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第49.5話
しおりを挟む早く、依織の笑顔が見たかった。
依織の柔らかで優しく、甘い香りに浸りたかった。
それで、隣で冗談を言って、依織が花が綻ぶように微笑むのだ。
そうすると、俺は、心が溶けて、全身が密に浸かるように、幸せになるのだ。
自分の望まないオメガとのヒート明けは、精神的にも肉体的にも、ダメージが大きい。
おそらく性技に慣れた香耶との相手は特に疲れる。執拗に求められるのだ。しかし、それに応えられないとなると、アルファとしてのプライドが許さなかった。だから、付き合うしかないのだ。これは、本能からなるものだから、仕方ないのだ。
しかし、吐精すればするほど、目の前にいるオメガが依織でないことにも、依織でないオメガに吐精できてしまう自分にも、嫌気が増していくのだ。
だから、早く、依織に癒されたかった。
会って、俺しか映っていない大きな黒目を覗いて、キスをしたかった。
依織の甘い吐息をすべて飲み込んでしまいたかった。
それなのに。
依織と連絡がつかない。
家に行ったら、すでに学園に帰ったと言われた。
俺をおいて。
俺には何の連絡もせずに。
許されるはずがない。
夏休み、どれだけ俺が我慢したか。
そうでないと、兄が依織に何をするかわからなかったから、我慢したのだ。
本当に依織とずっと一緒にいたかった。
依織の隣には、俺だけがいればいいのだ。
それなのに。
依織は兄の隣で腕を組み、目を合わせ、微笑んだ。
俺以外のアルファに。
そうして、勝手に学園に帰った。
何度、コールを鳴らしても、電源の入っていない無機質なアナウンスしか流れない。
どれだけメッセージを送っても、一向に既読のマークはつかない。
何かあったのだろうかと心配すら湧き上がってくる。急いで、運転手に学園に向かうよう指示をして、オメガ寮の受付に話をする。すでに、大田川の名前を使って、寮長とは話がついているのだ。
聞くと、依織は数日前に帰ってきていて、今は、シェルターにいるらしい。
(俺が他のオメガの相手をしてつらい時に、依織は一人でシェルターにいる?)
意味がわからなかった。
なんで、俺に連絡しないのか。
もうキスだってした。
好きだと何度も伝えた。
その度に依織は照れくさそうに、潤んだ瞳をしていたじゃないか。
なぜ、俺を発情期に呼ばないのか。
それは、俺が、アルファとして認められていないからなのか。
そんなはずはない。
依織は、どう見ても、俺に気がある。
依織は奥ゆかしくて、照れ屋で純粋だから、言葉が出ない。だから、表情からくみ取るしかないのだ。昔からそうだ。依織のことを一番わかっているのは、俺だけだ。
だから、兄の隣で微笑む依織が作り笑顔だということもわかっている。
それを見抜けない兄はなんて愚かなのだと、気分が良くなる。
だけど、あの美しい笑みを俺以外には見せたくないのだ。
特に、俺以外のアルファには。
(他のアルファが…?)
最近になって表れた、アルファがふと思いつく。
(そんな訳ない。依織があんなほぼベータみたいな落ちこぼれ貧乏アルファと…)
は、と鼻で笑い飛ばすが、妙にざわつきを覚えた。どうしてなのかわからない。
どう考えても、人気も地位も財力も、依織と過ごした時間も、何もかも勝っている。
それなのに、どうして、周囲が噂をたてていた貧乏アルファのことが気にかかるのだろうか。
これは、本能が訴えかけているのかもしれない。
自分を落ち着かせるためにも、あいつと一度会っておく必要がある。
(依織は優しい)
だから、あいつも依織の優しさに勘違いしているだけだ。
(現実を教えてやらないと)
いつまでも夢見てんなって。
踵を返して、急いでアルファ寮へと向かう。仲の良い寮長に愛想を振りまいて、部屋番号を聞き出す。笑顔で別れるが、角を曲がって、誰もいない廊下を駆け出す。階段を上がり、部屋の前に立つ。ど、ど、と心臓が低く鳴り響く。うるさいほどに。
誰が見ても圧倒的格下アルファにも関わらず、なぜ俺が会いに来なければならないのだ。
部屋前に立って乱れた前髪をかき上げて、一呼吸置いたら冷静になってきた。
(あほらし…)
