乃に向きなおった。
「やる」
徳蔵は今しがたでき上がったばかりの筆を、梅乃へと差し出してくる。
「前、梅乃にやったやつ、河原崎座の一件で壊れただろ。遅くなったが」
盗み見していたことがばれたのかと思った梅乃だったが、ぽつりぽつりと呟かれる言葉にぽかんとする。
ひと月も前の話だ。
無論、梅乃だって忘れていたわけではない。徳蔵にもらった大事な筆だ。壊れたけれど、家に大切に保管してある。
「すぐに作ってやれなかったのは悪いと思ってる……。仕事が立て込んでいて……」
しどろもどろに話す徳蔵。こんなに弱り切った徳蔵を初めて見た。
筆作りの仕事が立て込んでいたのは事実だ。しかしそれに対して恨み言を言った覚えもないし、思ったこともない。
だが徳蔵はずっと気にしてくれていたのだろう。梅乃の顔に自然と笑みが浮かんでしまう。
小振りの筆は、持ち歩くためのものだろう。きっと言霊封じのため、いつでも使えるようにと仕立ててくれた。
ずっと共にいてもいいと言われたようで、認めてもらえたようで。
「いただいても……いいんですか?」
反応のない梅乃に弱りきっていた徳蔵は、覗き込むように問いかける梅乃にきっと表情を引き締めた。
「勿論。お前のために作ったんだ」
真っ直ぐな視線を向けられて、梅乃の心臓がどくんと高鳴る。自分のためだと言われて、嬉しくないはずがない。
期待しても、いいのだろうか。
「ありがとう、ございます」
そんなこと聞けるはずもなく、梅乃は顔を綻ばせて筆を受け取るしかなかった。
はにかんだ梅乃に徳蔵は赤くなっていたのだが、度胸のない自分にへこんでいた梅乃は気づく由もなかった。
*
「とはいってもなぁ……」
早朝の柳井堂。梅乃は店先で打ち水をしていた。今日も暑くなりそうだ。
梅乃を悩ますものは、ただひとつ。
「徳くーん! 芝居小屋の近くの茶屋、相変わらすおいしかったね! 久々に行ったけど、新作の菓子は当たりだったよー」
黙々と筆を並べる徳蔵に、嬉々として話しかけるお菊。二人の会話が聞こえてきて、梅乃はまた胸のあたりがもやもやしてきた。
どうやら二人は昨日、お妙の茶屋へ行ったらしい。
別にそれをとやかく言うつもりはない。そんな権利もないだろう。
「でも、もやもやするものは、する……」
梅乃は柄杓を手に肩を落とした。
新作の菓子といえば、梅乃と食べに行ったものだろう。あのときのことは、今思い出しても顔が熱くなってしまう。
だからこそ、お菊と二人で行ったということに妬いてしまう。
「だから別になにか言われたわけじゃないんだって!」
もしかしたら、徳蔵も同じ気持ちなのでは、と思うこともある。だがなにか言われたわけではないし、加えてお菊の登場だ。
梅乃はちらりと店の中を見やった。お菊が徳蔵にべったりくっついている。
近い。近すぎる。
二人の中を怪しむには充分な光景だった。
「はぁ……」
梅乃は知らず知らずのうちに溜息が零れてしまう。
「ん?」
足元に違和感がして目を向けた。そこにいたのは――。
「柳さん!」
猫の柳さんが梅乃の着物の裾に顔を摺り寄せて、「なーお」と鳴いた。
久々の仕事である。
*
日も暮れて、鈴虫の鳴き始めた夜半時。梅乃は徳蔵とともに、柳井堂の前にいた。
「では二人とも、頼みましたよ」
見送るのは総兵衛。
常ならば弥吉も来るはずだった。しかしお菊が別の言霊を見つけてきてしまい、そちらに弥吉と共に行くことになってしまったのだ。
嬉しい反面、いまだもやもやが続いている梅乃は少し複雑だ。だが柳さんが歩き出してしまったので、ついていくしかなかった。
暗がりの道を、柳さんは迷いなく進む。徳蔵の歩幅も大きい。必死でついていく梅乃だが、時折遅れがちになる。
