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第69話
しおりを挟む土の匂いがする。テキストにやっていた視線を、開け放った窓に向けると、しと、と雨音がする。窓際に近づいて空を見れば、すっかり曇天に包まれて、ぐずついていた。もう、梅雨入りなのだ。
だからなのか、今日はやけに頭が重い。窓を閉めてから、ずくずくと痛む頭を、手首でこんこん、と叩いて、ベッドに腰掛けた。
先月から、薬を作用の強いものに変えたからだろう。
最初に処方された薬は、全く効果を感じないほど易しいものだった。次の薬は、ぽう、とすることが増えたかなあ、という程度だった。今回の薬は、さらにオメガ化を進めるものらしく、副作用も強く出てくるとは聞いていた。覚悟はしていたけれど、なかなかにしんどいのだなと思う。おまけに季節的なものも重なってしまったのかもしれない。
高校を卒業してから、自宅で学習する毎日だった。今年度の大学入試に合わせて、勉強を進めているところだ。足りないと思ったら、予備校に通えば良いと思い、できるところまでは自力でのんびりやろうと家にいる。
毎日、同じことの繰り返し。そろそろ飽きも感じてきている。しかし、その僕にとっての唯一の楽しみがある。
遠くでチャイムの音がした。重い頭を、のそり、と持ち上げて、立ち上がる。こめかみを押さえてから、鏡の前に立ち、シャツに皺がないか、前髪をはらって髪を撫でつける。よし、と口角をあげてから、ドアを開ける。階段を下りていくと、玄関の方から話し声が聞こえて、思わず足取りが軽くなる。
使用人と軽く話をしていた彼は、階段から降りてくる僕にすぐに気づいて、満面の笑みで僕の名を呼ぶ。
「聖」
そのバリトンの美声が、鼓膜を通ると、じわ、と耳朶が熱を持って、じりじりと身体が火照る。つい駆け足になって、彼のもとへ立ち並ぶ。自然と出された手のひらに、手のひらを重ねて、指を絡める。見上げると彼は、眦をだらりと下げて、僕の頬に軽く口づけを落した。甘く、優しい唇に、背筋が震えて、嬉しくて、僕も彼のこめかみにキスを送る。気の利く執事たちはさ、と奥へ控えて、いつものように茶の準備をしてくれているのだろう。
「今日は早いね」
ふふ、と何もおかしくないのに、笑ってしまう。彼が僕の肩を抱きながら、慣れたようにいつものドアを開けて、ソファへと並んで座る。
「休講になったから」
彼は、無事国内トップクラスの大学へと進学した。昼間は大学生として授業を受け、それが終わると実家の企業を手伝っている。二足の草鞋を履いて、せわしなく過ごしていた。その合間を縫って、必ず会いに来てくれるのだ。
制服を脱ぎ捨てて、大学生となった彼は、一段とあか抜けて、大人びて見えた。僕と同い年だとは思えないほどの風貌だった。体つきも顔つきもさらに清廉され、引き締まった感じがする。髪型はあの頃よりも、少し伸びたように思えた。するり、と指先で毛先を撫でると、嬉しそうに笑む。それが心地よくて髪が切れないと冗談交じりにこの前囁かれた。その髪束の間から、高校時代から開いているピアス穴にゴールドのリングが上品に光っている。
「聖におみやげ」
黒革のセカンドバックの横にあった紙袋を僕に差し出す。
「ありがとう…でも、毎回いいのに…」
彼は何かとお土産を持ってくる。
毎日会ってくれるだけで、僕は充分だと何度も伝えているが、彼は、俺のわがままだからもらってくれ、と強請ってくる。そういわれると、なんとも突き返せなくて受け取るしかなくなる。お土産が負担で会えなくなってしまうのであれば、無い方が良い。もっと気軽に会いに来てほしかった。
紙袋を覗くと、大振りのアジサイが二輪包まれていた。
「わあっ、きれい…」
