初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第89話

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「そ、れは、いとこの会社に寝泊まりしていたからだし、あいつは油断させて情報を引き出す必要があったから…」

 そろそろ、と彼の長い指が僕の拳に触れる。

「なんでその人のとこに寝泊まりする必要があるの? ホテルだって、この部屋だってあるじゃん…」

 上目で睨みつけると、彼は眉を下げて僕の様子をうかがっていた。

「その時は…」

 彼は口をつぐんで、視線を横に流した。

(やっぱり、何かあるんだ…)

 予想される浮気の事実に、僕は身構えた。それでも、どうしたって目の裏がつん、と痛んで、胸が痛む。拳に触れる彼の指を払うと彼は、顔をひそめて僕に振り返った。

「話して。本当のこと、ちゃんと」

(覚悟、してるから…)

 パジャマの胸元を握りしめる。覚悟、していた。もし、僕以外にも彼と関係を持っている人がいても、それでも受け止めて、もう二度とするなって怒鳴ることを覚悟して、僕はここにやってきた。

「今から本当のことを話す。…ただ、これらの事態は、俺の力不足によるものだからな」

 聖のせいじゃないからな。
 彼は、僕をちら、ちら、と様子を伺いながら、重い口を開いた。

「そもそも、俺はアメリカには行く気はなかった…」

 けれど、どうしても来てくれと社長である父親の秘書から声がかかり、お世話になっていたことも渋々渡米を決めた。本当は、聖と離れたくなかった。

「ましてや、丁度、バース性の薬を強くするタイミングだったろう?」

 ベッドの淵で足と腕を組んで、彼は遠い日を思い出すように話した。

(ちゃんと、知っててくれたんだ…)

 彼からの確認の問いに、小さくうなずく。一緒に通院はしていたけれど、毎回だったわけではないのに、そこまで把握してくれていたことを、単純にも喜んでいる自分がいた。

「とんでもないことだって言うから嫌々来たのに、仕事のことは五割もしなかった…」

 メインは、俺の見合いだった。

「お、みあい…」

 がん、と頭を殴られたような衝撃があった。思い返せば、彼とちゃんと話ができるようになる前に、寮の部屋で、彼が母親と電話でそんなやりとりをしていて、同じようにショックを受けたことをなんとなく思い出す。
 彼は、眉を垂らしたまま、寂しそうに笑った。

「全部、母親の仕組んだことだったんだ」
「お、母様…」

 昔、彼の屋敷で、真っ赤な口紅を引いた唇が、にたりと笑って、僕を蔑んでいたことは、忘れられなかった。美しい、彼の母親が、僕をただのオモチャだとしか認めてくれていなかった、あの時のことを。

「何度断っても、何度話をしても、全く通じなかった。それを続けていると、いつの間にか、ホテルの部屋に帰ると、ヒートの状態になったオメガが数人いることが毎日起きた…」

 思わず、背筋がぞ、と血の気を失い、冷たくなった。
 ホテルとは言え、勝手に自分の部屋に、誰かがいることだって怖いことなのに、ましてやヒート状態のオメガを用意するということは、あまりにも手が込んでいた。彼の母親の異常性を感じざる得なかった。

「母親は、古いアルファ社会の人間でな…」

 一部の上級階級のアルファたちは、オメガの番の人数がステータスだというのは有名な話だ。彼の母親も、オメガをペットのようにしか考えていない、昔気質な人種差別的アルファなのだ。だから、僕のことも、ただのオモチャだとしていたのかと思うと、彼の話していることが真実なのだと思う。

「もちろんアルファの女の時もあれば、アルファの男の時もあった。それが気持ち悪くてな…。違うホテルをとったとしても、どこからか情報が漏れていて、必ず誰かが待ってたんだ…」

 おぞましかった…。

 そう彼は口にして、自身の手を強く握りしめていた。震えているようにも見えた。
 僕は、ベッドから足を抜いて、彼の隣に腰掛けて、震える膝に手をかけた。それを見てから、彼は、眦を下げて、僕の手を握りしめた。手は、しっとりと汗ばんでいるようだった。

「こっちで会社をやってるいとこがいて、あいつはそういうことに潔癖だから、その会社で寝泊まりをするようにしてたんだ」

 話を聞くと、そのいとこと言うのは、彼よりも十個年上で、バリバリのキャリアウーマンらしい。おまけに、アルファとかオメガとか、男とか女とか、そういう性欲とはかけ離れた感覚を持っている、珍しいアルファだった。
 アメリカ人よりも日本人らしく、基本的に会社で寝食過ごしている。だからこそ、彼は彼女の近くなら安全だと踏んだ。そこで寝泊まりする代わりに、彼女の仕事を少し手伝っていた。寝落ちした彼は、携帯をデスクに置いたまま、シャワーを浴びに行った。その間に、彼女が着信音で目が覚めて、思わず受話器を取ってしまった。

「もう、そっからは焦ったよ。また聖を不安にさせたって」
「うん…」

 彼がその時を思い出して、声のトーンをあげて話したが、僕は知らない事実がたくさんあって、適当な相槌を打つしかなかった。

(彼が、そんなに大変だったなんて、知らなかった…)

 ちら、と上目で彼を見やると、僕に微笑みかけていた。

「…聖は、もっと大変だったろう…?」

 僕の考えていることが、わかるみたいだった。
 前髪を、長い指がさらり、と耳にかける。丸い指先が肌を撫でると、そこから熱が身体に広がっていくようだった。

「う、ん…、すごく、つらかった…」

 咄嗟に否定する言葉が出かけたが、僕は、それを飲み込んで本当のことを言った。

「ずっと、気持ち悪くて…ごはんも、食べられなくて…、さくとも、会えなくて…」1

 つらかった。
 何にも満たされない、奪われるだけの時間だった。何をしてても、しなくても、ずっと身体の内部が痛くて、何かに犯されていて、どうしようもなかった。助けてほしいと願った人には会えなくて。

「つらくて、…それなのに、さくは…って…、でも…」

 それは、僕の早とちりだった。勘違いだった。
 ヒートのオメガを前にして、アルファがどれだけ苦しいかは僕は知らない。本能に支配されて、交配せずにはいられなくなる。それが、アルファとオメガの本能に刻み込まれた、呪いなのだ。それに、理性であらがうことは、とても苦しかったのではないだろうか。
 温かい手のひらが、頬を撫でた。無数に零れる涙を掬ってくれた。

「俺が、いけないんだ。愛する人を一番に動けなかった、俺の力が足りなかったんだ」

 だから、聖は悪くない。むしろ、聖は、俺のために、一人で耐えてくれたんだな。

 そう言って、彼は、僕に微笑んだ。

(違う…)

 首を横に振る。

(僕の、わがままのせいなんだ…)

 彼の番になりたいのも、彼を縛っておけると思ったから。彼に捨てられたとしても、番という契約が永遠に消えないから。
 そんな僕に、彼は必死に笑いかけてくれた。

「聖が、本当の気持ちを隠して、俺に無理をしているのもわかってた。でも、俺は、離れたくなかった…」

 どんどん痩せていくのも、顔色が悪くなっているのもわかってた。
 けど、それを言ってしまったら、本当に聖は何も言ってくれなくなると思った。

(…きっと、そうだったと思う)

 彼が僕の体調を気遣えば、そう見えないように、もっと無茶をしていたと思う。彼と離れないために。
 あの時の僕の救いは、彼が近くにいて、たくさん甘やかしてくれることだった。見つめてもらえればそれで良かった。抱きしめてもらえたら、しあわせだった。口づけを交わせば、天国のようだった。

「バース治療のせいなのだろうと検討はついていた…聖が病院についていくのをひどく嫌がったから確信に変わった」

 だから、あの日、どうしても聖の体調のことを知りたくて、病院についていったんだ。
 そこで…。

「その時…、今の俺じゃ、聖を不幸にさせるだけなんだと、思い知ったんだ…」
「そんなこと…」

 確かに、苦しかった。出口は見えなかった。




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