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side:A 第32.5話
しおりを挟むその日だった。
いつも通りに昇降口にやってくるはずの依織が現れなかった。
(また…、どこかで、俺以外の誰かに…)
声をかけられているかもしれない。
思いを伝えられているかもしれない。俺はできないのに。
教室。図書室。それ以外に、依織が行く場所はわからない。
けれど、走り回った。走って、とにかく探した。
ローファーには履き替えていない。だから、校舎内にいるはずだった。どんなに探しても、走っても、依織は見つからなかった。
(依織…、何かあった…?)
依織の身に何かが起きてしまったのかもしれない。そう気づいてしまうと、全てが悪い方向へと考えられてしまう。ぞ、と背筋に悪寒が走る。
とにかく探すしかない。校舎内は見た。空き教室も見た。
これは、外にいる可能性が高い。しかし、上履きのままで外にでるということは、依織に大きな出来事が起きているはずだ。
何時間走ったかもわからない。とにかく俺の中はいつも以上に依織でいっぱいだった。
肺が熱い。呼吸も細くなってきたときに、吸い込んだ空気に大好きな香りが滲んだ。顔をあげて、鼻を頼りに必死に痕跡を辿る。
校舎の角を曲がった先に、小さな人影が見えた。
「依織っ!」
俯いてぼんやりと歩いている依織を見つけるとへとへとの足をさらに回して駆け寄る。俺に気づいた依織は、視線を上げる。
「依織!」
小さな身体を抱きしめる。確かに依織だ。依織がいる。
「依織…っ、よかった…!」
力いっぱいに抱きしめて、依織がちゃんとここにいるのだと深く深く実感した。
「どこ行ってたの? 心配した…」
「そ、れは…」
手ですっぽりと覆えてしまう小さな後頭部を抱き寄せて、さらり、と柔らかで甘い香りのする黒髪を混ぜる。
腕の中で、かすかに依織の身体が固まるのがわかった。胸元を押されて距離をとられる。依織はうつむいたままだった。
「依織…?」
何か、変だった。
「迷子になっちゃって…」
理由と共にへらりと平気だと顔に貼り付けて依織は笑った。
(明らかな嘘だ)
伊達に長年一緒にいない。
依織の嘘は、簡単に見抜ける。なぜなら、いつだって依織を見ているから。
「本当?」
念を押して聞く。ぱち、と大きな瞳を瞬きさせて、長い睫毛を振るわせて、一度視線を落とした。
(嘘の時の仕草)
依織がいつも、俺に嘘をつくときの仕草だった。何か我慢して、俺に嘘をついている。
頭の中を依織が気にするような出来事があったかどうかを探す。
(もしかして…)
ある一点の可能性に気づく。
それは、俺にとって、あまりにも都合がよすぎるかもしれない。
(けど…)
あの時、後ろに人影を感じた。足音も聞こえた。気のせいではなかったのだ。
昇降口で待ち合わせを毎日している俺を知っているから、あのオメガは俺を待ち伏せしていた。考えてみれば、あんなことを言い出したのも数少ない気がする。
俺は、依織と毎日、昇降口で待ち合わせをしているのだ。
依織が、あそこにいてもおかしくない。
だから、ローファーに履き替えることも出来ず、上履きでいる。
すべての辻褄が合うと、全身に甘美な電流が駆け抜ける。
(依織…、傷ついてるのか…?)
伏し目の依織は、ひどく色気を孕んでいた。
長い睫毛を持ち上げた先には、澄んだ瞳が俺を映す。濡れた桃色の唇で、俺の名前をつぶやき、ほんのりと頬を染める。
握りしめた腕を強く引き戻す。腰に手を回して、より密着するようにかき抱く。
「依織…、依織…」
(嬉しい)
依織の中で、俺という存在が大きく膨らんでいる。依織の頭の中は、俺でいっぱいなはずだ。
(俺と同じくらい、いっぱいになればいいのに)
目の前の愛しい依織に無意識に頬ずりをし、甘いフェロモンを漂わせることを止められなかった。
不安気な依織は、捨てられることに怯える甘え下手な子猫のようだった。
俺の顔色をうかがって、嬉しそうに笑ったり、寂しさを堪えるように笑ったりする様は俺の醜い欲をじわじわと満たしていく。
変わろうとしていた。俺たちの関係が。ようやく。
(兄さんに渡したくない…)
依織の隣にいればいるほど、依織の中の俺が大きくなればなるほど、俺の独占欲は刺激される。
(誰にも、渡したくない)
家のことも、兄のことも、すべて投げ打って、依織を選ぼうとした矢先に、やつがやってきた。
わざとらしい演技。あからさまな変装。俺の元へ擦り寄ってきたオメガ。
「彰にも、将来飼うペットが必要だろ?」
俺の恋情を見透かしたであろう兄が、突然用意したオメガ。それが、愛原香耶だった。
兄が言うから、仕方なしにうなずくしかなかった。
俺には早い、俺は自分で見つける。いくら言い募っても、ただ兄は微笑んで、何も聞こえていなかったかのように話を進めていた。
愛原香耶が笑うと、その後ろに兄が見えた。
(絶対に、兄さんに依織との関係の証拠を掴ましてはいけない)
はっきりと誰が見てもそうだと言われてしまうものを与えてしまったら、俺はもう二度と、依織に近づくことは許されないだろう。
それだけは、絶対なってはならない。
たとえ、依織が兄さんの番になったとしても。俺は、それでも依織の傍にいたい。
(本当は、誰よりも、依織を俺の番にしたい…)
依織を俺だけのものにしたい。
依織との関係を守るために、俺は依織から距離をとった。愛原香耶に依織を認識させないために。
依織が傷つかないように。
依織と俺が、ずっと一緒にいるために。
それなのに。
「ほんとだって! 姫が、あの貧乏人と一緒にいたんだって!」
嫌々、愛原と生徒会メンバーと共に食堂で昼食をとっていると、そんな噂話が聞こえた。
この学園には、全校生徒に姫と呼ばれるのは、依織しかいない。美しく、儚いけれど博愛の優しさが滲み出る愛らしさを持ち合わせる、依織。
声のした方に振り向くと、俺の親衛隊の生徒たちだった。
許せない。
食堂からの帰り際、こっそりとその生徒たちを呼び止めて話の一切を聞く。
昼も放課後も、一人で過ごしているだろう依織は、下級生の男と一緒にいるらしい。それも、学園の生徒から貧乏人と卑下されるような男と。
悪い虫がつくのではないかと心配だった。今まで俺は、ずっと傍にいて守ってきた。それがいなくなったのだから、狙われる危険性は多いにあった。だから、親衛隊や会社のお仲間には相談というなの命令をしていて、手を出させないよう裏で細工していた。
学園の権力バランスから逸脱した生徒と依織は、なぜか関わりを持っていた。
俺がどれだけ我慢して、依織のために離れているのか。
依織は全然わかっていない。
他の男に触れられるなら、俺のものにしてしまえばいい。
優しい依織なら、今は許さなくても、いつかは俺を許してくれる。
だから、相手の男をちらつかせて依織をうなずかせることにした。
走り出した欲望は、もう止まることを知らない。
(依織なら、必ず俺を受け入れる)
ずっと一緒にいた。
ずっと、隣で依織だけを見てきた。
依織だけを愛してきた。
きっと、いや、必ず、依織もそうなる。
それでいい。
「どういうこと?」
香耶は腕組みをして俺の前に立ちふさがった。
生徒会への途中。香耶は廊下で俺を待ち伏せていたらしい。
ちら、と一瞥して隣を通り過ぎようとする。しかし、香耶も易々通すわけもなく、目の前に移動される。
「何であの子が僕たちと一緒にいるわけ?」
俺と依織は、両思いになった。
ようやく依織も素直になれたのだ。そのために、他のアルファを使ったとしても、今の俺にはその方法しかなかった。
「俺は依織を守るために一緒にいる。だから当然だろ?」
もういい? と溜め息をつく。香耶は全く納得いっておらず、食ってかかってくる。
「随分と急だね? 今まで見て見ぬふりしてたのに」
「その理由は、あんたが一番わかってるだろ」
無駄な時間だ。早く生徒会の仕事を片して、依織のもとへ行きたい。依織と話したい。依織に触れたい。
目の前のオメガが邪魔だ。冷たく見下ろすと、小さな身体で息を飲む。
「…彰は、僕のアルファでしょ? 名戸ヶ谷依織は史博さんのオメガ」
この意味、わかるよね? したり顔で笑うけれど、何も思わない。
「だったら報告すればいい。俺と依織は、ただ警護の意味合いで一緒にいるだけ。それとも何? 証拠でもあんの?」
は、と鼻で笑うと、赤ら顔にして眉を吊り上げる。
「…僕のこと、バカにしてんの?」
天使のようだと形容されるこのオメガは、怒りのあまりぶるぶると震えていた。
それに対して、俺の心はどんどんと冷えていく一方だった。大きく溜め息をつく。
「アルファだったら誰でもいいお前に言う資格あんの?」
睨みつけると、びく、と薄い肩が跳ねる。
「それをリークされて困るのは、お前の方じゃないのか?」
青い瞳を潤ませて、厚みのある柔らかな唇を噛み締めた。
「…、その憎たらしさ、史博さんそっくりだね」
「は、兄弟だからな」
不快な表現だと思った。兄と同じだなんて、最悪だ。
けれど、欲しいものを何としてでも手に入れる力は、兄譲りなのかもしれない。その相手が、兄自身だとしても。
「史博さんに報告したとして、彰はいいかもしれない。でも、彼はどうかな? 彼の家に対して、史博さんが黙っているだけかな…?」
にたりと笑う天使は、悪魔の顔だった。
俺が依織に使った手法と同じだった。ただ違うのは、俺には依織を守るために、頭があることだ。
「事実がない。俺と依織がおれ以上の関係だということの証明はできないだろ?」
「僕と、史博さんのオトモダチのご子息たちの証言があれば、充分だと思うけど?」
ぴく、と眉毛が動く。
視線を上げると、オメガは嬉しそうに頬を緩ませた。
「僕だけとは限らないでしょ?」
兄が俺と依織を観察するために寄越したのは、こいつが初めてではない。どこかで常に、好奇ではない視線を送ってくる者が複数人いる。それが、兄の息がかかっている者なのだとすれば、多くの数が想像された。
「これは、僕と彰だけの問題じゃない。彰と彼とだけ、でもない。本当に大切なら、考えてあげたら?」
ぐ、と手のひらに爪が食い込む。
(それでも…、それでも俺は…)
細い指が俺の輪郭を撫でる。居心地の悪さに舌打ちをする。
「よく考えて。彰は、僕のアルファでしょ?」
背伸びをしたオメガは俺の首に腕を回して、頬を擦り合わせて甘く囁いた。アルファを惑わす香りがする。
間違ってなんかいない。
間違っていたとしても、俺はもう、戻ることはできない。
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