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第86話
しおりを挟む「…生まれた時からなんでも揃ってるお前に何がわかる」
長い沈黙を破ったのは柊だった。
低く強い声色は威圧を放っていて、身体がびりびりと震えた。近くにいた夢木も同じようで、真っ青な顔で相変わらず大きな瞳からは止めどなく涙が溢れ、震えて絨毯の上で、ぺたりと座り込んだまま動けなかった。しかし、彼は顔色一つ変えず、変わらない立ち姿のまま柊を見ていた。
「僕には、力が必要だった。あの人を手に入れるために…」
柊は拳を強く握りしめて、それを見つめていた。そこには、どれだけの苦労があったのだろう。そして、どれだけの被害者がいたのだろう。
「何も持っていない僕が、あの人に見合うためには、力が必要だった。他の誰にも邪魔されないように、邪魔するものを吹き飛ばすだけの力が」
だから、身体も鍛えた。必死で勉強もした。それだけでは足りなくて、だから、汚いことだって、たくさんした。
奥歯を噛み締めながら、絞り出すような声で柊は叫んだ。その悲痛な叫びに、喉が締まるように苦しかった。
「そうでもしないと、俺はひーちゃんの隣に並べないから…!」
(柊…)
出会った時、女の子のように大きな瞳で、握った手はあまりにも小さかった。その柊が、僕と出会うために、どれだけの苦労を重ねてきたのだろう。
僕が知っている柊が、本当の柊ならば、きっと心を痛め続けたのではないだろうか。
「ひーちゃんを愛してるから…だからっ」
「おい」
柊の悲痛な叫びは、あまりにも強い彼の一言で圧せられてしまう。地響きのように唸り上げて、強く発せられた彼からの圧。身体を起そうと突っぱねた腕から、また力が抜けてしまった。ぞくぞくと悪寒が走るほどの強烈な圧に、床に這う形になってしまい、汗が噴き出る。それでも扉の向こうに視線を寄越す。柊ですら、床に膝をついていた。それでも懸命に顔を上げて、彼を睨みつけていた。夢木はその場に倒れており、気絶しているようだった。
「それ以上、聖を汚すな」
「お前…ッ」
ぎりぎりと奥歯を鳴らして柊は睨みつけており、それに対して彼は、憮然と立ち、鋭い眼光のまま見下ろしていた。
「お前さえ…いなければ…、ひーちゃんも、僕も、しあわせになれた、のに…っ」
「黙れ」
さらに重力が増したように、彼の圧が強まった。ガタガタと窓が震え、キッチンからいくつかのグラスが落ちて甲高く割れる音が響いた。
「お前さえ、いなければ…お前さえ…!」
最後の力を振り絞るように柊が床を蹴り上げて、彼に飛び掛かろうとした。
(柊っ!)
僕は、動かない身体で無我夢中だった。
気づくと、ドアを開け放ち、柊と彼との間に立ち入り、彼を守るように抱き着いた。
「聖っ!」
後ろで、ガシャンッ!と強い音がして、襲ってくるであろう痛みに目をきつくつむっていたが、温かいものに包まれていて、頬をくすぐる感覚に、そろり、と瞼をあげた。目の前には、顔色の悪い彼がいて、僕の名前を呼んでいた。
「さ、く…」
「聖っ! 無事か? けがは?!」
僕をいとも簡単に抱き留めて、前髪を払ったり頬を撫でたりして、彼は心配そうに眉を下げながら、僕の様子をうかがっていた。彼の安否を確認できて、身体が緩んだ。そ、と頬に触れると、彼がその手を掴んで、手のひらに口づけをする。
「聖…っ」
顔の中心に皺を寄せて、泣き出しそうな顔をした彼に、ゆるく微笑んでから、は、と思い出す。重い身体を起して、心配する彼の手から抜け出して、柊を見つける。真正面にある壁に打ち付けられて、蹲っていた。
「聖!」
腕を掴まれて、引き寄せられてしまう。振り返ると彼が潤んだ瞳で僕を映し出していた。頭の奥がびりびりと何か痺れるような感覚がまだ続いていて、うまく口が動かせなかった。首を横に振って、なんとか微笑みかけて、大丈夫、と意思を込めて、掴んでいる手をほどくように手を重ねた。するり、と簡単に手は離れていって、僕は覚束ない足元で柊のもとへ膝をついた。
「しゅう…」
「っく…、ひ、ちゃ…」
乱れた前髪を触ると、柔らかく指に絡む。それを撫でつけて、顔を覗くと痛みにゆがめながらも、僕を見つけると涙を浮かべて名前を呼んだ。
「ほんと、なの…?」
ぐったりとして、冷たい汗をかいている柊の顔を両手で包みながら、そ、と尋ねる。柊は、少し目を見開いてから、小さく笑った。
「ごめんね…ひーちゃんを、しあわせには、出来ないみたい…」
長い睫毛を降ろすと、ぼろり、と大粒の涙が僕の指に触れた。柊は、そのまま言葉を続けた。
「たくさんの人を、傷つけてきた…当然、の報いなんだ…、ごめんね…」
ひーちゃんを、好きになって、ごめんね…。
柊はそうつぶやいて、僕の手を握った。大きくて硬い手のひらだった。苦労をたくさんしてきた手なのだろう。かさついて、冷たい指を、僕は握り返した。
「しゅう…、ちゃんと、つぐなって…」
つやめく睫毛が持ち上がると、ぱ、と小さい雫が散って光った。柊の頬に、僕の涙がぱたぱた、と落ちる。
「ちゃんと、償って…そしたら、待ってるから…」
「ひ、ちゃん…」
見開いた目からは、つ、と温かい涙が零れた。後ろから、彼が息をつめたのが空気伝えに感じられた。僕は、震える呼吸を正して、柊に微笑みかけた。
「友達として、ずっと、待ってるから…」
柊は、一人じゃないよ。待ってるから。
そう伝えると、柊は、ぐしゃり、と顔を歪めて、長く熱い息をはいた。
「聖」
後ろから彼の低い声が聞こえた。
ここで別れたら、柊とは当分会えないだろう。
確かに、僕を救ってくれたのは柊だった。
僕を傷つけたこともあった。
けれど、あの学園で、独りぼっちで、大好きな人にも振り向いてもらえなくて、つらくて、苦しくて、痛かった毎日。それを、明るくて、温かくて、乏しかった表情に色を与えてくれたのは、柊だった。
柊が笑いかけてくれたから、僕も笑えた。柊が楽しい話をしてくれたから、僕も温かい気持ちになれた。柊が、毎日会いに来てくれたから、僕も楽しかった。
「しゅう…、ありがとう…」
嗚咽が漏れそうなのを、下唇を噛んで必死に堪えながら、目の前の柊に伝える。柊は、涙を零しながら、小さく微笑んで、首を伸ばした。そして、ちゅ、と僕の唇に吸い付いて、大好きだよ、と囁いた。
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