3 / 72
第3話
しおりを挟む「ここ…」
長いことめそめそとしている僕を、青年は泣き止むまで、ずっと膝をついて抱きしめてくれていた。
ひとしきり泣いた僕と目が合うと、はにかむように笑った青年は、帰れそうですか、と尋ねた。しかし、先ほどの光景を思い出して、また涙が滲んできてしまい、俯きながら小さく首を横に振った。その僕に対して、幼い子に向けるような柔らかい声で、歩けますか?と彼は声をかけてくれた。肩を抱いて起してくれた彼に、そのまま甘えて寄り添ってもらいながら、彼の誘うがままに歩いた。
初対面で、そんな至近距離でいるようなこと、はじめてだった。
けれど、目の前の青年の垂れた眦も、すべてを透かすような光彩豊かな瞳も、柔らかく深く沁み渡るような声も、なにより、日向とそこに隠れる甘やかな香りが、僕の心から警戒というものを感じさせなかった。むしろ、ずっと隣にいたような、馴染みあるような、もしくは、ずっと探していたもののような、しっくりと合わさるものを感じられた。
そうして、連れて来れられた場所が、特別棟の裏に回って、竹林を抜けるとひっそりと現れた大きなドーム型のビニールハウスのような場所だった。
こぼれた言葉そのままに、隣にいる彼を見上げると、僕と瞳を交わらせて、にこり、と微笑んだ。
「僕の秘密基地です」
ドアノブを引くと、温かな空気と共に、緑と花の蜜の香りが鼻腔をくすぐる。一枚、ドアをくぐると、日常では見ることのできない背の高い、青く厚い葉が何枚も重なっている。その中に赤い花を立派に咲き誇らせて、魅惑的な蜜の香りをさせている。様々な植物が鉢に入り、所狭しと鬱蒼と並んでいるが、夕日の赤を受けて、きらめているようにも見えた。天井は高く、今にも様々な鳥の鳴き声が聞こえてきそうだった。
「すごい…」
天高く葉を伸ばす木々を見上げて、ぽつりと言葉が漏れた。振り返ると彼は僕の顔を見て、ほんのりと頬を染めて、優しい笑みを浮かべていた。
「気に入ってもらえて嬉しいです」
「ここ、君が…?」
血色の良い唇をゆったりと上げている優しい笑みをさらに深くして、嬉しそうにうなずいた。見上げる高い位置にある小さな顔は、柔らかさだけでなく、す、と整っていて、人好きされそうだ。柔らかそうな黒髪がドアの隙間から漏れる風にそよがれる。それに伴って、土のしっとりとした匂いと緑と花と、彼の匂いがする。熱を感じて、視線を降ろすと、ずっと手を握っていた。は、と気づいて、急いで手を引く。残された彼の手のひらは居心地悪そうに宙に保たれたまま、しばらくするとぶらりと降ろされた。先ほどまでつないでいた指先と手のひらが妙にざわついて、もう片方の手で握りしめた。とくとく、と心臓が落ち着かない。
ちらりと見ると、彼のジャージには学年カラーで「楠原」と刺繍されていた。
「くす、はらくん…?」
「ん、ああ…、これで、くすはるって読むんです」
珍しいでしょ、と彼は小さく笑った。僕と違って、大きな身体なのに、屈託なく笑うその顔は、少年そのもので、愛らしいと思ってしまった。
「くす、はるくん…」
「はい」
ただ返事をしてもらえただけなのに、居所が悪いようなさわさわした気持ちになって、でも嬉しくて、もう一度つぶやく。彼も目尻をさらに細めて返事をした。
「僕は、依織…名戸ヶ谷、依織…」
「名戸ヶ谷、先輩?」
小首をかしげて、彼は僕に聞いた。
そう、だけど。
僕はうなずいた後、首を横に振った。
「ん? 何か、違いましたか?」
彼は、優しい笑みのまま僕の言葉を待っていた。彼の温かく、じわりと身体に沈み込んでいくような声がもっと欲しいと思った。
「…い、おり」
下唇を噛んで、もごついた僕の声は聞きとりにくかったらしく、彼が少し身をかがめて耳を寄せてきた。ふわ、とくすぐったい香りがして、きゅう、と喉が絞られる。
「ぃ、おり…、いい…」
彼が姿勢を直さないので、また上手に言えなかったのだとわかる。こく、と一息飲んで、彼のジャージの裾を握りしめて唇を動かす。
「依織がいい…っ」
言えた、と思ったのは、彼が顔を上げて、ぱちっと視線が交わったからだ。
こんな風に、名前で呼んでほしいと強請ったことなんて一度もなかった。
けれど、彼の柔らかな声で、自分の、自分だけの名前を呼んでほしくなったのだ。
「依織、先輩?」
まばたきを何度かした彼は、薄い唇で僕の名前を呼んだ。
夕日が角度を変えて、隙間から差し込み、彼の瞳に反射した。そのきらめく宝石に射抜かれると、どくん、と大きく心臓が鳴って、視界が涙で滲んだ。
「依織先輩」
彼がもう一度、大切そうに僕に名前をつぶやいてくれて、うなじから熱が溢れて、指先が震えた。大きくうなずくと、彼も顔を崩す。
「そんなに喜んでもらえると、僕も嬉しいです」
えへへ、と彼が笑う。そんなにあからさまだったのだろうか、と顔に熱くなり、手の甲で頬をこすって、視線をさまよわせる。だから、彼が僕のことを愛おしそうに見つめていたことなんて気づけなかった。
「出会った記念に、ひとつプレゼントがあります」
する、と指先を救われて、彼の硬い指の腹が手のひらをなぞった。それだけなのに、背筋がびり、と電流が走ったように反応した。涙の膜が張った瞳で見上げると、彼は眦を染めて柔らかい笑みを見せていた。その指先に誘われるがままに足を進める。大きな葉っぱをかき分け、開けた先には、小さな農園ができていた。その脇にある棚床には、白い小さな花と共に赤い果実が成っていた。
