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第64話
しおりを挟む二人で診察室を出てから、何やら彼の放つ雰囲気がおかしいことは感じていた。それでも、気づかないふりをして、明るく話しかけてみたりするものの、彼は上の空の返事で、やはり僕が何か余計なことをしてしまったのかと思いを巡らす。
綿貫の車に乗り込んだあとも、彼は一人、何かを思い悩むように険しい顔つきをしていた。何度か話しかけようと息を吸い込むが、その表情に、どう言葉を選べば良いかわからずに、僕も口をつぐんで俯いてしまう。膝元にある細い指が、ぎゅ、と互いを握りしめ合う。
(やっぱり、迷惑、だったのかな…)
勝手に、僕がオメガになることを決めたから。
それとも、子どもがいなかったことだろうか。
でも、それは、結果を聞いた彼が、笑顔で僕を励ますような言葉をくれた。決して妊娠していなかったことが原因ではないだろうと予測される。
やはり、僕がオメガになろうとしていることなのだろう。
(僕が、オメガになったら…)
彼が嫌がる理由は、彼を僕が拘束してしまうからだろうか。
僕がオメガになったら、彼はきっと番にしてくれるだろう。そうなった時に、番として、責任感強い彼のことだから、一生面倒は見てくれるだろう。彼の番が、僕一人かは限らないが。オメガの僕にとっては、番は一生、彼一人だけだ。
僕は、それで良いと思った。
ずっと、ずっとずっと、望んでいたことだから。
僕にとって、一生傍にいたいと心から願い、恋焦がれたのは、彼だけだから。
彼にも、僕だけだと思ってもらえたら、すごく嬉しい。
でも、魅力多い彼を、僕一人のオメガが独り占めできるはずがない。
(昨日、思いを通じ合わせたばかりだというのに…)
空調は心地よく温かいはずなのに、指先が白く冷えていた。それを擦り合わせるように、握りしめる。
(もう、こんなに不安になっている…)
今後、僕たちは、本当にうまくやっていけるのだろうか。
本当に、僕が、彼の番になってしまっていいのだろうか。
(…今度も、僕一人で、舞い上がってただけなのかな…)
彼と思い合っていると信じていたあの瞬間ごとを思い出す。
昨日、彼から、その時々、僕と同じ思いでいてくれたことを聞いた。だけれど、本当にそうなのだろうかと信じ切れない、卑しい自分もゼロではなかった。
信じたい。一緒にいたい。
だけれど、それだけ不安にもなる。
それだけ、僕は、長い間、彼の隣にいる他の人間を多く見すぎていたから。
隣にいる見目麗しいパートナーと思われる人物たちを見て、お似合いだと感じてしまう瞬間が多々あったから。その度に、自分なんかが隣に立てる相手ではないのだといつもいつも痛感させられてきたのだ。
喉の奥が苦しくなってきて、視界が揺らいでくる。その雫が零れないように、下唇を噛み締めた。
「止めてくれ」
ふと、隣からバリトンが響き、綿貫が指示通りに、路傍に車を寄せる。静かに車は止まり、カチカチ、とウインカーの音を鳴らした。
視界にあった、僕の白い手に、横から伸びてきた節張った手が重なった。腕をたどって視線を上げると、彼が僕を見つめていた。そして、苦し気に微笑んで、優しく囁いた。
「少し歩こう」
国立の大きな公園の前で車は止まっていた。彼がドアを開き、僕をエスコートして降車させた。綿貫と一つ二つ言葉を交わしてから、僕の手を握り、微笑み、寒風が枝を揺らす、人少ない公園へと入った。
公園は、冬空と相まって、人はほぼおらず、寂し気だった。それでも、中央にある立派な噴水は水を流していた。ひゅ、と冷たい外気が肌を撫でて、震えると、彼が熱い手を引いて、温かいコートのポケットへと誘い込む。ぐ、と肩が触れるほどの至近距離になって、顔をあげると、彼はゆるゆると頬を緩ませて僕に微笑みかけていた。その幸せそうな表情が、先ほどまでの空気と全く異なっていて、僕はどう反応して良いのかわからなくて、また目線を地面に戻してしまった。