徳蔵がちらりと振り返った。少し歩みを緩める。
なんだろうと梅乃が顔を上げると、手を差し出された。
「繋いでろ。はぐれると困る」
「え!?」
有無を言わさず手を取られた。声を上げる間もなく手を引かれる。
鼓動が早くなるのは、走っているせいか、それとも掌から伝わる熱のせいか。
いつもならば、遅れることはない。弥吉が歩みを合わせていてくれたことを、今さらながらに梅乃は思い至った。
だがこうして徳蔵は気づいてくれた。それだけで梅乃は胸がいっぱいになる。
言霊使いとしての仕事中だ。こんな気持ちになっている場合ではないとは思う。
しかし梅乃はもう少しだけ手を繋いでいたくて、赤くなった頬を闇夜に隠していた。
なくなったはずではあるのだが――。
「徳くーん。水菓子買ってきてくれないかーい?」
「嫌だ。自分で行け」
「えー? つれなーい」
店の裏の作業部屋。筆を作る徳蔵の後ろに寝転がり、徳蔵の背中を指先でいじっていたのはお菊だった。
「あー梅乃ちゃーん。そろそろ交代の時間?」
「……はい。私、休憩させてもらうので、店番お願いします」
「分かったー」
お菊は勢いをつけて起き上がると、髪をちょいちょいといじり店へと向かった。
部屋に沈黙が落ちる。
徳蔵はやっと煩いのがいなくなったとでも言うかのように、また筆作りに専念し始めた。
とても話しかけられる雰囲気ではない。梅乃は昼餉を取ることにした。
改めてよろしくした梅乃とお菊だったが、お菊の徳蔵たちに対する態度は変わらなかった。
ちょっと気に入らなかったとお菊は言っていた。梅乃の徳蔵に対する想いに気付いて、お菊があんな態度を取っているのかと邪推したが、そうではないらしい。ただ単に、元々の距離感が近いようだ。
不安になってしまう。
別に梅乃は徳蔵の恋人だというわけではないのだ。二人が恋仲になったとしても、なにも言う権利はない。
そもそも徳蔵から好きだといわれてすらいない。誰に対してもそっけない態度の徳蔵が、自分だけに優しいと勘違いしただけ。梅乃はそんな気がしてきていた。
結局なにも話しかけることができないまま、梅乃は昼餉を食べ終えてしまった。
ちらりと徳蔵に視線をやると、真剣な表情で毛先を整えている。なにか話すきっかけがないかと考えるが、思いつかない。
お菊が戻ってきて、柳井堂の店番にも大分余裕ができた。もうしばらく休憩していていいようだ。
蝉の鳴き声が聞こえる。
開け放たれた窓からは風が吹き込んできていて、汗ばんだ肌を涼しくさせる。真剣な徳蔵のこめかみを、汗が一筋流れていった。
梅乃の鼓動が早くなる。作業中の徳蔵は、色気があるのだ。お菊のような女性らしい色っぽさとはまた違う、禁欲的な色気を感じる。
ずっと見てたら気付かれてしまうかもしれない。ちらちら盗み見していた梅乃だったが、小刀を置いた徳蔵にびくりとした。
徳蔵は梅乃に向きなおった。
「やる」
徳蔵は今しがたでき上がったばかりの筆を、梅乃へと差し出してくる。
「前、梅乃にやったやつ、河原崎座の一件で壊れただろ。遅くなったが」
盗み見していたことがばれたのかと思った梅乃だったが、ぽつりぽつりと呟かれる言葉にぽかんとする。
ひと月も前の話だ。
無論、梅乃だって忘れていたわけではない。徳蔵にもらった大事な筆だ。壊れたけれど、家に大切に保管してある。
「すぐに作ってやれなかったのは悪いと思ってる……。仕事が立て込んでいて……」
しどろもどろに話す徳蔵。こんなに弱り切った徳蔵を初めて見た。
筆作りの仕事が立て込んでいたのは事実だ。しかしそれに対して恨み言を言った覚えもないし、思ったこともない。
だが徳蔵はずっと気にしてくれていたのだろう。梅乃の顔に自然と笑みが浮かんでしまう。
小振りの筆は、持ち歩くためのものだろう。きっと言霊封じのため、いつでも使えるようにと仕立ててくれた。
ずっと共にいてもいいと言われたようで、認めてもらえたようで。
「いただいても……いいんですか?」
反応のない梅乃に弱りきっていた徳蔵は、覗き込むように問いかける梅乃にきっと表情を引き締めた。
「勿論。お前のために作ったんだ」
真っ直ぐな視線を向けられて、梅乃の心臓がどくんと高鳴る。自分のためだと言われて、嬉しくないはずがない。
期待しても、いいのだろうか。
「ありがとう、ございます」
そんなこと聞けるはずもなく、梅乃は顔を綻ばせて筆を受け取るしかなかった。
はにかんだ梅乃に徳蔵は赤くなっていたのだが、度胸のない自分にへこんでいた梅乃は気づく由もなかった。
*
「とはいってもなぁ……」
早朝の柳井堂。梅乃は店先で打ち水をしていた。今日も暑くなりそうだ。
梅乃を悩ますものは、ただひとつ。
「徳くーん! 芝居小屋の近くの茶屋、相変わらすおいしかったね! 久々に行ったけど、新作の菓子は当たりだったよー」
黙々と筆を並べる徳蔵に、嬉々として話しかけるお菊。二人の会話が聞こえてきて、梅乃はまた胸のあたりがもやもやしてきた。
どうやら二人は昨日、お妙の茶屋へ行ったらしい。
別にそれをとやかく言うつもりはない。そんな権利もないだろう。
「でも、もやもやするものは、する……」
梅乃は柄杓を手に肩を落とした。
新作の菓子といえば、梅乃と食べに行ったものだろう。あのときのことは、今思い出しても顔が熱くなってしまう。
だからこそ、お菊と二人で行ったということに妬いてしまう。
「だから別になにか言われたわけじゃないんだって!」
もしかしたら、徳蔵も同じ気持ちなのでは、と思うこともある。だがなにか言われたわけではないし、加えてお菊の登場だ。
梅乃はちらりと店の中を見やった。お菊が徳蔵にべったりくっついている。
近い。近すぎる。
二人の中を怪しむには充分な光景だった。
「はぁ……」
梅乃は知らず知らずのうちに溜息が零れてしまう。
「ん?」
足元に違和感がして目を向けた。そこにいたのは――。
「柳さん!」
猫の柳さんが梅乃の着物の裾に顔を摺り寄せて、「なーお」と鳴いた。
久々の仕事である。
*
日も暮れて、鈴虫の鳴き始めた夜半時。梅乃は徳蔵とともに、柳井堂の前にいた。
「では二人とも、頼みましたよ」
見送るのは総兵衛。
常ならば弥吉も来るはずだった。しかしお菊が別の言霊を見つけてきてしまい、そちらに弥吉と共に行くことになってしまったのだ。
嬉しい反面、いまだもやもやが続いている梅乃は少し複雑だ。だが柳さんが歩き出してしまったので、ついていくしかなかった。
暗がりの道を、柳さんは迷いなく進む。徳蔵の歩幅も大きい。必死でついていく梅乃だが、時折遅れがちになる。
徳蔵がちらりと振り返った。少し歩みを緩める。
なんだろうと梅乃が顔を上げると、手を差し出された。
「繋いでろ。はぐれると困る」
「え!?」
有無を言わさず手を取られた。声を上げる間もなく手を引かれる。
鼓動が早くなるのは、走っているせいか、それとも掌から伝わる熱のせいか。
いつもならば、遅れることはない。弥吉が歩みを合わせていてくれたことを、今さらながらに梅乃は思い至った。
だがこうして徳蔵は気づいてくれた。それだけで梅乃は胸がいっぱいになる。
言霊使いとしての仕事中だ。こんな気持ちになっている場合ではないとは思う。
しかし梅乃はもう少しだけ手を繋いでいたくて、赤くなった頬を闇夜に隠していた。
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