「これ…」
「はい、どうぞ」
小さな実りを指先で器用にちぎり取り、僕の唇に当てた。素直にかじると、じゅわ、と果汁が溢れて急いで吸い付いて、もう一口進める。彼が器用にへたを摘まんで取り去ってくれた。酸味が少なく、甘みが強く、それでいて香り豊かで味の濃い苺に思わず眉があがる。僕の表情を見ると、彼は蕩けるように笑んだ。
「遅咲きの品種ですが、愛情込めて育てたので、おいしいでしょ?」
ただ感情のままに、何度も大きくうなずく。ごちそうしてもらったのは僕なのに、僕以上に彼は朗らかに笑っていて、全身に温かいものが流れ、溢れてしまいそうになる。
「あと数日すればもう少し獲れるようになります」
棚床をあれこれ説明しだす彼の横顔を僕は見つめてしまう。高い鼻梁がきれいで、大きい口はゆるやかに細く上がっていて、花があるのにどこか質素な印象を受ける。だからこそ、僕は、彼のことを知りたいと思ってしまうのだろうか。
こちらに振り返った彼は、単純に好きなことを語っていた瞳の輝きをもっていて、は、と僕も意識を戻す。
「依織先輩が良ければ、また来てください」
「また、来ても、いいの…?」
もちろんです、と純朴な彼の笑顔を見ていると、まぶしくて目を細めたくなってしまう。それと同時に、触れてはならない領域なようで目を背けないといけない気もしてしまう。
口の中で、苺の甘みが残っている。鼻から抜ける豊かな香りは、彼の持つ甘美なものに似ている気がした。
ごく、と唾を飲んでから、彼の指先を握りしめる。
「名前…、僕も、名前で呼びたい…」
息を詰まらせながら、強張った身体で訴えると、彼は少し目を見開いてから、ゆったりと教えてくれた。
「楠原 透です、依織先輩」
透。
震える唇でつぶやくと、はい、と穏やかな笑みを浮かべて頷いてくれた。
身体の熱が暴走するような恍惚なざわめきと、今まで誰にも見つからないように隠していた僕の真っ暗の固く閉ざされた部屋の扉を開く一筋の光が僕の体の中で渦巻いていた。
43
お気に入りに追加
92
あなたにおすすめの小説
君のことなんてもう知らない
ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。
告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。
だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。
今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが…
「お前なんて知らないから」
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
芽吹く二人の出会いの話
むらくも
BL
「俺に協力しろ」
入学したばかりの春真にそう言ってきたのは、入学式で見かけた生徒会長・通称β様。
とあるトラブルをきっかけに関わりを持った2人に特別な感情が芽吹くまでのお話。
学園オメガバース(独自設定あり)の【αになれないβ×βに近いΩ】のお話です。
あなたは僕の運命の番 出会えた奇跡に祝福を
羽兎里
BL
本編完結いたしました。覗きに来て下さった方々。本当にありがとうございました。
番外編を開始しました。
優秀なαの兄達といつも比べられていたΩの僕。
αの父様にも厄介者だと言われていたけど、それは仕方がない事だった。
そんな僕でもようやく家の役に立つ時が来た。
αであるマティアス様の下に嫁ぐことが決まったんだ。
たとえ運命の番でなくても僕をもらってくれると言う優しいマティアス様。
ところが式まであとわずかというある日、マティアス様の前に運命の番が現れてしまった。
僕はもういらないんだね。
その場からそっと僕は立ち去った。
ちょっと切ないけれど、とても優しい作品だと思っています。
他サイトにも公開中。もう一つのサイトにも女性版の始めてしまいました。(今の所シリアスですが、どうやらギャグ要素満載になりそうです。)
初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
腐男子(攻め)主人公の息子に転生した様なので夢の推しカプをサポートしたいと思います
たむたむみったむ
BL
前世腐男子だった記憶を持つライル(5歳)前世でハマっていた漫画の(攻め)主人公の息子に転生したのをいい事に、自分の推しカプ (攻め)主人公レイナード×悪役令息リュシアンを実現させるべく奔走する毎日。リュシアンの美しさに自分を見失ない(受け)主人公リヒトの優しさに胸を痛めながらもポンコツライルの脳筋レイナード誘導作戦は成功するのだろうか?
そしてライルの知らないところでばかり起こる熱い展開を、いつか目にする事が……できればいいな。
ほのぼのまったり進行です。
他サイトにも投稿しておりますが、こちら改めて書き直した物になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる