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第51話
しおりを挟む嗅いだことのある強く甘やかな香りに、は、と顔をあげる。
アーモンド型をした美しく涼し気な目元がやや瞠目していた。
「なに、依織じゃん…、どうした?」
「…怜雅、…」
それは、久しぶりに出会う幼馴染だった。
ワイシャツをだらしなく着ているものの、ネクタイを忘れないところが、一応会長としての自覚がある彼らしかった。
手のひらを怜雅の硬い胸元に宛がうと、身体の熱さに驚く。力強い心音が僕の手を押し返すように鼓動しているのがわかる。
アルファのもつ生命力の強さが、羨ましくもあり、今は怖かった。咄嗟に押してしまうと怜雅は、ぱちぱちとまばたきをいくつかしていた。
「あ…ごめん…その…」
怜雅の顔を見られずに視線を落とすと、前髪がはらりと落ちる。本来は邪魔だと思うはずなのに、今は、視界を遮るそれが丁度いいとすら思える。
「なんだよ依織、ようやく俺のことオトコとして意識してんの?」
ひょうきんな口調に自然と顔をあげる。怜雅は、肩を揺らして小さく笑っていた。瞼があがって目が合うと、細められる。昔馴染みの、優しい眼差しだった。
「遅すぎじゃね? こんないいオトコが傍にいて」
真ん中で分けられた長く薄い前髪を、かき上げる怜雅は確かに色男だった。
「そう、だね…」
いつもだったら、軽く流せた。けれど、今日は、その色香がアルファそのもので、なんだか居心地が悪かった。小さく震える指先を気づかれないように、もう片方の手で握りしめる。しかし、目敏い怜雅はそれにすら気づいてしまう。
「それ…、彰か?」
びく、と肩が跳ねてしまう。あからさますぎる反応に、もう少しうまくできないのかと自分自身に辟易としてしまう。
違う、と答えようと口を開くが、渇いて声が出なかった。
小さく首を横に振る。前髪はさらさらと揺れるのが見える。うつむいた頭上から、長い溜め息が聞こえる。
「こじれてんなー、彰」
何も言えなかった。情けなくて、唇を噛んで俯くしかできなかった。
長年の幼馴染は、もう一つ溜め息をついてから、僕の手を取った。過剰なほど身体が縮こまって、目を見開いて怜雅を見上げた。怜雅は、僕を真剣な瞳で見つめてから、眉を下げてゆるりと笑った。
「とりあえず、冷やさないと」
かわいい顔が台無しだ。
そう言って、微笑むと、行くぞ、と僕の手を引っ張って歩き出した。
「ちょ、怜雅…っ」
「大丈夫だって。けが人に手を出すような趣味はねえから…それとも、」
ぴた、と足を止めた怜雅の背中に鼻先がどん、とぶつかってしまう。軽い痛みにまばたきをして見上げると、横目でちらりと見下ろした怜雅は、鮮やかな舌を見せながら笑う。
「襲ってほしいっていうお誘い?」
「違う…っ!」
思わず必死な声が出てしまうと怜雅がくすくすと笑う。いつものやり取りと、いつもの温度感に、全身のこわばりが抜けたようだった。
振り返って向き合った怜雅は、ゆっくりと時間をかけて、指先を顔へ近づけてきた。その丸い爪先を見つめながら、じっと待っていると、優しく、ふんわりと頬をなぞった。ひりつく痛みに、肩をすくめる。
「熱もってる。痛いだろ…?」
ひた、と当てられた怜雅の手のひらは冷たくて心地よかった。意識すると、そこがいつもよりも腫れ上がっているように感じた。頬を包まれて、怜雅を見上げると、眉根を寄せて心底心配の色を見せる。
アルファではなく、純粋な友人として、目の前の怜雅は、僕を心配してくれているのだ。
それを、アルファ性と片付けてしまった自分の情けなさに息がつまった。
「保健室で冷やすものをもらおう」
小さくうなずくと怜雅は、昔、一緒に見たことがあるアニメの主題歌を口ずさみながら足を進めた。長い脚は、僕の一歩にあわせて、ゆったりと歩く。その優しさに、涙が零れてしまった。けれど、そんな僕に気づかないふりをして怜雅は前をみて歩き続けた。
