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第37話
しおりを挟む三学期が始まると、佳純と話す時間は減った。生徒会をリコールしたとか、会長になったとか、夢うつつにそんな話を聞いた気がするから、佳純は多忙きわめているのだろう、とぼんやりとベッドに腰掛けて窓の外を見つめながら考えた。そうして、一日を過ごし、今日も会えなかったなと思い、眠りにつく。時節、深夜に目が覚め、辺りを見回すと、遠くのソファで毛布をかぶって眠りにつく佳純がいることに気づいた。足音を忍ばせ、裸足で柔らかいカーペットを踏みしめて近寄る。月明かりに淡く照らされる彼は、疲れた表情をしている気がした。そ、と勝手に腕が伸びて、頬に触れかけて、しばらく考えた。小さく寝息をかく彼は幼く見えて、頬が緩む。しかし、頬に触れることが出来ず、宙に浮いたままの手を力なく降ろした。ずれた温かい毛布を少しだけ肩にかけなおして、僕は自分のベッドに戻った。本当なら、起こして抱きしめて、毎日会いに来て、とわがままを言いたかった。そして、同じベッドで寝ようと誘いたかった。
だけど、そんなことは出来ない。
焦ってはいけない。傷ついてはいけない。
だって、その、もっともっと倍、佳純は僕を待ち続けてくれているし、傷ついているのだから。
にじむ視界を、ぐっと瞼に力を入れて目をつむると、質の良い枕にまた雫が吸い込まれていった。
「え?!佳純のやつ、そんなに七海に会ってねえの?」
この屋敷で毎日焼いているという絶品のスコーンを頬張りながら、凛太郎は叫んだ。僕は温かい紅茶を舐めながら、うなずいた。
新学期が始まり、佳純が家を空けることが増えると目の前にいる、髪の毛を短くこざっぱりと切りそろえた品の良い少年が来てくれるようなった。彼は凛太郎と言い、佳純とは幼馴染のような関係らしい。言葉遣いは少々荒いのだが、顔つきや所作は非常に品が良く、目つきも聡明だ。小柄で僕と同じような体格だが、勇ましく頼もしさも持ち合わせている。性格もさっぱりとしていて明るい彼に、僕はすぐになついた。佳純以外で心を開ける存在が増えたことに心底安心したし、彼からは僕の知らない佳純の話がたくさん聞けて、会える日が待ち遠しかった。
「確かに、忙しいのはわかってたし、そうさせたのは俺だから、えらそうに言えねえけどさ…」
唇を尖らして、目つきをこわばらせる凛太郎は愛らしくも見える。
凛太郎は、あの学園の風紀委員らしい。こんなに小柄な風紀委員がいることを僕は知らなかったが、彼は副委員長の座にいるらしいことにも驚愕した。しかし、彼のまっすぐな眼差しと強い正義感はまさしく風紀を取り締まる役職が天職であろうと感じる。
転校生が生徒会や学園の人気者を次々とオメガのフェロモンで屈服させていき、何か転校生がまずい具合になると生徒会のメンバーが権力を尽くし守ることから、学園内の秩序は滅茶苦茶になっていったらしい。転校生の所かまわずふりまくフェロモンにあてられた生徒が暴行を繰り返す事態が横行し、時を見計らっていた凛太郎や同じ志を持つものが集まり、反旗を翻したそうだ。
佳純が生徒会長をしていると聞いた時は、嘘だ~と笑ったが、凛太郎が真剣なまなざしすぎたため、事実であるのだと信じざるを得なかった。その時に凛太郎から、佳純が全国屈指の超大手製薬会社の御曹司であることや、学園随一の秀才だということなど夢のような話を聞いた。確かに、夏休みに過ごした別荘や今いる大きな屋敷のこと、さらに授業に一切出ないあの素振りなどを考えると、なんだかそうなのだと思わされてしまった。ぽかん、と口を開けて話を聞くだけの僕に、将来安泰のおすすめ物件だ、とにんまり笑顔で言われて、気まずく今飲んでいるのと同じ紅茶をすすった記憶がよみがえってくる。
もう世の中は二月を迎えようとしているらしい。僕だけ、まだ、夏明けの時に取り残されている気持ちなのだが…。
「七海には悪いことしたな…今、佳純がそばにいなくて、心細いだろ…?」
隣に腰掛けた凛太郎は、大きな瞳を揺らして、僕の手を握りしてめてくれた。慰めるような温かい手に、心がじんわりと体温を分けてもらえたように温かくなる。
「大丈夫、僕、凛太郎と過ごす時間も好きだから」
きゅ、と凛太郎の眉根がよるが、僕は微笑み返すことしかできなかった。
いつもの周期通りであれば、今頃とっくに発情期がきているはずなのだ。しかし、身体にはびっくりするほど変化はない。毎日様子を伺いにくる医師に、それとないフリをして尋ねたことがあったが、今は身体が休めと言ってるんですよと曖昧に微笑まれただけだった。眠れない夜に、少し考えたが、きっとフェロモン異常を起こした後遺症なのではないかと結論付けた。そう思うと、これから僕には発情期が来るのかという疑問がわいた。あの苦しい発情期なんか来なくたっていいじゃないか、と思ったが、心の奥の僕は、そうは言わなかった。佳純との将来への不安に押しつぶされそうになったが、佳純が部屋に入ってきたのがわかったので、急いで目をつむり寝たふりをした。
あの夜からずっと心に引っかかっている事柄は、解消されない。ずっと心の中に残っている。
実は、佳純と話すことに怖さも抱いている自分にも気づいていた。
発情期のなくなったオメガなど、アルファは必要としないだろう。学園での、いろんなシーンを思い出し、背筋が凍る。こんな、汚され、面倒くさいオメガを囲っているメリットなど、今の佳純にはないはずなのだ。オメガとしての価値がなくなった途端、僕はそんな思考に取りつかれていた。佳純に、いらない、と言われたら、僕はどう生きていけば良いのだろう。そう思うと身体が震えて、涙が止まらなくなる。
今も、そんな考えが脳をかすめ、震えそうになる手を握りこんで誤魔化す。僕の手に置かれた凛太郎のそれに左手を乗せる。
彼でない身体にはこんなに簡単に触れられるのに。手元を見つめる。
「凛太郎の手、あったかいね」
あまりにも頼りない声色で自分でもがっかりしてしまう。もっと上手に、人に心配をかけないようにできないものかと反省する。
「心もあったかいからな~」
僕の左手に凛太郎は左手を重ねて、ぎゅうと力強く握った。大きく縦にぶんぶんと振り、歯列の美しいそれを遠慮なくにっかりさせ僕に見せつけてくる。こうした凛太郎の聡い心遣いは、今の僕を救うものだった。嬉しくて、勝手に口元が綻ぶ。
「にしても、やっぱり、あのバカタレは恋人ほっぽっといて、本当に信じられねえわ」
七海が出来ないだろうから、今度俺がぶん殴っといてやる、と鼻息荒く目をきらきらさせながら凛太郎がいうものだから、つい声を出して笑ってしまう。佳純と深い信頼関係にある彼がうらやましくもなるが、同時に彼が心を許している存在を僕に紹介してくれたことにも嬉しくなる。凛太郎とは、長く友達でいたいと僕は思っているのだ。
凛太郎だって、あの学園の後始末やリコール後の整備など仕事が立て込んでいるはずなのに、ゆったりと僕の隣で過ごし、楽しませてくれる。わがままを言って、夕飯も一緒に過ごしてもらうと、僕は少し食が進むのだ。それを凛太郎もわかっていて、よく食事にも付き添ってくれる。貴重な彼の時間を分けてもらえることにも心に温度が宿るのだ。その分、彼が家を去っていくと、ぽっかり大きな穴が開いたように寂しくて、滑り込むベッドがより冷たいように思える。そして、今日も憂鬱な夜を過ごすのだ。マイナスな思考を振り払うように、ラックから雑誌を取り出す。見かけによらず、たっくさん食べる凛太郎が好みそうな料理を見つけ出すのが、最近に日課だ。おいしそうな料理を見ていると、たまに空腹を感じる。そうした瞬間に、自分が生きていることを実感するのだ。今日もページをめくり、茶色く、てかてかと光る肉料理を見つめていく。本当は、これらの料理と、心許せる友人と、大好きなあの彼と一緒に過ごせる日が来ることを心待ちにしている自分がいるのだ。そんな自分に、ふ、と笑い、ため息をついてしまう。
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