花びらの先から一輪はブルー、もう一凛はピンク色から薄紫へとグラデーションかかったものだった。
きれいな花に、心踊らされて顔をあげると、彼は頬をほんのりと染めて微笑んでいた。
「もうアジサイが出回ってるの?」
「いや、今季は初めてだった。だから、聖に、一番にアジサイを見せたかったんだ」
手元にある大輪から顔をあげると、長い睫毛が影をつくっていた。その影には朱がさして、奥には潤んだ深い青がある。じ、と彼の瞳に映った自分を見つめる。去年の今頃は、こんな風に、彼が微笑みかけてくれることも、いちいち贈り物をもらえることも、瞳から何から全身で、好きだと言われることも想像できなかった。
きゅ、と喉奥がしぼられて、声が出せなかった。ただただ、嬉しくて、しあわせでうつむく。その時、つき、とこめかみが痛んで、息がつまってしまった。
「聖?」
その変化に敏感に彼は察知して、僕の頬を優しく撫でた。その長い指に誘われて顔をあげて笑顔をつくる。
「なんでもない…」
大丈夫と言うと、親指がそろそろと目の下をなぞった。
「顔色が悪い…薬、きついか?」
すぐに眉根を寄せて、心配そうに僕を覗き込みながら彼が囁く。小さく首を横に振って、大丈夫だと笑う。しかし、僕が笑えば笑うほど彼は苦しそうに顔に皺をつくるのだ。
「やっぱり…」
「今日はっ」
低気圧がきついだけだから。
彼が口を出しそうになるのを、遮るように声を張って、僕が先に言い切った。
少しでも、僕に薬の副作用が見えると、彼は投薬を止めようという。聖がつらいならやめよう、と。
その言葉が、優しさなのはわかっている。彼が、僕を大切に持ってくれているのだということもわかる。
だからこそ、やめたくなかった。
彼の手をとって、指先にキスをする。そのまま、その手で頬を包んでもらうように促すと、彼は大人しく僕の顔を両手ですっぽりと覆ってくれる。少し硬くて、男の人の手。アルファらしい、骨ばって、大きい、彼の手のひらに包まれると、身体の緊張がやわらぐ。ほ、と胸を撫でおろして、彼の手のひらに頬ずりをする。
ふんわりと優しくて、甘い彼の匂いが漂う。それを感じると、腰の奥が、じり、と熱を持つような気がした。無意識に、下唇を柔く噛んで湿らせて、彼を見上げる。重い睫毛を持ち上げると、すぐそこに彼がいて、吐息混じりに彼の名を囁く。
「聖…」
眉間に皺を寄せながら彼の顔が近づいて、僕の顔を影でいっぱいにする。
「ぁ…」
小さく声がもれると、唇が触れ合って、彼に吐息を飲まれてしまう。しっとりと、合わさるだけのそれなのに、ここ最近では、回数も増えてきたのに、どうしても心臓の高鳴りは鳴れなくて、たまらなく心地よい。浮遊感と高揚感が合わさって、僕の身体の中で色々なものが暴れまわっているような感覚になる。
もっと、何度だって、してほしい…。
浅ましくもそう願ってしまう自分が恥ずかしくて、それ以上は出来ない。彼がそっと離れていくと、唇を緩めて微笑みかけてくる。さらり、と前髪を撫でられて、心地よさに瞼が下がる。
「聖…甘い匂いがする…」
「んぅ…」
髪を柔らかく撫でる指先が、いたずらのように、耳朶をなぞり、揉むようにつまんだ。ぴくん、と大げさに肩が揺れてしまって、おまけに変な声が鼻から抜けて零れてしまう。つむってしまった目を、そろり、と開けると、眦を染めて、僕を見下ろす彼がいた。
「オメガの、においになってる…?」
さらりと柔らかな、彼のサマーニットを撫でながら尋ねる。その声が思ったよりも、湿度をはらんでいて、妙に心臓が騒ぐ。僕の言葉にやや目を見開いた彼は、すぐに柔らかい笑みに変えて、首を横に振った。
「わからない」
なんだ、と残念に思ってしまう。薬がちゃんと数値として表れているのは山野井先生から聞いている。しかし、それはバース検査を行ってもオメガとは判定される数値ではないことはわかっていた。けれど、薬を飲む度に、明日の自分の身体は変わっているのではないかと期待してしまうのだ。
