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第79話
しおりを挟む毎日が、充実している。
自分でも笑顔が増えたのがわかる。
一緒に笑い合える人が増えた。大切にしたいと思える時間が増えた。朝を迎えるのが明るい気持ちになった。
それでも。
それでも、急に食欲が落ちる時がある。
涙が止まらない夜がある。
彼が恋しくて、さみしくて、悲しくてたまらない時がある。
僕を好きだと言った彼が、今どこかで別の人に同じように愛を囁いていたらどうしようと苦しくなる。
大好きな彼を傷つけてきた自分を許せなくなる。
彼は素直に、不格好な自分を教えてくれたのに、それに応えられなかった自分が情けなくなる。
彼の言葉を信じきれなかった自分を消してしまいたくなる。
かと思えば、何も言葉に出来ない虚無感や閉塞感に、一人孤独に夜を更けることもある。
昼間の自分ががむしゃらに頑張れば頑張るほど、ふとした瞬間に思い出したかのように夜の落ち込みは強くなった。何もしたくなくてベッドから意識は覚醒していないのに、身体はプログラムされたように起き上がり、カーテンを開けて、クローゼットから気候にあった服を選んで着る。ドアを開ける前に深呼吸をして、笑顔でリビングに降りる。人と会えば元気になった。それの繰り返しだった。
嬉しいことがたくさんあって、自分がちゃんと変われていることが誇らしくて、どうしても彼に会いたくなったことがあった。マイナスな感情でないから、いいだろう、と自分に必死に説明して、こっそりと彼の通う大学に忍び込んだことがある。
駅から、きらびやかなお店を横目に、舗装された道を歩く。同い年とは思えない、大人びた人がそれぞれの世界をつくっていた。イヤホンで自分の世界に浸る人も、友達と楽しく話す人も、携帯で難しい話をしている人も、それぞれの時間が流れていた。高校だって大きい場所だった。しかし、大学は、僕が思っているよりも、数十倍広い世界だった。校門をくぐると、いくつもの校舎がある。敷地内図を急いで探して見てみると、グランドがたくさんあって、校舎も何十棟もあった。
(帰ろう…)
これだけの広さと人の多さに、圧倒されてしまった。慣れない電車にも、勢いで飛び乗ってしまったが、急に冷静になってきた。彼がここに、今、いる保証は何もない。肩を落としていると、とん、と肩を叩かれた。振り向くと、香水のような甘い匂いがした。目の前には、大きな体躯の見るからにアルファだとわかる男性二人が立っていた。
「迷子? 俺、案内してあげるよ」
「お~、かわいいね。学部は? 何年?」
じゃらり、とゴールドのネックレスを揺らしてかがみ、僕の視線に合わせるように迫ってくる男性は、にたり、と僕を笑いながら、頭の先から爪先まで舐めるように見た。
「こんなかわいい子がうちの大学にいるなんて、俺知らなかったわ」
「俺たちもまだまだだな」
とお互い見合って、げらげらと下品に笑っている。そして、僕に向き直ると、肩に置いていた手を、和らげて、するり、と撫でる。大きな手は、細い僕の肩を簡単に折ってしまいそうだった。二の腕を撫でられると、気持ちが悪くて、鳥肌が立った。捕食者の目をする大きな男二人に挟まれて、足が震える。
(怖い、助けて…)
固く目をつむり、助けを求める。心で強く、彼の名前を念じた。風が、わっ、と吹き、周囲を取り囲む匂いが流れ消える。すると、ふわり、と温かい、優しい匂いに包まれた。大好きな、花の蜜のように甘く、とろりとする匂い。は、と顔をあげて、目の前の男を突き飛ばして駆けだした。後ろから何か茶化すような下品な声が聞こえたが、夢中で走り、小さなグランドを前にある大きな木の下で僕はやっと息をつけた。恐怖に足がすくみそうなのを、必死に堪えて、震える身体を自分で抱きしめた。グランドではフットサルを数人の大学生たちが楽しんでいた。その明るい声が、さらに僕を独りぼっちにさせる。
(当てもなく、勢いだけで来て、バカみたいだ)
ここに通う資格すらないのに、ずかずか入り込んできてしまった自分が恥ずかしくて、早く帰りたかった。けれど、来た道を戻れば、あの人たちがまだいるかもしれない。たまたま、今は逃げられたけれど、次はどうかわからない。
