初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第75話

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 綿貫の運転と共に、病院へと到着すると、僕は自分の目を疑った。
 入口を通ってすぐにある、待合用のソファーに見知った男がいたからだ。今日は、ダークグレーのサマースーツを着て、優雅に足を組んで座っていた。僕に気づくと、すぐに立ち上がって長い脚で、目の前までやってきた。

「ど、して…」
「早く仕事が片付いた。それに、最近の聖、調子が悪そうだったから」

 心配で来た、と、彼は微笑みながら、僕の手を取り、優しく握りしめた。その温かな体温も、愛情のこもった指先も、今の僕には、重く、冷たく感じられた。

(どうしよう…知られたくないのに…)

 けれど、ここまで来て彼を突き返す術がわからなくて、彼がいつも通りに受付を済ませて、血液などの検査体をとってもらい、山野井先生の診察室へと並んで入る。いつもの先生の笑顔に、いつも席。隣に彼が座って、僕の肩を抱いていた。大きな手のひらが、支えてくれているはずなのに、今は捕らえられている気分だった。

「九条さん、その後、薬の副作用はどうでしたか?」

 先生が体調をうかがうのと同時にそう質問した。彼が隣でかすかに身じろいだのがわかった。

「副作用…?」

 俯く僕と、首をかしげる彼とを見て、先生は何かを感じたらしく、一度彼に退席を求めた。彼は冷静に、先生の柔らかい口調の提案を受け入れて、静かに退席した。何と言葉にすれば良いのかわからずに、自分の腕を握りしめて固まったままでいた。
 しかし、先生は、そんな僕を見て、微笑みながら、いつもより優しい声色で体調を聞いた。

「母が、先生からいただいたお薬を飲んだら、多少はよくなりました…」

 素直にそう答えると、先生は笑みを深めて、よかったです、と答えた。

「今の段階だと、どのくらい副作用が出ていますか?」
「食事は、あまりとれません…何かを食べると、やはり吐き気があって、戻してしまうことがほとんどです…」

 ささくれだった指先をこすりながら、ありのままを答える。先生は電子カルテにメモを打ち込みながら、僕の話を聞いていく。
 投薬直後の副作用が非常に大きかったこと。吐き気止めをもらってからはそこまでではないこと。

「この副作用は、いつまで続くのでしょうか…?」

 きい、と椅子を回して先生が僕に向かい合った。ようやく僕も視線をあげて、先生と対面する。眼鏡の奥の黒い瞳が、まっすぐに僕を見つめている。

「今回の結果からみると、もう少し服用していただかないといけないです」

 全身から温度が引いていくようだった。
 まだ、あのつらい日々を過ごさないといけないのか…。

「数値が、よくない、ということでしょうか…」

 震える唇と問うと先生は首を横に振った。

「よくない、とは言いません。九条さんの身体は、ゆっくりとオメガ化しています。それを、もう少し、手助けしないといけません」

 オメガには近づいているのか。
 それがわかると、ようやく呼吸ができた心地がした。肩の力が抜けて、身体が強張っていたのがわかった。

「しかし、今の薬がつらいようでしたら、もう少し軽いものにしましょう」
「いやっ…」

 軽いものにしたら、きっとオメガ化は遅れてしまう。もっと時間が必要になる。それは避けたかった。

(一刻も早く、さくと番になりたい)

 けれど、今のつらい身体の状態をあと一か月、数か月続けるのかと思うと、首を横に振る勇気が僕にはなかった。言い淀んだ僕の様子を見て、先生が僕の手を包んだ。小柄な先生だけれど、僕の手を包み込む手はやっぱり男の人の手だった。それなのに、彼のものとは違って、柔らかくて、すごく温かった。
 包まれた手から視線をあげると先生は、微笑んで僕を見ていた。

「必ず九条さんはオメガになります。だから、出来るだけ、苦しいことが少ない選択にしましょう」

 大丈夫ですよ。優しい声にそう背中を押されて、僕は、ば、と涙が両目からあふれた。

「で、も…早く、オメガにならないと、さくが…さくが、僕から…」

 離れてしまう。
 言葉にすると、あまりにも深く自分の心に突き刺さった。

「これ以上、さくの、重荷には、なりたくない…」

(どうしても、離れたくない)

 もうダメだと思っていた。
 二度と、彼と一緒に過ごせることはないのだろうと思っていた。
 けれど、その糸がまた結ばれて、今、彼は僕の隣にいてくれている。
 次は、ない。
 彼ともう一度、離れてしまったら、彼は戻ってきてくれない。
 なぜなら彼を求める人は、大勢いるから。僕と違って。
 不完全なオメガの僕と、完全で完璧なアルファの彼が、もう一度結ばれる運命なんて、ありえない。
 こんなに愛せる人も、二度と現れない。
 だからこそ、迷惑にはなりたくない。嫌な思いをさせたくない。
 彼には、誰よりもしあわせになってほしいから。
 そのしあわせの隣に、自分がいられたら、そんな素晴らしい、夢みたいなことはないだろう。

「西園寺さんに、そう言われたのですか?」

 すり、と柔らかな手が、僕の骨が浮かんだ手の甲を撫でる。ほろ、と涙が零れて、息をついてから、小さく首を横に振った。

「なら、西園寺さんに、聞いてみましょう」
「それはできませんっ」

 顔をあげて、すぐに答えると、先生は不思議そうに眼を丸めていた。首をかしげて、なぜですか?と聞いた。
 そう言われると、なぜか答えられなかった。
 ただ、彼に嫌われたくない。
 はっきりと、そう言われてしまっては、僕にはどうしようもないからか。
 けれど、そうして言葉にされることを恐れて、僕たちは離れていく運命をたどっていったことを思い出す。
 嫌いだとか、別れようとか、そういう明確な言葉を受け止めきれる自信がなくて、傷つく勇気がなくて、本当の言葉を告げられずに、僕たちはすれ違ってきた。勇気を出して、彼に嫌われようと、思いを告げても彼は僕から離れなかった。むしろ、彼から会いに来てくれたのだ。
 僕が切ろうとした糸は、彼が必死に結び直して、つむいで、今、僕たちがここにいる。

「隣にいると、良くも悪くも、相手のことをわかった気になってしまいます」

 だから、人には言葉という力があるのです。

 先生の柔らかい声が、するすると身体に入って、心に刺さった。

(僕は、また、独りよがりになってしまっていたのだろうか…)






 山野井先生は、僕と彼を別々に呼んで、話をしようかと提案してくれたが、僕は自分の言葉で伝えないといけない気がして、一緒に話をすることに決めた。
 診察室に再入室してくる彼は、暗い面持ちで、僕も後ろめたさで目が泳いでしまう。
 なんと言葉にしたらいいのかを思慮していると、診察室の掛け時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。どんなに言葉を探しても、いいものが見つからなくて、からからの口でごくり、と唾を飲み落とした。
 沈黙を破ったのは、彼だった。

「聖の体調はどうでしょうか」

 声の主に視線をやると、まっすぐに山野井先生を見つめて尋ねていた。それに少し、ほ、と身体の緊張がやわらいだ。嫌なことを先回しにしているような罪悪感を抱えながら。

「数値はゆるやかですが、オメガへのバース変更が進んでいます」
「それよりも、健康面です」

 彼は食い気味に言葉を被せた。先生は、ちらり、と僕を見てから、背中を押すように微笑んだ。その柔らかい表情のまま、もう一度彼に向き合って話を始めた。

「体重が落ちてしまいましたね。しかし、それ以外は健康ですよ」
「健康…」

 先生は彼を刺激しないように言葉を選び、安心させようと努めてくれているのがわかった。だから、僕も勇気を出して、彼の袖を握りしめた。すぐに、彼は僕に顔を向けて、眉を下げて見つめてくる。

「あのね…実は…、先月から薬を強いものに変えたんだ…。それが、結構、副作用があって…」

 副作用、と彼は僕の言葉を復唱した。より眉間に皺を寄せた彼に、急いで言葉を尽くす。

「でも! 大丈夫! ちょっと食欲が落ちて、たまに戻しちゃったりしたくらいなんだ、先生が言った通り、健康なんだけどね」

 笑顔をつくって、彼が安心するようにすればするほど、彼の表情は強張っていく。冷たい汗がこめかみを、じりじりと伝っていくのが気持ち悪い。けれど、僕は、彼を安心させないといけない。

「本当に大丈夫なんだよ? 先生から、吐き気止めももらったし、ごはんも食べられてるんだよ?」

 ね、と身を乗り出して彼に訴え続ける。膝の上で握りこぶしを作っていた彼の骨ばった手に触れると、驚くほど冷たかった。

「聖…、やめよう」


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