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第32話
しおりを挟む「依織は何にする? またこんなに少なくて。はい、これも食べて」
当たり前に昼休みも僕のもとへ来て、一緒に食堂へと行くこととなる。しかし、前と違うのは、そこに、天使が同行していることだった。
「あ…彰、僕は、大丈夫だから…」
「ねえ彰、僕、A定かB洋食か悩んでる~どっちがいいかな?」
彰の向こう側にいる香耶にちらり、と視線を送る。香耶も彰の腕にぴったりとくっついて、しなだれかかりながら声をかける。
しかし、彰は香耶に振り返ることなく、僕に話しかけてくる。
「依織っ、久しぶりの食堂だし、デザートもつけようよ」
「え…? いや、僕は…」
「ほら、依織の好きなオレンジ乗ってるよ! 缶詰じゃないやつ!」
彰は目を輝かせながら、小さい頃のそのままの表情を見せる。
けれど、どんな風に見せられても、もう、僕は彰の正体を知ってしまった。だから、笑うことが出来ない。
「あれ、依織?」
座席についてからも、彰は僕をにこにこと眺めながら話しかけてくる。その合間にも香耶は一生懸命、彰に話しかけるが適当に相槌をうたれるだけだった。
食事も味もしない。食欲もわかない中、頭上で懐かしい声がする。
顔を上げると、久しぶりに会う友人がいた。
「怜雅…」
「久しぶりじゃん、依織~」
けらけらと愉快そうに笑いながら怜雅は僕の頭に手を差し伸べた。その瞬間、ぱん、と乾いた音が辺りに響く。怜雅の手が弾き落とされた音だった。
「依織に触るな」
地を這うような低い声が聞こえ、彰から威嚇の圧が溢れ、背筋がびりびりと痛んだ。
怜雅はそれを冷静な瞳で見下ろして、はあ、と大きく溜め息をついて、両手を上げた。
「余裕がないアルファはみっともない」
首を横に振って、情けない、と肩を上げる怜雅と、黙って睨みつける彰。その彰を心配そうに見つめ、名前を囁く香耶。
周囲の生徒たちも目立つ三人の動向をうかがって、いつも騒がしい食堂が静まり返っていた。
「れ、怜雅も、元気そうで良かった」
居た堪れない空気感を打破すべく、なんとか声を振り絞って、笑顔を貼り付ける。怜雅はちゃんとそれに気づいてくれて、ふ、と笑う。
「依織に会えて元気出た」
「また、変なこと言ってる」
あ、はは…、と、渇いた笑い声をあげる。怜雅の笑顔に魅せられて、周囲のざわつきも戻ってきた。ほ、と胸を撫でおろす。
だから、怜雅も声を落として、眉を寄せた。
「依織、大丈夫か…?」
「え…?」
心の底からの心配そうに見つめる怜雅の穏やかな瞳を見つめ返す。怜雅が口を開こうとした時に、食堂の奥から、会長ー! と怜雅を呼ぶ声がする。
「いいから、早く行けよ」
きっかけに彰が立ちあがって、怜雅に顎で指示する。
怜雅が彰の肩を叩いて、小声で何か言う。それに舌打ちをして、彰は遠のく背中を睨みつけていた。こちらを振り返った時には、もとの笑顔に戻っていて、さ食べよう、と箸を持った。
「食堂はダメだ。ランチボックスつくってもらうから、中庭にしよ?」
食堂を出る際に彰が僕に向かって、そう言った。
僕とは反対側にいる香耶が、彰の腕を引っ張った。
「僕、日替わり定食食べたい」
香耶は上目で、赤みのある唇を突き出して彰に言う。
「ぼ、僕も、食堂でいいよ?」
僕のことは気にしないで、という気持ちを込めて伝える。二人の時間を大切にしてください、とも思う。
彰は僕の声がするとすぐに振り返って、僕に笑いかける。
「食堂は危ないから。依織の好きなサンドイッチにしてもらうから」
ね、と強請るように言われると何も言えなくなる。
彰越しに僕を睨みつける香耶が怖くて、顔をあげることができなかった。
でも、それに堪えなければならない。
透を守るために。
もう、透を傷つけないために。
香耶は彰にたくさん話しかける。それを邪魔しないように、一歩下がって二人の後をつく。彰は終始、こちらをちらちらと見て、話しかけようとするがその度に香耶が遮っていた。
(それでいい…)
僕は、二人にくっついてる、ただの空気でいい。
それが一番、気が楽だった。
「どういうこと?」
彰が生徒会室に呼ばれた隙をついて、香耶に空き教室へと誘われた。
明らかに不機嫌そうな声色で身が固まり、緊張に汗が滲む。目線を合わせることができず、ただ床目を見つめる。
(ど、どうしよう…)
本当のことを話しても、香耶に何をされるかわからない。
自分の婚約者が、僕を口説いていますなんて、とてもではないけど、言えない。
ただ、気の利く嘘は出ない。
(これじゃ、史博さんに…)
リークされてしまう。
そうすれば、僕の家族が、どうなってしまうかもわからない。さらには、彰がどんな目に合うかわからない。
(もしかしたら、透だって…)
彰から透の存在を指摘され、二つ返事で僕は決断した。けれど、今、冷静に考えてみると、香耶が透のことを知らないはずがない。なぜなら、僕たちが触れ合っている瞬間を見られているのだから。
(透だけは…)
透だけは、守りたい。迷惑をかけたくない。
しあわせに、なってほしい。
「男でも人質にされた?」
「な、なんで…っ」
どき、と心臓が強く動くと生きているのを忘れたかのように止まってしまった気がする。
思わず瞠目したまま顔をあげると、香耶は、鼻で笑った。
「はー、ほんっと、腐ってもあの人の弟って感じだね?」
腰に手を当てて、大きく溜め息をついた。すべてを見透かされていて情けなさと羞恥に視線を落とす。
「他のアルファに手を出されるの嫌なんだ。…僕はいいのに」
最後は独り言のように小さい声で聞きとれなかった。視線をあげて確認しようとするが、香耶は僕を眉を下げて見つめていて、目があうと肩をすくめる。
「ま、いいや。僕の邪魔だけはしないでよね」
興味がなくなったように踵を返し、香耶が教室を出ようとする。
「あ、あの!」
思わず呼び止める。香耶は静かに僕に振り返って、言葉を待ってくれていた。
「史博さん、に、は…」
じっとりと汗が滲む手のひらを隠すように、ぎゅ、と握りこむ。静かな海のような深く青い瞳は、僕をしばらく見つめてから、瞼を降ろした。
「んー。考え中」
「え…」
どういうこと、と引き留めようとするが、香耶は、大人しくしてなね、と手を振って去っていってしまった。ただ一人、埃っぽい無音の教室で佇む。
耳鳴りのように奥の方で低く鳴り響く心音が、少しずつ和らいでいるようだった。
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