アルファのぎらりとした目を思い出すと、背筋が震える。今まで、僕をちゃんと見てくれていたアルファは、あんな目をしない。いつも温かくて、優しい、慈愛に満ちた瞳で見つめていた。その深い青い瞳に自分が映っていると、心底安堵するのに、どこか落ち着かなくて、どきどきした。
(…さく)
少し、顔を見るだけで良い。
ここまで来たなら、彼の顔を一目見て、帰ろう。それだけで、なんだって僕は頑張れるはずだから。
顔を上げて、肩にかけていたトートバックを背負い直す。軽く頬を叩いて、深呼吸する。その時、やっぱり匂ったのだ。かすかだけれど、ふわり、とあの匂いが。すん、と鼻を鳴らして、犬のようにその匂いを辿った。
グランドのフェンス沿いに、足を進める。芝と、木と土、それからコーヒーの匂いがする。グランドの前にカフェテラスが見えた。そこに向かって歩いていると、花蜜の香りも近づいてくるようだった。昼下がりの太陽が、ちらちら、とまぶしくて、風が心地よく木々を揺らす。葉のざわめきと、人の楽しそうな声、そして、広い校内にあるカフェテラスにはそれぞれが充実した時間を過ごしていた。
僕は、足を止めた。風が吹く度に、コーヒーと、彼の匂いがする。
(いた…)
カフェテラスの真ん中で、色々な人の視線を集めながら、眼鏡をかけてパソコンで作業をしている彼がいた。スーツのジャケットを肩に羽織、プレスの効いたスラックスで優雅に足を組んで、背筋を伸ばして考え込んでいた。彼がスーツ姿の時は、何か仕事があるときだった。周りの大学生たちだって、僕からは充分大人に見えた。けれど、その中にいる彼は、もっと凛々しくて、大人っぽくて、かっこよかった。
数人の女性が一緒になって、彼に声をかけた。しかし、彼は、微動だにせずまったく反応を見せなかった。女性たちは諦めて、店内に戻っていった。彼は、息をついて、前髪をかきあげる。その一束が、はらり、と額にかかり、太陽がきらり、と反射した。
とくとく、と心臓から全身に血液が早いペースで送り出される。彼を見つけると、指先が痺れるようにうずいた。今にも叫び出して、駆けだしそうになる衝動を必死に堪えて、口もとを手で覆った。
(さく…っ)
心から焦がれた彼が、今、すぐそこにいる。名前を呼んでしまいそうで、唇を噛む。眦が熱くなって、視界が滲んできて、僕は急いで引き返した。
どうやって帰ったかわからない。けれど、気づいたら夕暮れに染まった自分の部屋にいた。レースカーテンから、柔らかなオレンジが差し込んで、ゆらいでいた。とさり、とカバンをその場に落として、ベッドに倒れ込んだ。
(まだ、ドキドキしてる…)
彼がいた。
あんなに広い校内なのに、いるかもわからなかったのに、目の前に、彼がいた。
彼の匂いが、確かに匂った。
顔も指先も火照っている。耳の奥で、じぃん、と何かが滲むように響いている。それがむずがゆくて、シーツに顔をこすりつける。けれど、熱も思いも収まることなく、むしろ増していく。
「好き…」
溢れた思いは、声になって溢れ出した。シーツに沁み込んでいき、一人、夕暮れの部屋に取り残される。けれど、身体からどんどん力がみなぎってくるようで、居ても立ってもいられなくなった。がばり、と身体を起して、着ていた薄手のジャケットを脱ぎ捨てて、机に向かった。
(早く、会いたい…)
彼に見合うような自分になって、会いに行きたい。ただ遠くから眺めるのではなくて、ちゃんと声をかけたい。名前を呼びたい。
そして、また僕を見てもらえるように、僕の名前を呼んでもらえるように。
本当にそうなるかはわからない。気を抜いてしまえば、こんなになっているのに振り向いてもらえる自信が本当はなくて、不安で押しつぶされそうになる。
テキストに、ぱたり、と水滴が落ちた。服の袖で、乱暴に目元を拭う。
(弱音は、はかない)
とにかく頑張るしかないのだ。
僕が、彼に心を開けるように。
本当の自分を、ちゃんと見せられるように。
胸を張って、好きだと言えるように。
(絶対に、大丈夫)
彼は待っていてくれる。
そう言い聞かせて、溢れる涙を拭って、テキストに向かうしかなかった。
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