初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第83話

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 その手を掴もうとしたけれど、彼の手は逃げて、僕の肩を力強くつかんだ。

「さく」
「何してるんだ!」

 眉を吊り上げた彼に大きな声でそう言われてしまって、僕は固まった。

「なぜ聖がここにいる!」

 宙に浮いたままの手は、目的のものを掴むことなく、下がっていってしまう。

(どうして…)

 会いに来たら、ダメだったの?
 威圧のフェロモンさえ感じられて、膝が小さく震え出す。強い剣幕で彼は僕を見下ろして睨んでいた。

「ここにいてはダメだ」
「なに~?」

 低く唸るように彼がそう言うが、意味がわからなくて眉をひそめると、彼の背後から日本語が聞こえた。高いソプラノの声は、鈴の音のように透き通り美しい。聞き覚えがある声で、まさか、と僕はこめかみが痛んだ。
 その声がすると彼は、急いで、僕とその声の主を遮るように、僕に背中を見せた。彼の肩に、ピンク色の形のきれいな爪の指がかけられて、撫でるように腕を掴むと、顔がひょこり、と現れた。目があった瞬間、全身の血が、ざ、と外に逃げて行ってしまったかのような気味の悪い感覚と、鳥肌が一気に立ち、息が震えた。
 細い絹糸のような髪はさらさらと風に流れ、砂糖菓子のような甘ったるい匂いがして、つやめく瞳は、僕を見つけると、少し見開いてから、にたり、と歪められた。

「なにお前、まだ咲弥のストーカーしてんの?」
「おい」

 彼が、夢木美久の肩を掴んだ。それを見て、僕は走り出した。後ろから名前を呼ばれて、しばらく追いかけられていたのも感じたけれど、僕は一心に人混みの中に紛れて走った。足の長い欧米人のスピードに僕の足は丁度良いものだった。

 どうして。
 どうして、どうして。

 とめどなく涙が出て、寒さに唇は震えて、上手に嗚咽もつけない。

 いつでも待ってるって、言ったのに。
 会いに来ていいって言ったのに。

 なんで、あんなに怒ってたの。
 もっと、喜んでもらえると思ってた。僕に見せない、とろけた笑顔で、抱きしめてくれると思ってた。

 それなのに。
 彼はものすごく怒っていた。
 おまけに、彼の隣には、夢木美久がいた。

 なぜ。どうして。ねえ、さく…。

 心の中で何度、疑問を投げかけても返ってくるものはない。

 夢木美久は、僕のことを、ストーカーだと言った。彼の、身体に触れていた。彼も、あいつの身体に触れていた。
 僕に背中を見せたのは、あいつに僕を見られるとまずいから隠したんだ。
 なぜまずいのか。それは、夢木が、彼の本命だからなのだろうか。

 そう思うと、息がつけなくて、胸の奥が絞られて、喉がつまる。
 角を曲がると、何か大きなものにぶつかって、尻もちをついた。痛みに顔をしかめると、頭上から低い男の声で騒がれる。顔をあげると、毛深く大きい体つきの男二人が、僕を指差して喚いている。スラング系が混ざっているようで、うまく聞き取れなかったが、おそらく金品を要求されているようだった。首を横に振ってノーだと伝えるが、相手は一層怒りを増しているようだった。三人目の男が後ろから出てきて、かけていたサングラスをずらして、僕をじっとりとした嫌な目で見てくる。そして、一番身体の大きい男にガムを噛みながら耳打ちすると、三人はいやらしく笑って、分厚い手で僕の手首をつかみ上げた。力に逆らえず、力の入らない身体は立つように促される。目の前に男の顔がやってきて下品な言葉を吐きかけられる。酒とたばこと、何か薬品のようなにおいがして顔をしかめる。為す術もなく、手を掴まれたまま男が歩き出す。
 さすがにまずいと本能的に察して、残った気力で足を踏ん張るが、なんてことない抵抗で男は一つも気づかないようだった。

(どうしよう、どうしよう…助けてっ)

 恐怖で声も出ず、通行人も見て見ぬふりだった。

(こんなことになるなら、来なければ良かった…)

