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ep.5-1
しおりを挟む適当に空いている座席につく。
トートバックから、ルーズリーフとペンが数本入ったペンケースを出して、教科書を開く。前回の授業内容を簡単にさらっておきたかった。
念願叶い、大学進学を無事に果たして、少しが経った。最初は、授業の取り方すらもわからなくて、たくさん彼に教えてもらった。おすすめの教授も授業も、他学部にも関わらず彼はよく知っていて、彼の教えてくれた通りに授業は取った。後期には、自分の興味がある講座もいくつか増やしたので、それもまた楽しみだった。
大学の授業は、面白かった。
教授は多種多様で個性的で、言っていることが真逆な教授もいて、その人たちはよく学会でけんかをしているらしい。その人たちが同じキャンパスで働いていると思うと不思議だし、それを自由に受講できる生徒という立場はなんて贅沢なことなのだろうと感慨深かった。
「あ~今日も西園寺様美しかったわ~」
後ろの座席に女性が二人、腰掛けたようだった。そこから飛び出てきた単語に、思わず肩がぴくり、と反応してしまう。
「西園寺様に会えるだけで一日ハッピーになるよね」
「それな。マジたぎる」
大学に入学して、痛感することがある。それは、彼が、大学でもやっぱり有名人だということ。
「そういえば、西園寺様、さっき、ミスコン軍団に声かけられてた」
「え? 私はにゃんこ軍団に絡まれてるの見たよ?」
この大学用語、なのだろう。
彼の名前が聞こえて、行儀が悪いが耳が傾いてしまう。彼の名前が出る時、この大学で毎年行われている美女を決めるコンテストで選ばれた人たちがいる美女グループをミスコン軍団と呼んでいる。また、にゃんこ軍団というのは、オメガらしい見た目の優れた男子の集団を呼称しているらしい。
「でも一切無視。やっぱり、あの噂、本当なんだろうね…」
「ああ、西園寺様が小さい頃から決めた許嫁以外興味がないってやつ?」
許嫁。
思わず指先が震えて、手元にあったルーズリーフの束を床に落としてしまった。はら、と飛び散ったルーズリーフに僕は溜め息を一つこぼして、身をかがめた。
「とんでもない美人らしいよ」
「めっちゃエロいオメガって聞いたよ」
美人…、めっちゃエロいオメガ…。
それが、僕ではないだろうことがわかった。彼には幼い頃から許嫁はたくさんいただろう。
人の噂とは、色々なものがついて回るのだという。
「大丈夫ですか?」
「俺たちも手伝いますよ」
声が聞こえて顔をあげると、膝をついて、一緒にルーズリーフを拾うと言った青年が二人いた。片耳のピアスが反射してまぶしい男性は、にっこりと人好きのする笑顔を見せてきた。もう一人は、長い前髪から色素の薄い瞳を僕に一心に向けていた。二人とも、人目でアルファだとわかる見目の美しさだった。
「あ…、すみませ…」
「でも、この前の飲み会でマミ先輩が西園寺様をお持ち帰りしたって噂あるよね~」
僕が目の前の二人に声をかけられた間に、新しい女の子が後ろの二人に合流したようだった。その子の声はよく通る声で、はっきりと聞こえてしまった。
四月に誕生日を迎えた彼は、もうアルコールを摂取できる年齢になった。そして、新学期早々、ゼミの付き合いでどうしても顔だけ出さないといけないと言って参加した飲み会があった。僕なんか気にせずに、人との付き合いは大事にしてほしいと言ったのに、それでも僕を優先させようとしてしまう彼に、嬉しいような申し訳ないような気持ちだったのを覚えている。確かにあの日は、しこたま飲まされてしまい、予定よりも二時間遅くて、終電が終わってからタクシーで帰宅してきた。女性らしい香水がしつこくまとわりついていて、抱きしめてきた彼をお風呂へ追いやるのが大変だったのを覚えている。
「さすが肉食女王。西園寺先輩でもマミ女王の肉体美の前には陥落か~」
「所詮男だったか~西園寺様も」
「え、でもでも、西園寺様の彼女?が、今年入学してきたって噂あるよね」
「マジ?」
「そういや、去年、西園寺様と同高のオメガ男子が抱かれたことあるとか付き合ってたとか嘘言って、マミ先輩たちにボコされたって話あったよね…」
「それ聞いたことある…」
「気の毒…西園寺様の恋人も美女軍団からもにゃんこ軍団からも、いびられちゃうんだろうな…」
「かわいそ…」
ルーズリーフに伸ばしたまま止まっていた指先に温度を感じて、は、と意識を取り戻すと、長い指が僕の手を包んでいた。その手の主を視線で追っていくと、片耳にいくつもピアスをつけた男が、アルファらしい発達した犬歯を見せて笑っていた。
「俺さ、ずっと君のこと気になってたんだよね」
「あ…、え、っと…」