依織が発情期に、こいつを呼んでるかもしれないなんて、どうして思ったのだろうか。そんなわけがない。ありえない。
急激に興味が失せて、来た道を帰ろうと振り返った瞬間だった。
「何かご用ですか?」
学校などないはずなのに、制服にスクールバックを肩にした男が立っていた。
思わず瞠目してしまう。俺の記憶の中では、もっと前髪の長い、猫背の男だったはずだ。
しかし、目の前にいるのは、俺よりも背が高く、体格も厚みのある凛々しいアルファだった。太目の眉は誠実さを表しているようで、瞳は穏やかで眦は甘く垂れている。鼻筋は高く通っており、輪郭も凛々しい。
おまけに漂う香りはアルファそのものだった。依織からたまに、かすかに香る程度のものとは比べ物にならない濃度のものだった。鼻をしかめ、睨みつける。
「お前か? 依織に纏わりついてんの」
依織、という言葉に眉をぴくり、と動かした男は、オーラに圧を込めて俺を見下ろす。
「何のことかわかりませんが」
明らかな動揺に、自覚があるのかと鼻で笑う。
「いつも依織に纏わりついてんだよ、貧乏くさいニオイが」
ぎゅ、と眉根が寄ると、目の前の男は俺から視線をそらした。本能で負けを認めているようなものだ。
「もう依織に近づくなよ」
前髪をかき上げて、ポケットに手を突っ込んで口角を上げながら言い捨てる。その言葉を聞いてから、もう一度視線をあげて、強い眼差しで俺を睨みつけた。鋭い威圧のこめられたそれに半歩下がってしまう。
「それは、依織先輩の言葉ですか?」
「あ、ああ? そうに決まってるだろ?」
そうに決まっている。
俺には、依織のことが何でもわかる。
ずっと隣にいたのだから。
言葉にしなくても、依織が望んでいることがわかる。
それは、俺の隣にずっといること。
俺と、番になること。一生、俺といること。
ずっとわかってきた。依織の好きなもの、ほしいもの、ほしい言葉。だから、今、俺はこの学園にいる。
だから、間違いない。
笑って返すが、しばらく俺を見下ろしてから、目の前の男は小さく息をはいて、瞼を降ろした。それから、一歩踏み出して、俺の隣を通り過ぎる。
「お、おい!」
鍵を開けて、ドアノブを回す。男は興味なさそうに俺を見返した。
「僕は依織先輩のことしか信じません」
だから、お帰りください。あなたには用はありません。
冷えた瞳はそう物語ながら、俺を見ていた。
途端に、上位のアルファである俺になんて物言いだと、ぐつ、と身体の芯が煮える音がした。
「俺の言葉は依織の言葉だ。なめたこと言ってんじゃねえぞ」
俺よりも少し高い位置にある顔をさらに目を細めて睨みつける。男も正面に向き直り、俺を見下ろす。
「僕は依織先輩の直接言った言葉しか信じません」
「てめえに依織の何がわかんだよ?」
か、と脳内が真っ赤になると、男のワイシャツの襟もとを掴み上げた。もちろん持ち上がるはずのない男の身体だったが、威圧するには効果があるはずだ。しかし、男は至近距離で圧をかけても何も感じていないように冷静にただ、俺の顔を見返していた。
「何もわかりません」
そうのたまう男に、だろうな、と気分が良くなる。口角があがる。
「依織先輩の気持ちは依織先輩のものですから」
僕がわかるわけもなければ、あなたもわかるはずがない。
はっきりと淡々と、低い声が俺の鼓膜をゆさぶる。男が鼻を、すん、と鳴らすと、顔をしかめる。
「やはり…。依織先輩をずっと苦しめているのは、あなただったんですね」
わかったような口を利かれ、ついに震えていた拳が男の顔めがけて飛び出した。
しかし、それは空を切ったと思えば、男の手のひらに易々と納まってしまっていた。ぶるぶると全身全霊のこもった力だったはずなのに、男は簡単に俺の手を捕らえて表情を変えない。
「お前…これ以上でしゃばったら、家族もろとも消すぞ」
奥歯を噛み締めてうなるようにつぶやく。もう、俺にはこの手しか残されていなかった。
「嫌だったら、依織に近づくな」
みし、と握られた手を全力で振り払って、後退りながら来た道を帰る。
自室に入ってから、震える手を見ると、男に握られた指の痕がくっきりと赤く残っていた。
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