その時、柱の裏に隠れて僕たちを見つめていた透に気づく余裕なんてなかったんだ。透が、拳が震えるほど握りしめていて、悔しさに奥歯を噛み締めていたことも。
親し気に保健室の先生とおしゃべりをして軽口を叩く怜雅の後ろにいた僕を見つけて、当たり前に心配し、事態を気にしていたが、怜雅の大丈夫だから、の一言で簡単に腰を下ろしてしまう。怜雅の一言がそれだけ信頼を得ている証拠だ。
カーテンをひいたベッドの上に僕を座らせて、救急箱から貼り薬をもらってくる。怜雅はきいきいと耳障りな音のするキャスターつきの椅子に腰かけて、僕の前にやってくる。ベッドが高いこともあり、僕が見下ろす形になる。
「彰もひどいやつだな、こんな可愛い顔を殴れるなんて」
「いっ…」
ぺり、と剥離紙を剥がして、優しく貼るが、それでも触れる時はどうしてもぴりり、と痛みが走ってしまう。長い指先は器用で、一瞬、目を瞑った間にすべてを貼り終えていた。ひんやりと腫れた頬に気持ちがよく、熱が滲んで奪われていく。
「それで? 彰はなんて?」
近くのゴミ箱にくしゃりと握った剥離紙を放りながら、なんでもない風に怜雅は聞いてくれた。事態を察したのか、たまたまなのか、保健室の先生が静かにドアを開けて退席する音が聞こえた。
小さく呼吸を繰り返す。
話していいものなのか、わからない。親指を重ねて、こするように撫で合う。怜雅は、静かに僕の言葉をまっすぐに見つめながら待っていてくれた。
(怜雅になら…)
僕と彰を昔から知る怜雅になら、話してもいいと思った。
こうして、困ったときに巡り会えたのも僕たちの運命らしくて、いいのかもしれない。
(どうせ、僕一人で抱えていても、解決は不可能なのだから…)
誰かに話してみるという可能性を試してみてもいいだろう。それが、怜雅だから。怜雅なら、他言するような卑劣さはない。性にだらしなく軟派な男だが、昔から芯が強く、情に厚い、僕たちの兄のような存在だった。
「僕が、いけないん、だ、って…」
吐息と共に零れた言葉は、一度唱えてしまうと、次から次へと、つっかっていたものが剥がれ落ちていく。
「僕が、史博さんと、一緒にいたから、いけないんだって…。彰の傍で、彰のオメガとして、存在してないから…」
すべては今年の春から狂い出してしまったこと。
とある放課後に、彰が昇降口でキスをしていたのを見て、彰には彰の人生があるから、僕も彰もお互いの道を歩くべきだと思った。そうしたら、彰はすごく怒って…。
「キス、とか、されるようになって…、それから…」
彰の婚約者が学園に現れたこと。
だから、彰には彰の人生を、未来を約束した人を大切にしてほしかった。
けれど、それも僕の余計なお世話だったのだ。
「…僕にも、僕の、大切にしたい人が、現れたから…、だから、彰にも…」
心から愛してほしかった。
健気に、時に周りに乱暴になりながらも、彰を慕う相手を、愛してあげてほしかった。
それが、彰をおかしくさせてしまった。
「僕が…、余計なことをしたから、彰は、おかしくなっちゃって…。それで…、それから…」
やけに暴力的になっていって、ずっと、僕は彰のものだと言われたこと。
現実はそうでないこと。
「僕は…、史博さんの、婚約者、だから…」
彰の隣にいない僕がいけなかったのだろうか。
だけど、そうすると、史博さんが気を悪くするじゃないか。それに、彰だって、彰の隣には、ずっと香耶がいた。それでいい。
僕は史博さんの隣。彰の隣には、香耶。それが、本来の収まるべき場所で間違いがない。
それなのに、彰は憤慨したのだ。
「僕が…、僕がいけない…」
彰はうわ言のように、そう繰り返していた。
大好きだった彰は、もう、いなくなってしまったのだろうか。
「依織…」
低い声がかすれて、穏やかに僕の名を囁く。ぎ、とベッドが沈んで、隣から芳醇な香りが漂う。冷えた背中に、そ、と熱い大きな手のひらが宛がわれる。何度も、慰めるように撫でられて、僕は止めどなく涙が溢れていることに気づいた。
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