今度は横から、こめかみをなぞるように髪の毛を耳に払われる。いきなり皮膚の薄い場所を触れられて、肩がすくむ。視線を向けると、黒髪の彼が赤い唇で弧を描いて白い犬歯を見せていた。瞳は熱っぽく潤み、細められていた。
「俺も…、かわいい子がいるなって、思ってたんだ」
「あ、の…」
アルファ二人に挟まれて、どうしていいのかわからず、固まっていると二人は僕との距離を詰めて、舌なめずりをしているようだった。だから、後ろで女の子たちがざわついていることに気づかなかった。
「ぼ、く…彼氏、いるんで…」
男に握られている左手の薬指には、細いリングが二つ並んでいた。
一つは、中学生の時に買ったという彼からのプレゼント。もう一つは、彼の誕生日に一緒に買いに行ったペアリングだった。それに触れたら、勇気が出る気がして、左手を引こうとしたのに、目の前の男は離してくれなかった。
「全然大丈夫だよ?」
「きっと俺らの方がうまいと思うけど」
何を言っているのかわからなくて、目を見張ると二人は変わらずに笑っていた。
(恋人がいても、平気なのが今の時、なのだろうか…)
困惑して視線が下がった時、思い切り腕を引っ張られた。立ち上がると、腰元に腕が回り、身体が密着する。熱い身体の胸板に手を置いて、甘い匂いを漂わせる男を見上げる。彼は、僕をまっすぐに見つめて、微笑んだ。
「聖、どうした?」
「さ、く…」
いきなりの彼の登場に僕だけでなく、先ほどまで話していた青年二人も驚いて目を丸くしていた。彼は、僕が持っていた数枚のルーズリーフを目にして、じろ、と足元を見下ろした。びく、とアルファの男二人が身体を跳ねさせる。彼は、にこりと笑顔を貼り付けて手を差しだした。
「ああ、ありがとう。妻が迷惑かけたな」
そう言って、男が手にしていたルーズリーフをとると、二人はすぐに立ち上がって逃げていった。周囲は、彼の「妻」という発言に大きくどよめいていた。
「さ、さくっ!」
僕が羞恥で咎めようと声を荒げると、それに対しても周囲は、さく、という呼び名に声があがった。
彼は嬉しそうに頬を緩めて僕を見つめた。僕は涙目になりながら彼の胸を押してるのに、思ったよりも強い力で抱きしめられていて、彼の笑顔の裏に嫉妬の炎が燃えているのがわかる。
(だけど、僕だって、怒ってるんだから…っ)
マミ先輩とかいう、会ったこともない女性に対して、僕は顔をしかめた。彼は僕のトートバックとルーズリーフを掴んで、肩を抱き寄せたまま階段を降りだす。そして、一番最前列の中央の席に隣り合って腰を下ろした。大講堂の座席は前の方まで席が埋まるが、そこにいるのは熱心な学生たちであって、少し毛色が違う。それでも最前列に座っている生徒なんていない。
「さく、後ろの方にしようよ…」
「だめだ」
ちら、と横目に彼を見るけれど、彼はブルーライトカットの眼鏡をつけてノートパソコンとにらめっこし始めてしまった。提案するけれど、ぴしゃり、と言い捨てられてしまう。それから、机の下で強く手を握られる。わざと肩を摺り寄せるようにされると、頬が熱くて離れようとするのに、彼が手を引っ張って引き寄せる。その力のせいで彼の方へ倒れ込んでしまうと、後ろの方から悲鳴が聞こえてくる。怖くて急いで離れたいのに、彼はそうすればするほど機嫌悪そうに舌打ちをして、指の力を強める。
大講堂の何百人の視線が背中に刺さっている気がして、居心地が悪い。項が視線を浴びて、ひりつくようにうずく。何度も髪の毛を撫でつけるふりをして、項を手で覆った。そのせいで授業にやってきた教授は、真ん前にいる僕たちに遠慮をしていたし、僕もいろんなことが気になりすぎてしまったり、全く身が入らなかった。
終了のチャイムと同時に教授が授業を終えると、彼が僕の教科書や筆記用具類もすべて自分のカバンにしまい込んで、僕の手を引いて立ち上がった。もたつく足で彼についていき、教室を出る前に、多くの視線の中から、噂話をしていた真後ろの席の彼女たちが手を合わせて「ごめんなさい」と頭を下げていた。僕は、気にしないで、という意味を込めて、笑顔をつくって手を振った。その瞬間、ぐい、と強い力で廊下に引きずり出されてしまってその後のことはわからなかった。どうやら教室では新たな悲鳴が生まれて、あの彼女たちは「めっちゃ美人」「そしてめっちゃエロい…」「そしてファンサも神対応…」「噂以上やん…」「女神だ…」「私の最推し…」「姫」「姫様だ」と口々に涙しながら悶絶していたことも知らなかった。そして、瞬く間に僕が「あの西園寺様の奥様」であることと大学内最大のお似合いカップル、いや夫婦として公認されたことも、聖様を見守る会という同盟が出来たことも、僕がある国の姫の生まれ変わりで彼が騎士で転生してようやく結ばれたという謎の創作物が発行されたことも、知るのは当分先のことだった。
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