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第50話
しおりを挟む突然、腕を強い力で引っ張られたと思ったら、肩を掴まれる。まだ調子の戻らない身体は、その力のされがままになるしかなく、両肩をその人に向き直るようにされ、一瞬、ちら、と琥珀の瞳が見えた。
彰、と思った時には、バチンッ! と強い音がして、軽い身体は吹っ飛んだ。どしゃ、と尻もちをつくと力なくその場に倒れ込んでしまって、焼けたアスファルトが肌をいじめる。何が起こったのかわからなくて、目を見張って、短い呼吸をとにかく必死にして酸素を身体に送る。右頬がびりびりと強く痺れるように痛む。そこに触れることすらためらわれてしまって、身動きも出来なかった。
「依織がいけないんだ」
じり、と砂利をにじる足先の音がして、大きな影が僕を襲った。
「依織がいけないんだ」
低く、獣の唸り声のようなつぶやきが、もう一度同じ言葉を唱えた。
全身が恐怖に支配される中、視線をその対象に向ける。
「依織がいけないんだ…、全部、依織が悪い…依織が…」
瞠目したまま僕を見下ろす瞳は濁っていて、いつもさらさらと艶めく髪の毛もぐしゃり、と歪んでいた。
呪いのように囁き続ける彰は正気ではない。長いこと、ずっと一緒に過ごしている彰が、全く知らない人間になっていた。
「僕が…、彰に…何をしたって、いうの…」
同じくまばたきを忘れた僕の瞳からは、ぼろり、と涙が溢れた。
僕を優しく励ましてくれた手は、僕を殴りつけた。
恋愛のように、隣にいてくれないと寂しくてたまらなかった彰の存在は、得体の知れないものへと変わってしまった。
唯一無二の親友は、いつの間にか、僕を忌み嫌うようになっていたらしい。
「俺が…好きでもないオメガのヒートに付き合って精神的にもしんどいのに…いなくなるし…、夏休みだって、俺以外のアルファとずっとべたべた嬉しそうに…、みんなが、兄さんと依織は、お似合いだって、ほめちぎる…」
依織は俺の運命の番なのに。
いつも自信満々に弧を描いていた唇は、かさついて、ずっと震えていた。
「それなのに、依織は俺のこと、一つも気にかけない。無視する。いなくなっても何とも思ってない。おかしい…おかしい、おかしい! 依織は俺の運命なのに!」
足をふりあげると、何か暴力を振るわれるのではないかと、咄嗟に身体を丸めて、目を硬くつむる。しかし、衝撃は僕にはやって来ずに、ダンッ! と強く足を鳴らす。頭をぐしゃぐしゃとかき乱して彰は叫ぶ。遠くでアブラゼミのしつこい鳴き声が聞こえる。
「依織だって俺と一緒にいないとダメだろ? 俺は、こんなにおかしくなる…依織だってそうだろ? なあ?」
しゃがみこんで、なんとか身体を起した僕の目の前で血走った目を見開いたまま同意を求め、手を差し伸べてきた。喉の奥から細い悲鳴が出て、身を縮めながら、顔の前を腕で覆う。
「い、おり…」
かすれた声で小さくつぶやく彰は、溢れんばかりの威圧が煙が風に流されるように消えていく。
固まった身体が少しずつ緩んで、呼吸が細くできるようになる。息を吸う度に右頬の痛みが増して口の中に鉄の味がすることに気づく。身体の上から圧が消え、瞼を開くと顔面を青ざめさせた彰がよろよろと後退していく。
上半身を起こすと涙が首筋を伝って気持ちが悪い。けれど、身体に酸素を取り入れることで手一杯だった。
「いお、り…ごめ、…俺…、俺…」
救いを求めるように震える指先が僕に差し伸べられた。彰は肩を落として、ぶるぶると震えながら音もなく涙を零していた。
思わず顔を歪めて、睨み返してしまう。
(なんで…)
「依織っ!」
残った力を合わせて身体を起し、とにかく彰から逃げたくて走り出した。
(なんで、一番傷ついた顔を彰がしてるの…)
頬が痛い。
走って、息が乱れて肺が苦しい。
けれど、もっと、心が痛かった。
僕が、いけなかったのだろうか。