肩を落としていると、彼が顔を寄せて、こめかみに唇をかすめた。すん、と耳元で息を吸う音がする。彼の高い鼻梁が、僕の地肌をくすぐるような感覚がした。
「聖の匂いが濃くなってる」
そう囁くと、僕を長い腕で抱き寄せる。彼の高い体温が心地よい。サマーニットは頬を寄せても心地が良く、彼の甘く温かい匂いしかしなくて、身体が弛緩する。彼は彼で、嬉しい、と一人つぶやいて、僕のつむじに何度もキスをした。
こんこん、と控え目にノック音がして、ゆるやかに僕らは身体を離すと、執事が静かにティーセットを持って入室した。
彼は僕の手を、大切なもののように包んで離さない。
「いい匂いだ」
「先日、咲弥様がお持ちくださった茶葉でございます」
「煎れる人がうまいからだ」
ありがとう、と執事にもにこりと笑顔を見せて、軽やかに二、三言話をする。こうやって、僕の大切な人ともちゃんと目を見て会話をしてくれる彼が好きだった。執事を蔑ろにする人は、階級が上であればあるほど多い。だから、彼と僕との関係は、家中の者から素直にお祝いされた。それがくすぐったいのだが、嬉しくて胸が張れた。
紅茶は豊かな茶葉の匂いのあとに、爽やかなベリーの後味がした。丁寧に煎れられて、匂いが高く立つ。それだけで、頭痛が収まるようだった。
二人で紅茶を飲みながら、彼の大学での話やなんとない話をとりとめなくする。しばらくすると彼は時計を見て立ち上がってしまう。名残惜しくも玄関まで見送って、手を取り合って、指を撫で合う。
「聖…この前の話、来週に決まった」
どき、と指先が固まった。顔をあげると、彼は眉を下げて僕を見ていた。
先週、彼から、海外へ仕事の関係でひと月あまり行かないといけないと聞いた。すごくショックだったけれど、彼があまりにも申し訳なさそうに伝えてきたので、寂しい、嫌だ、なんて言えるわけもなくうなずいた。
だから、なんとか口角をあげるしかない。
「うん、頑張ってね」
お土産何がいいかな、なんて軽口も言えた自分に、胸を撫でおろす。
正直、ずっと一緒にいたい。けれど、忙しい合間を彼がなんとか会いに来てくれているのもわかっていた。だから、これ以上の負担はかけられない。一度、彼の家の方に行こうかと提案したが、はぐらかされた。おそらく、僕が行くのは都合がよくないのだろう。それも胸の中にずっと引っかかっていることの一つだった。ただ、それは、国内を代表する大企業を運営する一族であることも、アルファの一族であることも、僕には想像できない難しさがあるだろうことがわかっていたから、飲み込むしかなかった。
「ひと月も聖に会えないなんて耐えられるだろうか…」
僕よりも肩を落とした彼が、やっぱり行くのを止めたいと言い出しそうだった。背伸びをして、彼の頭を撫でる。硬い髪の毛は整髪料でスタイリングしてあるので、出来るだけくずさないように撫でて、彼の頬をなぞった。その手を降ろす前に、彼が頬を擦り寄せた。
「だから、八月になったら、一緒に出かけよう」
彼からのお誘いに、ぱちくりと瞬きをして、行く!と前のめりになって答えた。
その勢いに恥ずかしさを感じ始める前に、彼がくすりと嬉しそうに笑ってくれた。彼の知り合いの温泉宿と、彼の持つ別荘と、ホテルも行こうと提案されて全部にうなずく。
「約束、な」
彼が僕の手を掬って、指先にしっとりと口づけをした。
彼と一緒にいる、それだけが僕の人生の中の楽しみのように思えてきた。
「僕も」
彼の空いている手を掬って、同じように唇を落す。
「約束」
お互い見つめ合って、自然と笑い合えた。
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