初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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ep.3-2

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(え、僕、口説かれたの…?)

 ぱち、と瞬きを繰り返す。いくらか人から言い寄られる経験をここ最近でしたけれど、これはその類なのかとようやく気付いた。

「お前は恋とか愛とかから程遠い仕事バカと思って紹介したのに…」

 彼はそうつぶやき、大きく舌打ちをした。む、とフェロモンを強める。僕は、その甘やかな匂いに、蜜月の時間を思い出して、浮遊感に見舞われて彼にもたれかかる。目の前の彼女は顔をしかめて、鼻をつまんだ。もう片方の手で顔周りを仰ぐように左右に振った。

「ああわかったわかった、その臭いにおいやめるや」

 また変なイントネーションになる。怒っているときに、不可思議な方言まじりのような言葉になってしまうのだろうか。ぽう、とした頭で彼を見上げると、目があって、眉をさげた彼が微笑んだ。

「悪いな、聖。帰国前に一度紹介しようと思っていたんだが、失敗した」
「失敗ってどういうことでっか」

 大きな溜め息をついた彼女は、振り返り書類が山積みになったデスクの前に腰掛けた。くる、と椅子を回すと頬杖をしてこちらを半分にした目で見ていた。

「もう聖は会うことはないと思うが、いとこのキャシーだ」

 いとこ…、そう言われて、記憶を駆け巡ると、そういえば聞いたことのある声だということを思い出す。はっきりとした記憶に唖然としていると、彼は僕の頬を撫でて甘く笑んだ。

「俺とこいつが間違いなど起きることのないことがわかったか?」
「はあ? 私と貴様がか?」

 おえ~、とキャシーは顔をしかめて舌を出した。千ドル詰まれてもお断りだ、死んだ方がマシ、とげっそりした顔で続けた。それなのに、彼はまったく聞こえていない風で僕に変わらずの表情で優しく笑いかけていた。

「そもそも俺が聖以外に目をくれることなど一度もないのが」

 額に、そっとキスが降ってきて、彼を見上げる。
 アメリカにいる間、彼がここで寝泊まりしていたという場所なのだとわかる。そして、キャシーの匂いが彼に似ていたことから、いとこというのも本当なのだとわかった。何よりも、キャシーは一切、彼にそうした感情を抱いていないことも表情から言葉から、全てでわかった。
 僕が不安に思っていることを解消するために、わざわざ連れてきてくれたのだとわかると、ぞわ、と喜びが背中を伝って身体に広がって、涙の膜が張ってしまう。そして、親族に対して、妻だと紹介をされたこともじわじわと思い出されて、嬉しさと恥ずかしさで居心地悪く、顔を下げてしまう。

「聖」

 うなじを、彼の優しい指先がそろり、と撫でると、ぴく、と全身が反応する。その時、ごほん、と大きくわざとらしい咳払いが遠くから聞こえた。

「おい、仕事をしないなら、ミスターヒジリを置いて消えろがいいぞ」

 ぱ、と彼の胸を押すと簡単に腕はほどけて、僕は急いでキャシーに、ソーリーと頭を下げた。隣から彼が大きく舌打ちをして、僕の肩を強く抱き寄せた。

「ヒジリは何も悪くない」
「悪いのは心の狭いこいつだからな」

 キャシーはにこりと美しい笑みで僕に優しく話しかける。それに被せるように彼が彼女を親指で指差しながら言う。彼女が笑顔のまま彼に向かって中指を立てていた。

「それから、聖。ここが俺の職場になる」
「え…?」

 見上げると彼は真剣な眼差しで口角を上げながら僕に言った。
 職場、というが、彼は、自分の実家の会社を継ぐのではないのか。だから、今だってアメリカに来ていたのではないのか。
 眉を寄せながら彼に尋ねようと口を開閉していると彼にエスコートされて近くにあってファブリックソファーに並んで腰かけた。僕は膝の上で握りしめていた手を彼が温かい手のひらで包んで、彼の太腿の上に引っ張った。そこで長い親指で慰めるように撫でながら、彼が柔らかい声色で僕に真実を伝え始める。

