黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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第54話

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 憂鬱さもあった。けれど、透と会えると思うと、それを跳ねのけて、身体が活動を始められる。
 彰と会ったら、どうして良いのかわからない。だから、いつもより三十分以上早く寮を出れば良いのだと考えついて、予定通りに動けた。教室はどうしたって会わなくてはならない。それはもう、諦めるしかない。

(人がいるとこなら…)

 きっと、彰だって手をあげるようなことはしてこない。
 今までも、人の目があるところでは、性的なこともされなかった。

(だから、登下校だけ気を付ければ…)

 大丈夫。そう計算していた。
 その通りになるはずだった。

 朝の部活動があるオメガ寮の生徒たちは大半がマネージャーだ。スポーツマンが彼らにいいところを見せようと躍起になれるような、美しく、可憐で、けれどマネージャー職ができるような気のいい人たち。意思の強い瞳と凛とした姿勢は、かっこいい。

(僕も、あんな風に素敵になれれば…)

 自分の気持ちを家族には、素直に伝えられただろうか。
 好きな人を自分で選べたのだろうか。

 ないものねだりだけれど、つい考えてしまうのだ。
 ジャージ姿の彼らに交じって、玄関を出ると僕は目を見張った。

「依織…」

 肩を落として、いつものつややかなブロンドが輝きを失っていた。顔は白く、唇の色も薄い。クマもひどく、別人のようにやつれた彰の姿に驚く。しかしそれよりも、僕は息がつまり、鈍く強い心音が強く、ど、と鳴ると、一斉に冷たい汗が噴き出した。
 一体、彼はいつからあそこに立っていたのだろうか。
 いつもよりも早く動いた。それは、いないことを予想した行動なのに。なぜ。
 じゃり、とローファーがアスファルトの小さな砂利を踏んで、こちらに向き直る。思わず、僕も半歩、後退ってしまった。足元に視線をやってから、彰はさらに顔色を悪くして、澱んだ瞳が必死に僕に縋る。

「依織…ごめん…、ごめん…、話を、話をさせてほしい…」

 たどたどしい口ぶりは、僕の知らない彰だった。憔悴しきった彼は、数日前に僕を叩いたアルファだとは、到底思えなかった。
 それでも、身体はちゃんと覚えているらしく、彰が一歩近づく度に、背筋が凍てつくように身体が震えるのだ。カバンの紐を肩で握りしめて手は、いつの間にか身体の前でカバンを抱えていた。
 僕の一つひとつの動作に、傷ついた顔を見せて、後退ってすっかり寮内へ戻ってしまった僕と、寮の室内ギリギリまでローファーの爪先をかけた彰。彰は、そこで諦めたようで、苦虫を噛み締めた顔をして、そっぽを向いて、小さくつぶやいた。

「放課後…、ミーティングルームを借りとくから…、来てほしい…」

 後ろから、笑い声が聞こえてきた。複数の足音がすぐ後ろの階段を降りてくるようだった。僕はその集団が横を通り過ぎるのに乗っかって、彼らを壁にするように彰の隣を駆け抜けて走っていった。








「依織先輩!」

 名前を呼ばれて、は、と意識が戻った瞬間に、持っていたサンドイッチから、マスタードソースをつけたきゅうりが、ぺしゃり、と膝の上に落ちた。

「わっ、落ちるかな?」

 何がなんだかわからなくて、ぼう、とした頭のまま透の節ばった指先がきゅうりを摘まんで、ティッシュで汚れた太腿を軽く叩いた。

「あ…、あ、ごめんっ」

 ふわ、と温かなひなたの香りがして、急いで声を出すと、透が振り返る。すぐそこに、翡翠の瞳があって、ぎく、と肩が固まってしまう。
 何度かまばたきをしていると、透が、ふ、と小さく笑って、離れていってしまった。心臓が落ち着きを取り戻そうとしているが、寂しさもある。透が叩いていた箇所は、少しだけシミになっていた。

「洗ったら落ちるかな?」

 クリーニングに出すとか買い直すとかではない言葉が、素朴な透らしくて、ほっとする。顔をあげると、ベンチの隣で透が僕に気づいて、眉を下げて振り向いた。

「お昼をご一緒できるなんて、とっても嬉しいのですが…、何かありましたか?」

 きゅうりの抜けたマスタードソースの卵サンドに小さい一口をつける。今日、急いで購買に買いに行った戦利品だ。

「ご、ごめん! そんなつもり、なかったんだけど…」

 せっかく透と一緒にいるのに、そんな浮かない顔をしていたのだろうか。
 もったいないし、申し訳ない。
 素直に思った言葉を伝えるが、透の眉は余計に下がって、さらに皺も出来てしまう。

「…僕じゃ、頼りない、ですよね…」

 はは、と弱々しく自嘲する透は、あまり見たことない弱気な姿だった。だから、思わず、すぐ傍にあった腕に指をかけて、身を乗り出す。汗ばんだ腕は、あまりにも熱かった。

「そんなことないよっ、どうしてそんなこと言うの?」

 高い位置にある瞳を覗き込むようにすると、一瞬瞠目されて、そのあとゆったりと眦を下げる。

「依織先輩が浮かない顔をしていたので…」

 大きな身体がかかむと、こつ、と軽く額が触れ合った。

「僕、依織先輩の力になりたいです」

 真摯な声だった。透の気持ちそのものだと、嘘偽りなのだと、伝わってくる。
 少し震えたような言葉尻も、それでもまっすぐに放つ声も、熱い吐息も、すべてが透らしい。

「依織先輩が困っていること、半分…、本当は全部、僕がもらいたい」

 音が聞こえてしまいそうなほど長くつややかな睫毛が持ち上がると、光の粒をたくさん吸い込んだ瞳が一心に僕を見つめてくる。指先が触れ合って、絡むように優しく握りしめられる。

「依織先輩だから…、僕の、大切な人だから」

 一言それぞれに、思いが込められている。目の前の愛する人から、びりびりと強い愛情を感じて、肌がざわめく。
 涙が滲んできて、とめどなく温かく甘いものが身体から溢れていく。たまらなくて、背伸びをして、透に顔を寄せる。睫毛がぶつかりそうで、首を少し傾けて、鼻がぶつからないように、自分の零れた吐息が、透の唇に跳ね返って、戻ってくる。くすぐったくて、ぞわぞわ、と背筋を何かが駆け巡る。それは、甘美で蕩けてしまいそうなもの。
 あと少し。というところで、透が顔を引いてしまった。
 すっかり、キスするつもりだった僕は、あっけをとられて、何度もまばたきを繰り返してしまう。

「ダメです。誤魔化さないでください」

 透は唇を引き結んで、上目遣いで僕を見やる。少しすねた表情はとっても珍しい。
 けれど、キスをしそこなってしまった恥ずかしさと悔しさと、渦巻いた愛は、出口をなくして身体の中で暴発してしまいそうだ。

「い、いじわるぅ…」

 僕も頬を膨らませて、眉間に皺をよせる。けれど、真っ赤な顔では何も説得力がない。透は、ふふ、と笑ってから、はっと思い出したように、こほん、と小さく咳払いをした。それからは、僕の手を掬って、指先を何度も大切そうに擦った。

「話せるとこまででいいですから…」

 ね、と首をかしげて笑う顔は、寂し気に見えた。

(僕だったら…)

 透が、何か抱えていそうだったら。

(同じこと、言ってるだろうな)

 透は、じ、と僕の答えを待っていた。
 僕は座り直して、前を向く。自然と視線は下がっていき、昨日磨いたローファーの爪先に笹がついているのに気づく。それを見下ろしながら、重い口を開いた。





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