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ep.6-2
しおりを挟むはっきりと発熱をした翌日も、微熱が残った。咳もなくなり、おそらく風邪は治ったのだけれど、様子を見ようともう一日、寝たきりの生活を彼が強いてきた。
身体の奥が熱くて、それを慰めてもらいたくて、恥ずかしいのに意識が混沌として強請った。彼は、僕の体調を気遣って、優しく断ってくれたのに、抱いてもらえない寂しさに大泣きした僕に根負けして、一度だけ抱いてくれた。それだけでは足りなくて、わがままを言う僕を、彼は手で何度も達させてくれた。彼の熱が欲しいのに、もらえなくてずっと身体は寂しくて疼いてたまらなかった。やがて泣きつかれて眠りについてしまう。
その翌日も、やはり微熱があった。けれど、僕の異変に気付いた彼の提案で、渋々、僕と彼は山野井先生のもとへ受診することになった。
本当は、ずっとこの家にいたかった。だけど、彼がどうしても行こうと言って、帰ったらたくさんシてくれると僕のひどい願いを聞き入れてくれたから、重い脚で外にでた。三日ぶりに外に出ると、やけに色々なにおいが気になった。排気ガスやタクシーの車内のにおい、病院の消毒液のにおい、すれ違う人のにおい…。すべてが過敏に、嫌なにおいとして感じられて、何度も気分が悪くなってしまった。顔色も悪い、と彼は僕を心配したが、彼の傍にいて、花蜜の香りを嗅ぐと体調はびっくりするほどすっきりとした。その分、甘い疼きが腹の奥で思い出したかのようにざわめくのだが、気持ち悪いよりずっといい。
病院で待っている間もそんな調子だったので、彼が心配して近くを通った看護師に説明すると、別室へと案内された。小さな部屋に狭いベッドが置いてあって、そこに僕は横になるように彼に促された。けれど、少しでも彼の体温の近くにいたくて、横にならずに、彼を隣に座らせて、その胸元にもたれかかった。
「聖…」
「ん、ぅ…っ」
彼が僕の名前を囁くだけで、声が素肌をなめらかに滑り落ちていくようで、全身がぴく、ぴく、と反応を示す。時間が経てばたつほど、それは敏感になっていくようだった。彼の呼吸音ですら、胸が高鳴るようになってしまった時に、小さな個室に山野井先生が来てくれて、僕の容態を診た。隣で彼がいくつか話をしているようだったけれど、もう話は頭に入ってこなくて、ずっと靄がかっていた。
「いつからですか?」
山野井先生が質問している声が聞こえてきた。
「おそらく、一週間くらい前から。その頃から匂いが少しずつ変わり始めました」
「西園寺さんは?」
隣で彼が答える。彼の声を聞くだけで、身体から汗が滲んで、くすぐったいような居心地の悪さが生まれて、足を擦り合わせる。
「俺は、三日前くらいから抑制剤を飲み始めました…」
でも、なかなかしんどくて…。と彼が苦しそうにつぶやいたのが聞こえて、中身はちゃんと理解できていないのに苦し気な彼が心配で顔を上げた。視線が合うと、彼は汗を垂らして僕に微笑んでくれた。目があっただけで身体から力が抜けてしまって、また彼の胸元に頭を預けた。それを彼は、そ、と優しく撫でて抱き寄せてくれる。心地よくて、もっと撫でてほしくて、匂いをわけてほしくて、ぎゅう、と抱き着いた。
「おそらく、発情期ですね」
(え…?)
