黄昏時に染まる、立夏の中で

麻田

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第47話

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「依織」

 プールサイドでチェアに座って、ドリンクの氷を鳴らしていると、横から声がする。パラソルの日陰の下から見上げると、浮き輪を抱えた水着姿の彰がいた。目が合うと、優しく目元をゆるめる。

「一緒にプールはいろ? これ! 依織のために、今頑張って膨らませたんだから」

 彰が被って入った浮き輪はとても大きくて、もう一人入れそうだった。明瞭にならない頭で彰を眺める。

「依織もせっかく水着もってきたんだから、入ろうよ」

 ね? と後を押す彰は、僕に一歩近づく。手をとろうとしようと腕が伸びてくる前に、違う声がする。

「依織はどうしたい?」

 低いバリトンが響き、肩がすくむ。おそるおそる振り向くと、サングラスをかけた史博がリラックスチェアに横になりながら、僕に尋ねた。
 僕にうかがうその言葉とは裏腹に、声には、はっきりと僕に選択権などないのだと示している。

「僕…、ここにいる…」

 ストローを回すと、から、と気持ちいい氷の転がる音がする。
 それでいい。

「依織…、でも…」
「彰、いこ」

 彰の後ろから高い声が聞こえる。白い水着をきた香耶が彰の腕に絡みついて、ひっぱった。それを眉間に皺を寄せて見下ろした彰に、またバリトンが飛ぶ。

「お前も一端のアルファなのだから、かわいいオメガの願いくらい聞いてあげなさい」

 柔らかい声に彰は舌打ちをして、こちらを何度も振り返りながら、香耶に引っ張られてプールへと入っていった。

「依織も、入ってくればいいのに」

 史博はワイングラスを傾けてから、唇で弧を描きながらそう言った。視線をカップに戻して、ストローを回す。氷が溶けて薄くなったオレンジジュースがそこにはあるだけだった。

「…僕は、史博さんの…」

 オメガですから。

 わかっているけれど、言い切れなかった。
 から、と氷の音がする。史博は、ちら、とサングラス越しに僕を見てから、ふふ、と機嫌良さそうに笑った。








 毎日、同じような日々の繰り返し。僕の息つく場所なんてなかった。
 唯一、僕が僕であることを思い出せる場所は、一人の部屋で、スマートフォン越しに触れる、彼の息遣いだけだった。
 けれど、それすらも、罪悪感と自己嫌悪で、苦しくて眠れない日もあった。
 どうやったら、この地獄を抜け出せるのか。
 僕は、もう、わからなかった。
 いっそ、世の流れに身を捧げた方が一等に楽なのだとさえ思ってしまう。




『一週間くらい、行けなさそう』

 彰からのメッセージが入ったのは、八月も下旬に入った頃だった。
 お盆はそれぞれが実家へのあいさつ回りがあって、会うこともなかった。その代わりに、こうして連絡がよくきている。

(一週間…)

 その期間に、同じオメガだから察しがついた。
 おそらく、香耶の発情期だ。
 あんなに香耶のことを邪険に扱っている素振りを見せるが、未来の番としての役割を果たしているのかとぼんやり考える。けれどそれも、自分には関係のないことだった。

 スマートフォンを握ったまま、窓を見上げる。夏の強烈な朝日は、木々に覆われて柔らかに部屋を照らす。
 青々とした葉に、呼吸の仕方を思い出させてもらう。日差しがちらり、と僕に触れると、かすかに日向の匂いを感じた。
 同時に、手の中で小さく振動する。画面を見下ろして開いたメッセージには、たくさんの実りをつけたオクラだった。

『大収穫です!』

 にっこりと笑う絵文字つきで送られてきた言葉に、背中を何かが走り抜け、頭の奥から、じわあ、と熱いものがこみ上げてくる。
 勢いで立ち上がるとクローゼットを思い切り開け放つ。

(彰が発情期から戻ってきたとして、学校まで数日。早めに寮に帰っても何も違和感はないはず)