「俺は実家を捨てる」

 あまりにも突然で、僕が考えもしなかった言葉が出てきて、驚きのあまり声も出なかった。ぎゅ、と手のひらを固く握ると、それに目を落としてから、彼は小さく微笑んで続けた。

「あの親のもとにいる限り、俺に自由はないし、人権もない」
「そ、そんな…」

 しかし、頭に浮かんだのは幼い頃見た彼の母親の、真っ赤な唇だった。僕をただのおもちゃだと嗤い、彼にアルファの花嫁を引き合わせようとしていたり、彼がここに逃げる理由を作ったり、ひどい行いも思い出された。
 そういっても、彼にとっては、たった一人の母親なのだ。

「ぼ、くのせい…?」

 彼が家を捨てる。親を捨てる。母親を、捨てる。
 その残酷な選択をさせているのは、僕のせいなのではないか。
 彼女には絶対に、僕が隣にいることは許されないことだろう。つん、と鼻の奥が痛んだ。

「違う」

 彼は冷静に、首を振って、僕の手を大切そうに両手で包んで慰める。

「そうだ、あの親どもは、子どもをただのコマとしか思ってないからな」

 隣からキャシーが腕を組みながらつぶやいた。

「聖が思っている以上に、あの人たちはおかしいんだ。聖のせいではなく、俺が俺のために決断したんだ」

 それから、彼が少しだけ話をしてくれた。
 いずれ、自分の家の会社が終わるであろうことを。裏金の複数の記録だけでなく、人身売買など非人道的な行いをたくさん積み重ねてきたことがわかっているということ。それらの証拠集めをある程度終えて、これからFBIと交渉するということ。

「泥船と共に沈むほど、俺はバカじゃない」
「で、でも…」

 それでも、彼の大切な人たちのいる場所ではないのかと思う。いくらおかしいとは言っても、彼の実の親の会社なのだから。
 彼は僕の言いたいことを見透かしているようで、寂しそうに眉を下げて笑った。

「俺には聖がいる。それだけでいい。そうであることが、大事なんだ」
「それに素晴らしい人材ならうちでスカウト済だから安心して」

 にっこりと綺麗な笑みを浮かべてキャシーはピースしていた。

「うちも万々歳。もう少し事業を拡げたかったんだけど、安心して任せられるビジネスパートナーが見つからなくてね」

 残念だけどそいつは仕事だけはできる。とキャシーは唇を尖らせながら言い捨てた。

「リモートで片付くから、日本で過ごす。あとは、たまに一緒にアメリカに来てもらえれば嬉しい」

 彼は、僕の左手をとって、薬指の指輪をくるり、と回して、甘く微笑んだ。それを聞いたキャシーはぱん、と両手を合わせた。それから瞳を輝かせて、鼻歌交じりに提案する。

「そうだ! 私、秘書を探してたの。ヒジリが私の秘書になればいいわ!」

 それがいい! とキャシーは一人で喜んでいた。それに、眉間に皺を寄せて彼が睨みつけた。

「聖の未来をお前が決めるな。聖の未来は聖のものなんだから」

 は、と顔を上げる。彼は、まっすぐとキャシーを見つめて、しっかりと言葉にした。僕に気づいて、視線を寄越す彼は、優しく眦を下げていた。
 僕の未来を、僕の意思を最も大切にしようとしてくれている彼の思いの深さに、心が揺さぶられた。身体の奥底から、何かが溢れるような気がした。

「貴様もヒジリの結婚相手を勝手に決めてるじゃろ」

 えんぴつを唇の上にのせて、厚い唇を突き出しているキャシーはバリバリのやり手社長とは思えない愛らしさがあった。

「それは、俺以外ありえないからな」

 ちゅ、と小さい可愛いリップ音が聞こえて、こめかみがじんわりと温かくなる。自信満々に彼が僕の肩を引き寄せて、甘い香りが漂う。頬が一気に熱くなり、手の甲で拭うけれど、熱さをさらに実感させられるだけだった。

「貴様らいると仕事にならんぜよ。仕事しないもんは島もくわないって言葉をしらねのか」

 キャシーが間違った日本語を言い捨てて、手で僕たちを追いやった。御邪魔して、見苦しい所見せて申し訳ないと謝りたかったのに、もう頭が彼のことでいっぱいでぼんやりとしていた。いつか、また彼女に会えた時に、ちゃんと謝罪をしなければならないと思ったのは、帰りの飛行機で彼が隣から手を握りしめたまま眠りについた顔を見ていたときだった。

 あどけない彼の寝顔に、勝手に頬が緩む。くすり、と笑ったあと、この寝顔を彼の両親も愛おしく思うのだろうと思う。それなのに、彼は僕を選んだ。
 それが、とても残酷なことをさせてしまったのではないかと思う。
 その時、彼の手が、きゅ、と僕の手を握り直した。目線をあげるが彼はまだ眠りの中で、薄い瞼が長い睫毛をぴくぴくと震わせていた。完璧なアルファの彼が、こんなに無防備な姿を見せていることに驚くと共に、その隣に僕がいることに高揚する。

(さくがいればいい…)

 両親だって、家の人たちだって、職場の人も、僕にとっては大切で大好きな人。けれど、それは彼と天秤にかけることはできない。
 それほど、僕の中で彼は唯一無二で、たった一人の僕の愛する人だった。

(さくも、そう思ってくれているのだろうか…)

 そうなら、僕は。

 絡ませた指先に力を込めて、温かい手のひらをさらに強く握りしめる。頭を寄せて、そっと彼の腕に寄りかかる。ふんわりとマゼンダの海から漂った、優しくて甘くて、濃密な香りがする。その匂いを嗅ぐと、鼻の奥が痛んで、じわ、と視界がゆるんでしまう。

(好き…)

 苦しくなってしまうほど、僕は彼が愛おしくてたまらない。
 もう、二度と離れたくない。
 彼には僕だけを見ていてほしい。
 だから、彼が家族よりも僕を選んだくれたといった時、僕の心はひどく喜んでいた。だったら、その気持ちに正直であってもいいのではないかと思う。
 ようやく、僕は僕を許せるようになってきた。彼から、たった一人の母親を僕なんかが奪ってしまうことが良いことなのかと疑問は残る。けれど、彼が僕を選んだくれたなら、それでいい。
 彼が、そういってくれている内は、素直に甘えようと思う。
 気づけば、いつか、僕が一番でなくなる未来を思っているようで、自分で勝手に傷ついてしまう。じくり、と胸の奥が火傷するように疼いた。
 視界に何かが動いて、優しく頬を撫でられた。それから、ぽん、と頭を撫でられる。

「聖…」

 彼が甘くかすれた寝起きの声で僕の名前を囁いた。顔をあげると、寝ぼけ眼のまま、ゆるりと微笑んでいた。

「さく…」

 返事をするように名前を呼ぶと、彼は目を細めて、頬を染めたままゆっくりと口づけをする。公共の場だというのに、ファーストクラスの他人との距離がある個室のような状態の席では気にならなかった。もう一度、彼は僕にゆったりと吸い付くと、とろけた笑みのまま、繊細に僕の頭や輪郭をなぞった。

「聖がいる…、これ以上のしあわせはない…」

 好きだ、聖。
 ここずっと、毎時間のように聞いている言葉なのに、全く聞きなれない。言われる度に、心臓が驚くほど高く鳴って、全身を血液がくまなく駆け巡る。夢のようなのに、ちゃんと現実で、たまらなくて僕は彼に身を寄せた。長い腕が大切に僕を抱きしめてくれる。温かい身体の中で息を吸うと、彼が必死に僕を誘う香りを漂わせている。嬉しくて、しあわせで涙が滲んだ。

(ごめんなさい…)

 彼をこの世に産んでくださったご両親には、心から感謝している。
 それなのに。

(彼を奪ってしまって、ごめんなさい…)

 でも、僕は、もう彼を、誰にも渡したくないのです。
 胸の中でたくさんの懺悔をしながら、好きだと囁く彼に誓うようにキスをした。






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