彰の気持ちを、もっと真剣に聞いていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
(だけど、いくら聞いたって…)
彰の気持ちには応えられない。
僕の婚約者は、ずっと、史博だと決められていた。それを覆すことはできない。
僕の本当の気持ちは、もう違う人にある。
この気持ちだけは、嘘をつくことは到底できなかった。
(もし…)
あの日。
昇降口で彰のキスシーンを見ていなければ。
もしかしたら、僕たちの関係だって、違う形になっていたのかもしれない。
あの時抱いた、異常なまでの心の痛みは、親友を失った、親友の知らない一面を見た寂しさからだと思っていた。けれど、恋の痛みを知った今なら、もしかしたら、という可能性を感じなくはない。
僕は、彰に初恋を抱いていたのかもしれない。
だから、異様に彰のキスシーンを見て、傷ついた。涙が止まらなかった。消えてしまいたくなってしまうほど、苦しかった。
その理由が、そうだと結論付けているようだった。
しかし、僕は、あの日がなかったことにはできない。
なぜなら、あの日、あの時、彰のキスシーンと出会った結果、透と出会ったのだから。
僕を僕のまま受け入れてくれる。
家柄も、バース性も、何も関係のない、あの植物園で、たった一人の、僕と向き合って、僕を大切にしてくれて、僕を好きだと言ってくれた。
だから、僕も僕自身を認めることができた。
自由に感じ、考え、選択することの楽しさを教えてもらった。
透の前だけは、ありのままの自分でいられた。この身体に血が巡り、温かさを教えてくれた。会いたくてたまらなくなる切なさを、どうしても会いに行きたくなる衝動を教えてくれたのは、透だったからだ。
(もう、元には戻れない)
僕には、透が必要だった。
僕が僕であるために。一人の人間として、生を受け、それを楽しみ愛しむためには、透という一人の存在が必要不可欠になってしまったのだ。
どんなに必要だと訴えられても、どんなに力で制圧されそうになっても、僕の心は透を求めている。
着痩せするがっしりとした身体に抱きしめられた。息ができないくらい強く抱き寄せられて、一つに溶け合ってしまいたい。
もうどのアルファにも邪魔されないように、うなじを噛んでもらいたい。僕のうなじは、透のためにだけあるのだ。
吸い込まれそうな、澄んでいる七色に光る瞳を見つめながら、愛していると伝えたい。
その瞳に僕しか映っていないことを確認して、唇をあわせたい。
うっとりと透の香りに包まれながら、笑っていたい。
優しいあの声で、名前を呼んでほしい。
大好きだと、言ってもらいたい。
ずっと、一緒にいようと誓い合いたい。
思えば思うほど、理想を抱けば抱くほど、遥か彼方の妄想でしかない現実を突きつけられて、右頬がひりついた。
(透に会いたい…っ)
「おわっ!」
額が何か弾力のあるものにぶつかって、後ろによろめく。やってくるだろう衝撃に目を硬くつむって待つが、咄嗟に伸びてきた腕によって、僕は前方に傾いて、温かな何かに包まれた。
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むむさまの日常の中の一つの楽しみになれたこと、大変光栄です。嬉しい限りです~!
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嬉しいお言葉の数々ありがとうございました*
ピスケさま*
わ~またコメント嬉しいです♡!ありがとうございます◎
楽しんでいただけてしあわせに極みです…!
香耶ちゃんは、一応、私史上一番マイルドな噛ませ犬?ちゃんです。笑
イライラした分、依織と透を応援してもらえるよう頑張っております!笑
彰もこれからたくさんたくさん悪さしたり可哀そうだったり…?になります。
ピスケさまにまたコメントいただけるよう精進いたします!
今後もお楽しみいただければ幸いです^^