初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第70話

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 ジジジ、と音がして、ベランダに立つ。空を見上げれば、この前まであった曇天は流れ去り、晴天が強い日差しを降り注いでいた。目を細めていると、すぐ脇にある木から、ジジ、と音がして、蝉が勢いよく鳴き始めた。風が吹くと、緑の匂いがする。すん、と鼻を鳴らすと、土や緑や、夏の匂いが心地よいはずなのに、む、と胸の奥で苛立ちがあって、口元を押さえて室内へ駆けこんだ。
 ベッドに腰掛けてうずくまる。眩暈がして、喉がしまって苦しくなる。脂汗が滲む中、落ち着け、と自分自身に言い聞かせて、ゆっくり大きく呼吸をするように努める。
 次第に、荒波が去って、ようやく息がつけた。額を袖で拭うとじっとりとしていた。水分を口に含んでから、テキストを開いたままの机を見てから、やっぱりベッドに横たわった。

 先週から、薬を強いものに変えた。
 前回の薬は、頭痛や倦怠感があるくらいだった。しかし、今回の薬は、今までは異なる薬であり、オメガホルモンの分泌を顕著にさせるものらしい。そのため、いつも下腹部がしくしくと痛むような違和感があり、眩暈や吐き気を感じることが増えた。もともと、夏の入りはいつもばて気味になるので苦手だった。それもあって、症状がひどく出ているのだろうと自分で判断していた。
 さらに、心当たりがあった。
 ブ、と携帯が振動した。重怠い腕でベッドヘットにあるそれを取って、メッセージアプリを開く。僕に連絡を寄越すのは、彼しかいない。彼からは写真が送られてきていた。アメリカらしい町並みとクリームがたっぷり乗ったコーヒーだった。画像を見てるだけで胸やけしそうで、落ち着いたむかむか感が戻りそうになる。しかし、すぐに彼からのメッセージが届く。

『どうやって飲めば良いのだろうか』

 甘いものが苦手な彼が、このクリームを避けてコーヒーを摂取するのに困っているらしい。その様子を想像しただけで、気分が軽やかになって、くすり、と一人で笑えた。

『我慢して飲むしかない!』

 と、かわいい動物の絵文字をつけて送る。さらに困っているだろう彼を想像して、くすくすと笑う。
 そうして、猛烈に会いたくなってしまう。
 先週、実家の仕事の兼ね合いで彼は渡米した。渡米直前にうちに会いに来て、何度もキスをした。まるで一生の別れだと言わんばかりに、彼はさみしがって、抱きすくめられて、何度も顔の角度を変えて、唇を吸い合った。僕よりも、彼の方がさみしがっているのではないかと思うほど、情熱的に愛を囁かれて、彼がうちを出る時には、膝が震えて、一人で立つのがやっとだった。
 本当は空港へ見送りも行きたかったけれど、彼がそれを頑なに嫌がった。ここ最近の体調不良を心配してのことだとわかっていながらも、それもやっぱり寂しかった。
 その後、僕は山野井先生のもとへ行き、薬の処方を受けた。説明は受けていたし、覚悟もしていたが、思った以上に悩ましい副作用だった。

(苦しいってことは、身体がちゃんと変わっている証拠…)

 大きく変わっているだろう下腹部に手をあてると、こめかみがどくん、と大きくうごめき、痛みが生まれる。口を押さえて、唾液を飲み込む。荒い鼻息を聞いていると、より不安になってくる。
 携帯が鳴って、彼からの返信が届く。

『次来る時は、聖にクリームを食べさせる』

 次は一緒にいってくれるのかな。
 彼と僕が、一緒にアメリカにいる。このクリームがうず高くそびえるコーヒーを一緒に飲む。手をつないで、この街並みを歩く。
 出来たら、なんて素敵なんだろう。頬が勝手にゆるむ。しかし、しばらく瞼を降ろしていると、妙に頭がさえてくる。

(なんで、こんなに想像ができないんだろう)

 彼とずっと一緒にいる。
 そう約束した。僕だって、もう彼と離れ離れになるなんて絶対に嫌だ。
 それなのに、彼と一緒にいる自分の未来が、想像しがたいことが多い。それは、彼が渡米する前からで、毎日足しげくここに通っていた時も、なぜか、一人になると漠然とそうしたことを冷静に考えてしまう。あれだけ、自分に本当の気持ちを伝えてくれる彼を、自分はまだ信用できていないのだろうか。そう思うと、じわり、と黒いもやのようなものが自分の心を染めていく感覚があって、急いで目をつむる。

