38 / 72
第35話
しおりを挟む僕の吐息が溶ける沈黙を破ったのは、透だった。
か細い声が響く。
「僕は、依織先輩のバースとか身分とか、関係なく平等な強さがまぶしくて…、背筋の伸びたかっこいい姿が好きで、だけど、笑ったら花が咲いたように愛らしくて…心が震えるほど、好きでたまらなくて…」
一つひとつの言葉を丁寧に、しっとりと囁く透の心が身体に沁み込んでくるようだった。
まっすぐで誠実で、優しくて温かい透。
そんなことを思ってくれていたのか、と初めて知る。
(そんなに、好きでいてくれたの…?)
いつも優しい透のまっすぐな心は、友愛としてのものだと感じていた。恋愛のようなドロドロとした欲の世界を知らない純朴な汚れのない青年の中にも、僕と同じようなものが存在していたのだろうか。
「すみません…こんなこと言って。でも、僕…、僕…っ」
背中に体温を感じる。触れようとしているのか。けれど、その熱は、気づけば遠のいてしまう。
「僕…、依織先輩のこと、応援しています…遠くからでも、ずっと…」
しあわせに、なってください。
ふ、と柔らかく微笑んだのが伝わってくる。
透が一歩下がる。それから、ゆっくりと踵を返す。ドアノブをかちゃり、と回す音がする。
(いやだ…っ)
僕は、なんて意地が悪いんだろう。
どうしてこんなに、わがままなんだろう。
この選択は絶対に間違っているのに。誰もしあわせになれないのに。
それなのに、僕は…
愛する人から離れたくないと、頭が心が、身体を支配した。
広い背中に抱き着いてしまった。シャツを握りしめると、甘やかな透の香りがする。もっと欲しくて、顔を擦り付ける。ぴく、と大きな筋肉が反応する。
(ごめん…、ごめんなさい…)
どこにも行かないで…。遠くで、なんて言わないで。
透以外となんて、しあわせになれない。
すぐ傍にいて、僕だけを見つめて。僕だけに笑いかけて。
透のまっすぐな優しさと、真剣になってくれる誠実さと、いつでも僕を救ってくれる温かさがないと、息もできない。生きてるって実感できない。
僕は、透の傍でないと、生きていけないんだ。
透が笑いかけてくれないと、生きている心地がしない。
誰よりも強く、優しいのに、謙虚すぎて小さくなってしまう透が愛おしい。この人を守りたいと強く思う。
僕を、オメガとか、姫とか、そういうこと抜きで、人として見てくれる透の隣だから、僕は僕でいられる。
透が、僕は僕でいいと、認めてくれたんだ。包み込んでくれたんだ。
透がいないと、僕は、生きていけないんだ。
「少しだけ…」
触れている背中が何度か大きく膨らんで、意を決したように口を開いた。
「依織先輩が泣き止むまで…傍にいさせてくれませんか…?」
ゆっくりと目の前の身体が翻る。
かさついた親指が、頬を撫でる。温かな手のひらで頬を包まれて、瞼を上げる。
「依織先輩の涙を見ていると、苦しくて、ほっとけない…」
僕を見つめる瞳は、翡翠色に澄んでいるのに奥に熱情が見え隠れする。眉を寄せ、息がつまる透のつぶやきは、重く僕の身体に響く。いつも優しく垂れた眦は、赤く染まり、透も泣いているようだった。
(僕も、…透が苦しい顔をしていると、息ができないくらい苦しい…)
「笑ってください。僕、依織先輩の笑顔が好きです」
自分だって苦しい顔をしているのに、無理に目を細めて口角をあげた。その健気な姿に、心臓がぎゅうときつく絞られる。
(僕も、透の笑顔が好き…)
「ね?」
ぼろ、と溢れる涙が、透の指先を通って落ちていく。透は、今度は優しく顔を緩めて微笑んだ。
(優しくて、甘い…)
透の笑顔が好き。
透そのものを表すような、香りが好き。
(好き…、大好き…)
気づけば、勝手に震える指先が透の目元に触れる。透は、一瞬眉をひくり、と動かしたが、さらに甘い笑みを深めて、頬を染めた。両手で透の頬を包むと、子犬のように擦り寄る。ふふ、と優しく笑う。
「ごめんね…、ごめん…」
もう、ダメだった。
ぼろり、と溢れた涙も、思いも、止められなかった。止まらなかった。
「僕…透を傷つけて…、ごめん…、ごめんなさい…」
「いいえ、違います。僕こそ、依織先輩を…守れなくて、ごめんなさい…」
透は視線を落として、そう囁いた。
言葉の真意がわからずに戸惑っていると、透が僕を抱き寄せた。いつもの優しい日向の香りが薄らいで、強く濃い花の蜜のように蕩ける甘い香りが僕を襲う。ぞわ、と鼻から脳へ伝わって、全身に信号が走る。目の前のアルファからの強いフェロモンに僕の理性は浸食されていく。
「好き…、透が好き…透だけ…、大好き…」
腰と背中をがっしりと抱き寄せられて、全身が密着する。僕は透のシャツにしがみつくしか出来ないほど身体から力が抜けてしまう。ぼんやりと歪んだ視界の中で呂律も怪しい口元でひたすらに、隠せない思いを囁いてしまう。
「ごめんね…嫌いなんて嘘…、大好きだよ」
嗚咽で言葉が詰まりながらも、香りの良い耳元に擦り寄りながら言葉が零れていく。
ぎゅう、とまた一段と強く抱きしめられる。それから透が、ふ、と笑った。その吐息が首筋に触れて、息が漏れる。
「よかった…」
「んぅ…っ」
透も身体の奥底から溢れるようなつぶやきだった。
それなのに、透の濃密な求めに身体が敏感になってしまい、場違いな声が出てしまう。
頭が熱でぐらぐらする。顔をあげると、そ、と淀みない瞳と交わる。そこに透がいて、本当なのだと確認したい。指先で頬に触れる。その頬は熱を持っていて、指先が溶けてしまいそうだった。撫でると、ゆるゆるとしあわせそうに透が目を細める。受け入れられている多幸感に、神経が焼き切れてしまいそうだった。
人差指が柔らかな唇に当たる。見た目よりもぽってりと弾力のある艶やかな桃色に誘われるように、僕は重い睫毛を伏せて、ゆったりと唇に吸い付いた。音もなく触れ合って離れる。じわぁ、と唇から全身に毒が回るようにじんじんと神経が火傷したかのようにうずいて、地に足ついていない感覚になる。
瞼を持ち上げると、透の高い鼻梁が僕の鼻先をくすぐる。美しい宝石が目の前いっぱいにある。
「僕の好きって…、こういう好き、だよ…?」
透は…? そうつぶやく前に、透が唇を追って塞いでしまう。ちゅ、と透の柔らかい唇が僕のそれを吸い付いて離れる。愛らしいその音が鼓膜から、足の指先へまで伝わる。
「依織先輩…」
震える吐息が濡れた唇をかすめる。透の長い睫毛と睫毛がぶつかる。うなじに透の汗ばんだ手のひらが宛がわれて、内腿がひく、と跳ねてしまう。そっと引き寄せられて、透が顔の角度を変えてまた口づけをする。
「好きです…、依織先輩…」
「とお、…んっ、ぅ…」
驚いて瞼を持ち上げると、まっすぐに僕を射抜く瞳とぶつかる。それだけで目の奥が溶け落ちていくようで、何も考えられなくなる。透がまた瞳を閉じて顔を寄せる。
「先輩、好き…好きです…」
「ん、…ん…っ、…」
何度も、何度も透が唇を淡く吸い寄せる。
(気持ちいい…)
好きな人とのキスは、胸が絞られて苦しいのに、甘い痺れが腰に溜まって、浮遊感に満ちてしまう。触れてないと寂しくて、いつしか、僕からも唇を寄せて、シャツをしわくちゃに握りしめながら、何度も透と甘いキスをした。
(透を、離せない…)
僕は、透のいない未来など、いらなかった。
透しか、いらない。
(ずっと、こうしていたい…)
二人で触れ合って、キスをして、好きだと思いを伝えあう。何にも縛られず、ただただ、お互いを愛していたい。
それは、そんなに難しいことなのだろうか。
「依織先輩…」
名前を囁かれて、揺れる瞼をそろり、と持ち上げると、滲んだ瞳は劣情を抑え込むことに必死なようだった。
「好きです…、あなただけ…僕には、依織先輩が…」
「透…」
背伸びをして、愛しく濡れる唇に吸い付いた。
(言葉なんかなくても、わかる…)
このひと時、僕たちは、ただ僕たち同士だけを求め合っていた。
46
お気に入りに追加
92
あなたにおすすめの小説
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
目が覚めたら囲まれてました
るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。
燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。
そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。
チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。
不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で!
独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
僕の番
結城れい
BL
白石湊(しらいし みなと)は、大学生のΩだ。αの番がいて同棲までしている。最近湊は、番である森颯真(もり そうま)の衣服を集めることがやめられない。気づかれないように少しずつ集めていくが――
※他サイトにも掲載
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
君のことなんてもう知らない
ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。
告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。
だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。
今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが…
「お前なんて知らないから」
普通の学生だった僕に男しかいない世界は無理です。帰らせて。
かーにゅ
BL
「君は死にました」
「…はい?」
「死にました。テンプレのトラックばーんで死にました」
「…てんぷれ」
「てことで転生させます」
「どこも『てことで』じゃないと思います。…誰ですか」
BLは軽い…と思います。というかあんまりわかんないので年齢制限のどこまで攻めるか…。
イケメンがご乱心すぎてついていけません!
アキトワ(まなせ)
BL
「ねぇ、オレの事は悠って呼んで」
俺にだけ許された呼び名
「見つけたよ。お前がオレのΩだ」
普通にβとして過ごしてきた俺に告げられた言葉。
友達だと思って接してきたアイツに…性的な目で見られる戸惑い。
■オメガバースの世界観を元にしたそんな二人の話
ゆるめ設定です。
…………………………………………………………………
イラスト:聖也様(@Wg3QO7dHrjLFH)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる