初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第82話

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 自分が考えなしで無鉄砲に、ここに来たことを痛感させられたのは、ホテルに一度チェックインをして、いざ会いに行こうと出たところだった。

(どこにいるんだろう…)

 そもそも、彼がアメリカのどこでどのような仕事を手伝っているのかも僕は知らなかった。さらに言えば、彼が今、この国に滞在しているのかもわからない。にぎやかで、人が次から次へと目の前を湧き出でるように通り過ぎていく。凄まじい人込みと、異文化の空気で、急に強い孤独に襲われる。

(大丈夫、大学でだって見つけられた…)

 僕なら、見つけられる。そう信じて、暗い考えを首を振って霧散させて、足を進めた。とにかく、彼のアメリカにある会社に向かうことにする。先ほど、バス車内から見えた。おそらく彼がここで働くとしたら、その場だろうと検討をつける。徒歩で行ける距離のはずだから、と記憶を頼りに方向を決める。
 英語のみならず、様々な言語が聞こえる。ひゅ、と吹く風は冷たい。日本よりも肌が痛む寒さだった。覚悟はしていたし、そのための防寒具も身に着けてきた。マフラーに鼻まで埋める。カシミヤ素材の柔らかいマフラーは非常に温かかった。うっすらとだが、花の甘い蜜の匂いがする。
 去年の冬、公園で彼のマフラーを預かった。それを僕は、ずっと返せないでいた。彼からも話が出なかったから、それでいいやと思っていた。別れを告げられてから、手放さないといけないと何度も思ったが、その度に、次に会えた時に必ず返すと心に誓って、大切に保管していた。



 彼の会社に着くのに、結局一時間ほどかかってしまった。分厚いコートを着てきたというのに、身体が痛い。ガラス状のドアから入って、受付の人に話しかける。拙い英語のためか、訝しむような表情をされるが、ひるまずに彼と会いたいことを伝える。
 約束があるかを確認されると、首を振って、彼は不在だと突き返されてしまった。食い下がろうとするが、警備員らしき制服の男性が近づいてくるのが見えて、帰らざるを得なかった。また冷たい外に戻る。溜め息は白く浮かんだ。会社に入ったり出て行ったりする人は、みな、アルファらしいスタイルの良い聡明そうな人たちばかりだった。そんなところに、特にぱっとしない自分などが来たところで、怪しまれて終わるのは当然のことだ。
 ここで、彼が来るのを、もしくは出てくるのを待つしかないか。
 もう三月になるというのに、鼻先が寒さで痛む。鼻をすすると、コーヒーの匂いがかすめた。視線を動かすと、見たことのある景色だと思った。

(あ、ここ…)

 広い道路と証明のきらびやかなこの通りには見覚えがあった。それは、僕が、彼のアメリカでの生活で唯一知っている、あのコーヒーの写真の背景だった。
 日本を出る前に携帯の設定は海外でも使えるものにしていた。検索をかけると、おそらくそのコーヒー店がすぐ近くにあることがわかり、一抹の希望を見つけた喜びで急ぎ足で向かった。

 大通りに面した、レンガ調の大きなコーヒー店だった。こちらでは有名な店舗らしく、検索すると日本にも数店あるらしい。見つけた瞬間、ど、と身体から力が抜けるようだった。何か、彼とつながるものが見つかった安堵と高揚感があった。
 メニューは文字しかなく、ある写真と言えば、カップに注がれたブラックコーヒーだけだった。よくわからないまま、とりあえず、メニューの一番上に書いてあったコーヒーを注文する。そうすると、出てきたのは、彼が手にしていたクリームのたくさん乗ったコーヒーだった。目をぱちくりとしばたたかせて、受け取って固まっていると、男性の店員がくすりと笑っていて、恥ずかしくて、サンキューと言ってから足早に空いてる席を探した。道路に面した大きなガラス窓の前のカウンター席が空いていて、そこに滑り込むように座った。夕日がクリームに差し込んだ。カップを手に持って、窓外の通路にかかげるように持った。

(さくが送ってくれたのも、こんな感じだった…)

 彼と同じものを共有している気がして、喉がつまるような喜びがにじんで、そのまま携帯で写真を撮った。ホイップをぺろり、と舐めると、見た目通りに甘いそれに、つい笑ってしまう。

(これ、さくは食べきったのかな)

 彼が甘いものが特別得意ではなかった。むしろ、出来るだけ避けていた。それなのに、このホイップをどうしたのだろうと考えると、渋い顔をして舐めている彼を想像して頬が緩んだ。カップの淵に口をつけて、コーヒーをすする。苦味が際立って、僕を現実に引き戻すようだった。

(なに、やってるんだろ…)

 ガラス窓からは、おそらく帰宅するのであろう人たちがたくさん歩いている。向かい側の道路が見えないくらい、人がたくさん歩いている。みんな、目的があって、僕の目の前を歩いている。僕だけが、何もないままここにいる。
 日はどんどん傾いている。町にはさらに色とりどりの電飾が輝きを増している。この町は、これからが活気を出す時間なのだろう。
 ホイップを一口すくって食べる。先ほどよりも甘く感じられて、マドラーでコーヒーと混ぜてしまう。ホイップは形をなくして、黒に溶けていった。

(これを飲んだら、今日は帰ろう…)

 自宅に届いたチケットは、行きの飛行機分だけだった。彼と会えてから、帰りは考えようと思っていたけれど、明日も会えなかったら、考えないといけない。
 このくらいでへこたれない自分になったと思っていたけれど、初めての土地で、知らない人ばかりで、頼る先もないことが、こんなにも孤独なことなのかと気づかなかった。
 ぐ、とコーヒーをあおると、ココアのように甘い飲み物になっていた。後味はコーヒーの深さがあって、おいしい。きらり、と何かが反射して光って、顔をあげる。
 人の流れの、たまたま空いた狭間に横断歩道が見えた。ベージュのコートが見えて、がた、と勢いよく立ち上がった。その人だけ、スポットライトが当たったかのように光って見えたのだ。コーヒーカップをそのままに、急いで店を飛び出して、横断歩道の方へ、人混みの流れに逆らいながら、急ぎ足で向かう。ふと人の流れの切れ目に転びかけながら出ると、数メートル先に、彼がいた。

「さく…っ」

 つぶやくように名前が零れた。

(会いたかった)

 思わず、涙が滲んだ。ようやく、会えた。
 以前会った時と同じ、ベージュのロングコートを着て、髪の毛もきれいに分けて、仕事モードの時の彼だ。本物だ。間違いない。

「さくっ」

 周囲の喧騒で聞こえるはずがないのに、呼びかけるように声が漏れた。何十人も間に通行人がいて、数メートル先にいる彼に届くわけなかった。
 それなのに、替わろうとしている横断歩道を渡ろうとしていた彼が、長い脚を踏み出したところで立ち止まり、ゆっくりとこちらに振り返った。

「さく…」

 よろけるように一歩、足が進んで、駆けるように彼のもとへ引っ張られた。僕に気づいた彼も、急ぎ足でこちらに来てくれる。手を伸ばすと、彼も長い腕を伸ばしてきた。


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