「う…っ」

 寝返りをうつと吐き気がこみあげてきて、薄手の布団を被ってうずくまり、波が去ることを祈るしかない。

(会いたい…)

 彼に会って、名前を呼んでほしい。
 大丈夫か?って、頭を撫でてほしい。
 好きだよって、手を握ってほしい。
 あの、青い瞳に映っている自分は、好きでいられる。

 口の中が苦いような酸っぱいような、嫌な味がして、自然と涙が溢れた。目の前に置かれた携帯がまたメッセージの着信を知らせる。ポップアップで内容が見えた。

『今日こそ聖の声が聴きたい』

 そう書いてあった。
 昨日は、吐き気が強くて、電話口で弱音を吐いてしまう気がして出来なかった。一昨日は、トイレで吐いて、そのまま眠ってしまっていた。気づいたらいつでも電話してくれ、とメッセージが入っていたが、気づいた時には、アメリカが明け方の時間で、さすがに申し訳なくてやめてしまった。

(僕も、さくの声が聴きたい…)

 優しく、それでいてはっきりと深く、刻み込むように身体に沁みる彼の声が愛おしかった。
 でも、それを聴いたら、会いたいとわがままを言ってしまいそうだった。
 彼が、無理をして毎日ここに会いに来てくれているのはわかっていた。だから、無理しないでと伝えたこともある。そうすると、嫌なのか、とすごく悲しい顔をされてしまって、困ってしまった。彼が、自分のわがままで会いに来ているだけだ、と言うので、それに甘えることにしたのだ。僕だって、彼に会えることはすごくすごく嬉しいし、毎日会いたいし、本当にずっと隣にいたい。片時も離れたくない。
 しかし、それを我慢することが、僕ができる、彼への最大限の恩返しなのだと思う。無理して会いに来てもらっている。これ以上、彼の足枷になりたくなかった。前途有望な、我が国を代表する人物になるであろう彼の未来を、狭めたくなかった。
 その、彼の未来に、僕は、本当に隣に立っているのだろうか。
 誰かにそう言われたわけでも、彼がそういう態度を見せた訳でも全くない。ただ、これは、僕自身の問題なのだ。
 ず、と鼻をすすると、目の前のディスプレイが震え出す。電話の着信だった。もちろんそれは、アメリカにいる恋人から。
 今の涙声を聞かせるわけにはいかなくて、僕は、寝返りを打って、目を固くつむった。バイブレーションはしばらく鳴り続けたが、やがて、嘘のように、ふ、と一瞬で静まり返る。それは、まるで、熱した愛が、一瞬で冷めきってしまうようなほど、呆気ない静まりだった。
 ひや、と背中が冷えて、身体が震え出す。自分一人で抱きしめて、必死に身体の反応を慰める。

(早く、オメガになりたい)

 胃がしくしくと痛み、食道が熱い。唾液が増えてきて、痛む頭と重い身体を叱咤させて、トイレへと駆け込んだ。液体しか口の中からは出ない。久しく、固形物を食べていないように思えた。

「う、ぇ…っ、ぉえ…」

 内臓が痙攣しているかのようにざわめいて、痛い。苦しい。それなのに、口からは何も出ない。脂汗か、涙か。水面にぽたり、と落ちて、波を立てた。

(…早く、彼の番になりたい)

 口を拭う気力もなく、僕は壁に寄りかかった。

(早く…早く、彼を僕の番にしたい…)

 そんなことで、人の心は縛れないと自分が一番わかっているのに、どうしてもそう望んでしまう。
 アルファの彼を縛れる。僕が安心できる方法は、番契約なのだ。
 決してそんなことはないし、そう思っていては、また同じ間違いが起きてしまう。わかっている。
 けれど、こうして彼と離れているとき、不安でたまらない。番であれば、必ず僕のもとへ帰ってきてくれる。

「さく…」

 ぼろぼろと涙が零れて、呼吸が苦しい。

「さくぅ…、っ、さく…うっ」

 また吐き気がこみ上げて、便器に頭を突っ込む。何も出なくて、唾液と涙がぼた、と落ちていく。


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