「覚えてるか?」
彼が柔らかい声を出す。僕の歩幅に合わせて、長い脚がゆっくりと進む。
彼の言葉をじっくりと考えるが、辺りに覚えはなかった。大きな国立公園の夕暮れ。冬空で曇っている。風もあり、葉を落した木々はわかりやすく寒々しかった。ひゅう、と風が髪をさらうように吹くとあまりの冷たさに、肩がすぼみ、温かな彼に無意識のうちに擦り寄ってしまう。は、と気づいて距離をとろうとするが、彼が嬉しそうに笑って僕を見ていた。
「昔、ここでピクニックに来たことがあったろう」
そう言われて、僕は頭を巡らす。幼い頃に何度か来た事があったのはなんとなく記憶にあるが、それが彼とだったのかは、今、言われればそうな気もする。
「あの時は、五月頃でもっと温かかったが」
ほら、あそこ。と彼が指差す方を見ると、大きな木が芝の中心部に立っていた。
「あの木は、もう葉桜だったころだ」
あれは桜の木なのだと言われて知る。彼との思い出はたくさんあって、一つひとつ大切に覚えている自負があったが、はっきりと思い出せない。もしかしたら、ここに来たことがあるかもしれない程度にしか思えなかった。
本当に、僕との思い出なのだろうか。
そう疑ってしまうほど、僕に記憶がなかった。しかし、桜の木を見つめてから、僕の視線に気づいて、振り向く彼は、頬を染めて笑う。本当に嬉しそうで、それが僕との思い出を振り返っている顔なのだと思うと、胸の奥がぐう、と鈍く痛んだ。
「桜の木の下で、一緒に本を読んだ。それなのに聖が寝てしまって…。でも、葉桜の木漏れ日のもとで眠りにつく聖が、愛おしくて、ずっとその寝顔を見ていた」
ざり、と足でにじる音がして、彼が僕に向き直る。繋いだ手は相変わらず温かい。空いていた手で、そっ、と木枯らしに乱れた前髪を、するすると長い指が耳元へと流していった。耳朶にかすかに彼の指先が触れて、背筋がうずいてしまう。
「…あの時よりも、俺は聖のことが好きだ」
形の良い桃色の唇がはっきりと動き、僕に言葉を届けた。眦はほんのりと色づき、その中にある深い青色の瞳は、一心に僕を見つめていた。つやり、と光るそれは、宝石のようだった。
「僕…は…、そのシーン、思い出せない…」
その宝石から反らすことはできないまま、小さく首を横に振った。彼は眉をさげて、ひそやかにくすり、と息をついた。そして、前髪を流した指先が、ゆっくりと、僕の頬を撫でる。
「俺は覚えている。聖と過ごした時間は全部。聖のことなら、なんだって覚えてる」
ふわ、と風に乗って、甘やかな蜜のような香りが鼻腔をくすぐる。
(僕の好きな匂い)
まっすぐに僕を見つめ、愛を謳う、誰よりも大好きな人の匂い。
きゅう、と喉奥がしまり、奥歯を噛み締める。思わず身体に力が入り、指先で彼の硬い手を握りこむ。息を吸えば、愛おしい匂いが身体に入り、溶け込んだいく。じわり、と視界がゆがんでいく。
「…僕、迷惑だった…?」
ほろり、と涙が頬をすべると同時に、言葉が溢れた。彼は、それを、じ、と待ってくれている。
「勝手に、オメガになるって決めて…、嫌だった?」
「嫌、ではない」
コートのポケットの中で、たくましい親指が僕の指を慰めるように撫でる。
しかし、その歯切れの悪い言葉に、僕の感情は強く揺さぶられたままだった。
「じゃあ…なんで…?」
よろ、と足元が傾いて、後ろにさがる。彼の手がコート内で強く握りしめてきて、逃がさないとでも言うかのように、半歩詰めてくる。彼は前のめりになって、口を開けては、何かを考えて、口を閉じる。そして、また意を決したかのように口を開くが、閉じるを繰り返す。
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