 思いもしなかった後悔が心にめいっぱい広がって、苦しくてたまらなくなる。すると、急に、後ろから、温かく柔らかい何かに包まれる。懐かしいその匂いに驚くのもつかの間、僕を抱きしめている男が、英語で目の前の男たちに声をかける。
 僕の友達なんだ、見逃してくれるかい?と交渉してくれていた。その声にも聞き覚えがあった。振り向きたいのに、がっしりと抱きしめられて顔も動かすことができなかった。目の前の男たちは瞠目したあと、にたにたと笑って、彼にも金銭を要求しだした。それに朗らかな様子で冗談を交えながら許してくれよと伝えているが、男たちが、僕たちの目の前と両脇に立って威圧してくる。
 僕を抱く男が、スーツから高級時計をちらりと見ると、遠くからサイレンの音がした。それから、遠くを見て、手を挙げて「ヘイ、ポリス」と大きな声で呼びかけた。男たちが一斉にそちらを振り返ると同時に、僕の手を掴んでいた男を先の尖った革の艶めく靴で思い切り蹴りつけて、続けざまに両脇にいた男たちにも肘や膝を打ち込んだ。

「いくよっ」

 今度はその彼が僕の手を握って、思い切り走り出した。後ろから怒鳴り声が聞こえて、びくり、と身体が固まりそうになる。

「振り返らないで、とにかく走って!」

 目の前の柔らかな赤毛を揺らしながら、彼も叫んだ。スーツを身にまとった、大きな身体は猛スピードで人混みをかき分け、角を曲がり、また曲がり、裏路地に入り、階段を上っていく。鉄製の重い扉を開けて、中に入ると、そこは柔らかい絨毯の廊下が続いていた。そして、近くにあったドアを開けて中に二人で飛び込む。僕は投げ入れられるように手を引っ張られて、そのまま震える足が言うことを聞かずに、柔らかな絨毯に倒れ込んだ。後ろで彼は、鍵を閉めて、僕と同じように倒れ込んで息を切らしていた。

「ど、して…っ」

 息絶え絶えに彼に声をかけると、乱れた前髪をかき上げて、長い一息をついたあと、くすくす、と笑い出した。

「あーっ! 怖かった!」

 飄々とコミュニケーションをしていて、最後は大暴れしてここまで走ってきたのに、彼は、怖かった!と叫んで、大笑いしだした。なんだかそれにつられて、ほ、と身体の力が抜けると、頬がゆるんだ。

「あんなに堂々としてたのに…、ふふ」

 思えば思うほど、おかしくなってきて、つい声を出して笑ってしまった。くすくす、何がおかしいのかわからなくなってきたけど、目の前の男に釣られて、一緒に笑った。二人で思う存分笑うと、声を出して笑ったのが久しぶりなことに気づく。そして、こうやって、高校時代に、あの図書室で笑い合ったっけ、なんと思い出す。たった数か月だったけれど、僕にとってあの図書室で過ごした、目の前の男との時間は宝物の一つだった。
 過去のきらめいた日々に思いを馳せていると、頬を撫でられた。は、と目線をあげると、目の前で、眉を下げて微笑んでいた。

「やっぱり、ひーちゃんは笑ってる方が良いよ」
「柊…」

 白い肌にうっすらと散らばったそばかすは愛らしい。それなのに、スーツの上からもわかるたくましく、上背のある体躯はアルファの男そのものだった。ゆっくりと柊は立ち上がって、倒れたままの僕の手を引っ張って、立つように起こした。柊の胸元に倒れ込む前に、足に力をいれる。

「良かったら、夕飯を食べてってよ」

 柊が笑顔のまま、そう提案してくれるが、彼との別れの時のことを忘れたわけではない。

「いや、帰るよ…」

 少し考えてから、断ろうとそう口にして、お礼を言おうとするが、柊はいつものように駄々っ子のようにねだった。

「えー! じゃあ、お茶だけでも! 久しぶりに会えて、話がしたいの! ね!」

 ね、ね、と何度も大きな身体をかがませて、上目遣いで僕に迫ってくる。この瞳に僕は弱かった。それに、先ほどは柊に助けてもらわなければどうなっていたかもわからない。面倒事に巻き込んでしまった後ろめたさもあって、じゃあ少しだけ…と答えると、柊は頬を上気させて見えない尻尾をぶんぶんと振り回して、僕を室内へ誘った。



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