「少量の抑制剤を打ちます。しかし、九条さんの場合、以前の投薬の傾向から見て、抑制剤の副作用が強く出る可能性があります」
先生の言葉が、ふと耳に入ってきて、目を開く。看護師が持ってきた銀のトレーからゴムのベルトをとって、先生が僕に笑顔で話しかけた。
「九条さん、注射うちましょう。楽になりますよ」
「ゃ、いやっ」
先生が僕の腕をとって、袖を捲ろうとした時、ぞわ、と虫唾が走った。嫌悪に急いで腕を払い、彼にしがみついた。彼に触れていると、自然と嫌悪が抜けていき、呼吸も落ち着く。
「聖、大丈夫だから」
「さ、くぅ…」
彼が僕の頭を撫でる。大丈夫、と彼が優しく囁くから、彼がするままに、袖を捲らせる。腕を置くように台がもってこられて、彼の力が促す通りにそこに腕を置く。
「少し、我慢な」
「さく…」
何が始まるのか、自分の身体で何が起こっているのかわからなくて、焦燥感と不安感が強く僕を襲う。彼を見上げると、大丈夫だよ、と囁いて、頭を抱きしめてくれる。そして、つむじにそ、と唇が降りてきて、力が抜ける。その間に、山野井先生は手早く抑制剤の投与を終えてくれた。彼が僕の止血のための絆創膏を押さえて、袖を戻してくれる。
すると、だんだんと視界がクリアになっていく。思考も少しずつはっきりとしてくる。けれど、同時に頭が重怠くなっていく。
「さく…、僕…」
彼の手を握って見上げると、目が合う。青い瞳が穏やかそうに細められて、大丈夫だ、と低い声が優しく囁かれる。
「シェルター使用の個室があります。そこで一週間程度過ごしながら、経過を見たいのですが…」
「や、やだ、帰りたい…」
山野井先生が彼にそう提案しているのを僕は遮って首を横に振った。彼が、困ったように眉を下げて僕を見下ろした。彼の胸元でシャツを握りしめて、大きく首を振る。
「やだ、やだっ、さくとの家に、帰りたい…!」
早く帰ろう? と彼を見上げて、首をかしげる。僕の手を握りしめて、彼は微笑んだ。
「聖の身体のためにも、ここにいよう」
俺はどこにいても一緒だから、と彼が強く手を握りしめてくれるのに、一緒にいてくれるなら嬉しいのに、それでも僕は嫌だった。涙を散らしながら首を振って拒絶する。
早く、僕と彼の匂いしかしない、あの部屋に戻りたかった。
たくさん抱きしめて、キスをしてほしかった。
それから、たくさん、胎内に彼を与えてほしかった。
意識すると、ぎゅう、と腹の奥が収縮して、痛みすら感じる。涙をこぼしながら必死に、お願い、と懇願する。
「聖…っ」
彼も顔に皺を寄せて、困っていた。けれど、僕も一刻も早く帰りたかった。あの愛の巣で二人きりになりたかった。
「わかりました、そしたらおうちで様子を見ましょう」
は、とその声の主の方に振り返ると、山野井先生が笑顔で僕に優しく話しかけていた。
「一番大切なことは、九条さんの気持ちです。だから、大丈夫ですよ」
「せん、せ…」
はら、と涙が零れると、肩の荷が下りたように、急に身体が軽くなった。隣から彼が、しかし…、と言葉を詰まらせたが、先生が柔らかい表情のまま身体を起して、彼に話しかける。
「命に係わるようなことは起きないと思います。その変わり、お薬を多めに出しておきますので、必ず服用してください」
特に、アルファの西園寺さんにはつらい時間になるかもしれませんが…。と先生は、声を落としたが、彼は、いいです、と即答した。そのあと、先生に深々と頭を下げて礼を尽くした。僕もそれにつられて頭を下げた。
「僕の大切な患者さんが、ようやくしあわせになれたんです。僕も嬉しいんです」
そう先生はいつもの優しい声で温かく微笑んだ。先生が僕の手首をとった。しかし、嫌悪はなくて、柔らかい指先が心地よかった。落ち着いた僕の反応を見て、先生はほ、と息をついたようだった。
「つらかったら、素直に西園寺さんに伝えてくださいね。それが条件です」
僕は先生の手を握り返して、はっきりと、はい、とうなずいた。先生が僕の手をひと撫でして微笑んだ。
それから、先生は彼にいくつか説明をして、薬と何か手のひらサイズくらいの箱を受け取って、僕たちは病院の裏口からタクシーに乗り込んだ。先生に注射された薬が効いているのか、来る頃よりも意識は鮮明で、落ち着きもあった。
タクシーに乗っている間も、彼は先生からもらった書類を読んでいた。しかし、僕の視線に気づくと眦を下げて、体調は平気か? と気にかけてくれた。繋いだ手は温かくて、握り返すと、親指が手の甲を撫でてくれる。それで胸がいっぱいになって、僕は大丈夫、と小さくうなずく。彼は安心したように頬をゆるませて、また書類を読みだすのだった。
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