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第13話
しおりを挟むそこには小柄な金髪蒼眼の美少年が、汗をきらめかせ、白雪のような肌を淡いピンクの染め上げて立っていた。乱れたシャツからは、赤い斑点のついた鎖骨が見える。俺と目が合うと、にやりと不適に笑い、長い前髪をかき上げた。
「…生徒会室まで送り届けたはずだが?」
震える膝を叱咤し、気丈に振る舞う。本薙はひたひたと近寄ってくる。
「せっかく学校にいるのに、あの部屋だけじゃもったいないでしょ?」
頭の奥が、かっと沸騰するのがわかった。こんなやつのせいで、俺の周りの大切なひとたちが、どれだけ迷惑を被っているか。こいつは、わかっているのか。ぐぅ、と手を握りしめて、冷静に努めるよう自分を俯瞰的に見るように心がける。
「あの箱の中にいれば、守られるんだから、我慢しろ」
目の前にやつがくると、む、と混じりあった甘い、まとわりつくようなフェロモンのにおいがする。顔をしかめて、首をひねると、目の前の男がくすりと笑い、俺の首に両腕を回してきた。驚いて振り向くと、そこには天使としか形容の出来ない美しい顔がある。眦を下げ、とろけた笑みを見せる。
「お兄さん、やっぱりかわいい顔してる」
身長はほぼ同じで、目線も同じ高さなのに、庇護欲のそそられる彼は華奢で小さく見えてしまう。
「なっ…」
「俺、かわいい子、大好き…」
細い指が、俺の輪郭を辿り、唇を撫でた。サファイヤのように輝く瞳が俺の瞳と唇を行き来しながら、ゆっくりと近づいてくる。
「お兄さんも楽しもうよ…?」
なぜ、あれだけ恨んでいたやつを突き飛ばせないのか。長い睫毛が頬をかすめた瞬間だったが、強い力で肩を押され、後ろによろけてしまう。止まっていた息を、身体に流し込み、乱れた息を整えるように咳をする。視線をあげると、ブリーチされた長髪の背中が見えた。胸元を握り、目を見開く。
「ちぇ、なんだよ海智~お前も仲間に入りたいの?」
海智…
どうして…
「俺、3Pでも問題ないけど?」
目の前にある海智に抱き着いて、肩越しに俺を見ながら、舌なめずりをしている天使のような悪魔に何も言えない。指先の体温が感じられない。
「さな、もういいだろ。行こ」
「ああんっもお~」
わざとらしく本薙は大きな声を出して、海智に肩を押されながら、去っていった。二人の姿が見えなくなってから、俺はその場に尻もちをついて、嫌な音のする心臓が落ち着くのを待った。
今日、何度目になるかわからない、深く大きい溜め息をついた。
なんと、情けない。
自分がベータだと安心していた。あのオメガは、本物の魔性のオメガだ。男だろうとベータだろうと関係なしに誘惑されかけてしまった。
これじゃ、理央を引き留めた言い訳がたたないじゃないか。アルファであり、入学初日から誰彼構わずやり呆けていた理央なら、あっという間に本薙側の人間になっていただろう。それが嫌で、俺は自分が買って出たのに…
と理由を考えていると、そうじゃない!と頭を振る。もとから、ベータである自分が適任だったのはわかっていたし、総一郎と曽部の疲れ切った顔を見れば、彼らを中等部から知っていてかわいがってもらっていた後輩として、見過ごすことはできない。理央が替わりに入ったら、余計なトラブルが発生して、最近優等生になったあいつが、また観察対象に戻り、我々の手を煩わせる可能性があったから、俺が引き留めたんだ。
そう心の中で一通り結論づける。しかし、また一つ溜め息をついてしまう。
誰に対して、何をこんなに一生懸命、理由付けをしているんだ、と。
それに、今日の出来事で俺をこんなに悩ませているのは、海智の背中のせいだ。
あれは、どういう意味の行動だったのだろうか。俺と本薙を引き離すため、は事実。その奥にある真意が気になるのだ。大好きな本薙が俺と接触しているのが気に食わずに引き離した。もう一つは。とても都合が良い解釈かもしれない。あの大きな背中が、俺を守ってくれたように見えた、だなんて、まだ未練があるのか。
またひとつ、溜め息を漏らしてしまう。
さっきから続く足元のコンクリートと、今朝磨き立ての革靴を見つめる。
今日のお見送りは、総一郎の当番だった。それをまかせて、俺は珍しくホームルームが終わり次第、帰路についている。風紀室に行って、仕事の手伝いをしたいという気持ちは強くあったが、いまだに理央と顔合わせられていないのだ。
またひとつ。
「りん」
その瞬間、呼ばれた気がした。気のせいかもしれない。懐かしい、心地よいハスキーな声が。蝉の鳴き声と共に、夏風が吹き、振り返る。今、歩いてきた道に、いるはずのない人が立っていて、身体が固まり、時が止まったように感じた。目を見張り、瞬きも忘れてしまう。つ、とこみかみに汗がたどったと同時に、目の前の男は俺に向き直った。
ずっと、見られなかった瞳が、まっすぐ俺だけを映していた。
じり、と半歩後ずさると、それを見透かしたように、一歩距離をつめてきた。
「せん、ぱ…」
からからの喉から出る声はかすれていて、とても小さい。それでも、目の前の彼には届いていたようで、何を考えているかわからない無表情が、少しだけ微笑んだ。眦は、あの時の優しいものだった。
「ちょっと歩こう」
隣を通り過ぎると、海智は俺の手を自然な仕草で掬い上げて、指を絡めた。それを振り払うことすら忘れて、風に乗って流れてくるバニラの香りと光を反射する毛先に目を細めた。
心臓が存在を主張している。頭の中は混沌としているのに、彼を拒むことはできない。
なぜ、と聞こうと、口を開くも、聞いていいのかわからなくて、また唇を引き締めることしかできない。もだもだとしている間に、ベータ寮の近くまで来てしまった。
大きなクスノキの前で海智が足を止める。下がっていた視線を上げると、太陽に反射したピアスがちかり、ときらめいた。それに瞬きをしている間に、唇に柔らかい何かが吸い付いて、離れていった。一瞬の出来事だった。
何が起きたのかわからずに、目の前の男に視線を送ると、眉を下げて困ったように笑っていた。
「じゃあ、また明日」
それだけ言って、名残惜しそうに手をほどいて、海智は来た道を帰っていった。
触れ合った唇を押さえながら、この既視感を思い出していた。
これは、中学生のあの時、海智のことが好きでたまらなかったあの時、こうして特に話もしないで帰り道に肩を並べて、キスだけして帰ることがあった。初恋の淡い思い出が思い起こされる。忘れたかったあの日々が、今、再び動き出そうとしているような予感に、震える溜め息をつくしかなかった。
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