甘雨ふりをり

麻田

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第34話

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 太陽がまぶしい。
 目をしかめて、手のひらで日差しを遮る。ゆっくりと目を回し、状況を把握する。柔らかい芝が僕の頬を撫で、身体を包み込んでいる。中には背のある野花も咲いて彩があり、どこまでの野原は続いていた。時に優しい風が吹き、甘い匂いがする。日差しによってから、身体は温かい。鳥の鳴き声も愛らしく遠くで聞こえる。
 なんて心地いいんだろう。
 でも、何かが物足りない。何か大きな存在。なんだっけなあ…。
 瞼を降ろして、深呼吸すると、意識が遠のく。
 ああ、まだ、ここにいたいのに…




 まばたきをぼんやりと繰り返す。白くて高い天井が見える。身体は鉛のように重く動かすことができない。頭もひどく鈍い。何があったのかを考えようとしても、頭の奥がずきんと痛んでやめた。目線だけ少し動かすとベッドに肘を立てて、僕の手のひらを握り額に当てる男がいた。ひんやりと冷たい手のひらを握り返そうとするが、すぐには身体が反応せず、力も入らない。かすかに動いた指先に気づいたようで、彼は動いたそれを見つめてから、僕を瞳にとらえた。

「七海っ」

 彼は身を乗り出して、僕の顔を覗き込んだ。眉をきつく寄せ、その瞳は滲み、ゆらゆらと揺れていた。顔色が悪く、クマもひどい。僕は何も命令していないが、身体が勝手に、泣きそうな彼の頬に震える手を添えた。彼はすがるようにそれを両手で握りしめて、はらりと一粒、まなじりから雫があふれた。
 佳純、泣かないで…僕は大丈夫だよ…
 声に出したかったが、力なく微笑むことしかできず、僕はもう一度、微睡みの中に引きずり込まれた。




 頬を柔らかい何かが撫で、くすぐったい。
 さっきの芝だ。目の前には、テントウ虫が葉に止まっている。小さく、可愛らしいその姿を僕はじっと見つめる。風が、ざ、と吹くと、テントウ虫はその自然の力に身を任せて、飛んで行ってしまった。仰向けに顔を戻すと、青空の前に白い雲がゆっくりと流れていく。何かが聞こえて、身体を起こす。
 辺りを見回すと、野花の奥に誰かがいる。芝生を払って歩を進める。小さな男の子が、身体を丸めて何かをしている。

「何してるの?」

 驚かせないように、できるだけ優しく声をかけると、男の子は僕に振り返る。にっこりと年相応の愛らしい純粋な笑顔で手元のものを見せてくれる。

「これ、あげるの」

 前歯が抜けてかけている。そのちょっと間抜けな純朴な笑顔がかわいくて、僕も笑顔になる。彼の周りを見ると、先までは気づかなかったが、一面シロツメクサの真っ白な花畑だった。見せてくれたそれは、その白い花を幾重にも重ね、茎を編まれている。

「誰に?」

 隣に腰を下ろすと少年は、手元に視線を戻し、丸々とした短い指で、もたもたと花を編む。そして、まあるい頬にさらに赤みがさした。

「だいすきなひと」

 ひみつだよ、と笑う彼は手元の白い花のように可憐で愛おしく思えた。ふふ、と笑い返すと、嬉しそうに微笑んだ。目の前の少年には、なんだか懐かしい気がしたが考えることが煩わしい。この温かい空間には、余計な思慮は不必要なのだ。




 話し声が聞こえて、意識はまた天井の高いベッドの上に戻る。大きい窓からはまぶしいほどの日差しが降り注いでいた。その前に彼が携帯に耳を当てて立っていた。まるで後光のように差し込む背景に、美しさを感じ、胸の奥が熱くなるのを感じた。

「ああ、そっちはお前にまかせる。必要な書類はすべてデータで送ってくれ」

 溜め息をつきながら彼が前髪をかき上げ振り返ると、ちか、と耳元で強い光が瞳を貫く。その光に眉根を寄せると、彼と目が合う。

「…あとで、かけなおす」

 電話先で何かがまだ聞こえていたが、彼は携帯をしまい込み、僕のもとへ駆け寄ってきてくれた。大きな身体を跪かせ、ベッドに乗り上げて僕の頭におそるおそる手をそえ、優しく撫でる。

「七海…」

 大切に、囁くようにバリトンが響くと、僕の身体の奥に熱が宿る。身じろぎしたくなるような、くすぐったさのある空気に頬がゆるむ。近くで彼を見て、手を差し伸べる。耳元についているピアスを撫でる。さっき、光っていたのは、これだったのか。とぼんやりとする頭で思う。

「七海」

 すがるように名前を呼ばれて、僕も名前を呼び返したかった。でも、唇は小さく動くだけで、声は出ない。それでも、彼には伝わったようで、眉間に皺を寄せながら彼は口元を綻ばせた。それなのに、つらそうな表情は変わらない。
 何してるの、佳純…電話、しなくていいの…?
 前みたいに、茶化しながら唇をつっついてやりたくなった。前みたいに、と考えた頭で、そんなことあったっけ?と混濁する記憶を辿ろうとして、頭痛に目をきつく閉じる。

「七海!」

 そんな表情の僕を大げさなほど彼が動揺して見せる。
 はは、大丈夫だよ…僕は、大丈夫だよ…
 体温がまだ低いようで、寒気がする。微笑むが、彼がより鼻に皺を寄せてつらい顔をするから、うまく笑えなかったのかもしれない。
 大丈夫だよ…




 唱えながら、まばたきをすると、僕はまた野原の世界にいた。少し違うのは、僕の周りには白い野花が咲いていること。隣からは鼻歌が聞こえる。その音を奏でる主は、相変わらずもたもたと花を編み続けている。半分と少しほど編めただろうか。

「僕も、編んでみようかな」

 膝を抱えて、少年の可愛らしい小さな爪を見ながらつぶやくと、うふふと可憐な少女のように彼は笑う。

「大丈夫だよ」

 え?と聞き返すと、少年は手を休めて、僕を見つめた。大きな瞳は潤みをもっていて、それに見つめられると、たじろいでしまう。じ、と見つめてから、ふにゃりと少年は笑う。

「お兄さんの分を、僕が編んでるから」
「…それって、どういうこと?」

 ますます理解ができず、つい眉間を寄せてしまう。混乱する僕を他所に、少年はまたご機嫌で鼻歌を奏でながら、花冠の制作に戻ってしまった。温かな風が吹き、甘いいい匂いが鼻をかすめる。





「遠くまで悪いな」

 部屋の奥で声がする。彼の心地よく響く声だ。瞼は小さくぴくりと動いたが、開くことはできない。力ない身体は、簡単にあきらめてしまう。

「なに、そんくらい言うこと聞いてやるよ。俺のわがままに付き合ってもらってるところもあるしな」

 もう一人、男の声がする。少年のような高い声に聞き覚えがあるような気がした。その時も、僕は眠りつく寸前だったような…。つき、と頭が痛んで、考えるのをやめた。

「それより、お姫様の様態はどうなんだよ」

 二週間は意識が戻ってないんだろ?という男に対して、佳純は「中途覚醒はある」と小声で答えた。
 どうやら、僕はそんなに寝ていたようだ。時間経過を全く感じない身体に違和感を覚えるが、常に白昼夢にいるような現実でも夢でもない曖昧な世界でたゆたっている体感はあった。

「お、顔色は前よりかは良くなったじゃん」

 すぐ近くで声がして、明るい男の声が聞こえる。後ろから、スリッパの足音が鳴り、声が聞こえる。

「解毒がようやく済んだ」

 ぎ、と奥歯を噛み潰す音がして、彼は声を押し殺しながら苦しくつぶやいた。彼と同じような反応をしながら、男もつぶやいた。

「本当に許せねえ…耐性できるまでフェロモンレイプしまくって、効かなくなったら強制発情剤を使うなんて…」

 人間のすることじゃねえよ…と唸るように男は低くつぶやき、舌打ちをする。理解ができずに頭がぼんやりとするが、きっとそれは僕のことなんだ、と他人事のように思った。そう言われれば、最後の方は、水を飲むと発情期のような状態になった記憶があるような気もする。

「あいつらもあいつらで、転校生に部活をめちゃくちゃにされて、自分たちを犠牲にしたってとこ考えると被害者なんだろうが…」
「んなの、関係ねえよ」

 男の言葉を遮るように、地を這うような冷たい低音が貫く。その冷たさに、男は息を飲み、僕もじり、と背筋が冷えた。

「俺がめんどくさい仕事を引き受けたんだ。やることはしっかりやる。その分…」
「はいはい、わかってますよ、生徒会長様」

 場を和ますように、男がわざと茶化した口調で答える。生徒会長って…どういうこと…?身体を起こして、聞きたかったが、泥沼にはまったように意識はあがってくることはできない。

「…その言い方をやめろ…」
「それより、きっちりお姫様を守る準備しとかねえとな~佳純生徒会長サマ親衛隊もでき始めてるって噂だぜ?」
「それは抜かりないが…んだよそれ…めんどくさ……」

 そっちは凛太郎がなんとかしてくれ…、と呆れたように佳純がつぶやいた。足音が遠のきながら、凛太郎と呼ばれた男の声がする。

「俺は、生徒会リコールの後始末で忙しいから無理~」

 じゃ、がんばって~と軽く言ったあと、ドアの閉まる音がして、僕の意識も途絶えた。



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