 制服をひっつかみ、カバンに暇つぶしにした宿題類を放り込む。駆け足で階段を下りていくと、珍しく父がいた。

「なんだい、騒々しい…」

 口ひげを蓄えた父は、大柄でアルファらしい。思わず、さ、と視線を落としてカバンの紐を握りしめる。

「ご、ごめんなさい…、用事を思い出して…、少し早いけど、学校に戻ります」
「え? 随分と急な…」

 革張りのソファに座った父の目の前には、今日の新聞が七誌ほど置かれていた。一番上に置かれていたものを手に取り広げる。

「気を付けていきなさい。また冬に帰ってきなさい」

 ぶっきらぼうにそういうのは、この人の優しさなのだと思い出す。
 うん、とうなずいてから、僕はいってきます、と言って玄関を出る。足早に門へと向かうと、父が声をかけてくれていたのか、運転手が待っていて、長い学園までの道のりを楽させてもらった。





 学園まで送ってもらうと、僕が一目散に向かったのは、もちろん、あの場所だった。
 笹にくすぐられながら道を走り、行き着いた先には、屋根窓も全開になっているドーム型の植物園だった。蝉の鳴き声が幾重にも重なり、まとまりつく暑さは気持ちが悪い。けれど、そのどれも気にならない。汗は全身がびっしょりと濡らしている。それよりも、僕には大事なことがある。
 植物園の入口まで駆けて、中を覗くが、そこには壊れかけの扇風機ががたがたと嫌な音を立てながら回っているだけだった。
 は、と肩で息をしている自分に気づく。汗がぽたりと、こめかみから顎を伝い、地面に落ちた。
 まばたきをしながら、中を見渡す。いくら窓を開けても、温帯の生き物用につくられたドーム内はむ、と熱くて、くらりとする。
 一度、ベンチに腰掛ける。じりじりと肌を焼くように暑さがきつく僕を襲う。ぽたぽたと汗がどんどん落ちていく。
 急激な気持ちと身体への変化に、ぐ、と何もかもが重くのしかかってくるようだった。

(何にも考えなしに動いて、周りに迷惑ばかりかけて、本当に馬鹿だ…)

 視界がぐにゃ、と歪むとブラックアウトしていく。一瞬、身体がふわ、と宙に浮いたような感覚がしてベンチに倒れ込む。その前に、誰かが僕を呼んだ気がした。それは、会いたくて、たまらなかった声なような。







 優しい香りがした。
 柔らかな花のような、干したての洗濯物のような。
 心地よくて、思わず頬がゆるむ。

「依織先輩?」

 ぽや、と視界が白んで、重い瞼を何度か開閉する。ぼんやりとした影が輪郭を明瞭にしてくる。
 さらり、と前髪が動いて、温かなものに頭を包まれて撫でられている。気持ちよくて、ふふ、と笑って擦り寄って、布団をかけなおす。真上から、くす、と優しく笑う気配がして、ぽかぽかと身体の内側から温かいものが溢れていく。

「痛いとこないですか?」

 柔らかい声がすぐ近くで囁かれる。大好きな香りがする。ようやく出会えた声に、香りに、熱に、爪先がじりじりと何かが駆け巡って、むずむずと落ち着かなくて、かけなおしたばかりの布団から腕を伸ばして、抱き寄せる。

「わっ」

 力なんか入ってないのに、驚いて大きな身体が傾いで、ベッドを鳴らした。
 くん、と鼻先を首元に摺り寄せて鳴らすと、暑さに焼かれた日向の匂いと、甘い花の蜜のような香りが耽美にくすぐる。

「会いたかった…」

 ぽつり、と零れた言葉は、彼の名前ではなくて、苦しかったということでもなくて、ただ本心だった。
 そのままの気持ちの言葉だった。するりと当然のように溢れたのだ。
 その言葉と同じように、嬉しくてたまらなくて顔はゆるんでいるとに、簡単に涙が零れていった。
 腕の中で息をつめた気配がして、身体が大きく膨らんで深呼吸すると、長い腕がベッドと僕の身体の間に差し込まれて、ぎゅう、と強く抱きしめられた。

「ようやく、会えましたね」

 しっとり囁かれた彼の言葉に、目尻からまた涙が溢れた。



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