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第59話
しおりを挟む「…本気で、言ってるのか?」
睫毛が、雫を吸って重くなっていたが、それをなんとか持ち上げると、すぐ目の前に、眉を寄せて困惑の表情の彼がいた。だんだんとその表情は、今にも泣きそうに歪んでいき、じりつく心のように、彼は僕の座るソファーの手すりで拳を握った。
「聖が、何も持っていないと、本当に思ってるのか…?」
「そうだよ…だから、さくだって、僕じゃなくて、いろんなオメガと…夢木と付き合ってたんでしょ?」
迫るように近づく彼から逃げるように、僕は背もたれに身体を預けた。自嘲の小さな吐息をついた瞬間に、ゆっくりと大粒の涙が、ぼろり、と頬をなぞって、手のひらで急いで乱暴に拭った。
「付き合ってなんかいない!」
「…じゃあ、なおのこと、最低だね」
身体だけの関係なんて。
そう続けると、僕は目線を落したまま笑った。自分が哀れで。唇を噛み締めるのに、涙は、余計溢れて止まらなくなってしまった。
「…でも僕は…、それでも…羨ましかった…」
あのオメガたちが、羨ましかった。
さくの隣で、堂々と過ごせる、愛を囁ける彼らが。
さくから愛をもらえなくても、触れてもらえる彼らが。
たった一夜でも、さくの瞳の中に映れる彼らが。
「何度だって、心の中で呼んだよ…さく、僕はここだよって…でも、さくは、僕のことなんか、存在しないものみたいに…」
ただ、無視した。
名前も知らないオメガたちは、みんな可愛かった。美しかった。世情には疎いけど、どこかの有名なご子息だっていうことは噂で聞いたことがあった。
だから、僕は相手にされないんだって、見せつけられてるみたいだった。
「でも、それは当たり前なんだ…だって、僕は、何も、持ってないから…」
守ってあげたくなるような可憐さも、素直に甘える可愛さも、当たり前のように愛される笑顔も。
僕は、何も持ってない。
昔から、僕は、さくの足を引っ張って、迷惑をかけるだけだったから。
おまけに、オメガでもなかった。
「今は、オメガになれるって聞いてるよ…でも、僕は、もう…違うアルファの子どもを、妊娠しているから…」
下腹部を、そっと撫でる。意識すると、その奥が、ずくん、と何か疼くような感覚がある。きっと、子種が生育している主張なのだろうと最近では思っていた。
「ただでさえ、何にも持ってない僕なのに、さくじゃない人の子どもを妊娠してるんだよ?」
そんなオメガの成り損ないの何がいいの?
小さく笑って、顔を上げると、僕は驚いた。彼が、まっすぐに僕を見つめながら、泣いていた。音もなく、ただ涙していた。目が合うと、彼は、後ろに下がって、もう一度頭を床にこすりつけた。
「申し訳ない」
どういった意味の言葉なのかわからなかった。少し考えて、ああ、やっぱり願い下げたいという意味の謝罪かと思い、今度こそ終わりなのだと思う。
それを望んでいたくせに、どうしてこんなにも、心をえぐられたように傷ついているのだろう。
当たり前じゃないか。
彼のように、容姿も能力も、財力も地位も、全てを持った人が、僕のように何も持たない、妊婦を本気で好きになるわけないじゃないか。
そんな物好き、いるはずがない。
ようやく、諦めてくれるのか。
よかった。よかったはず。
それなのに、どうして涙が出るのだろう。
苦しくて、嗚咽を噛み殺さないといけないのだろう。
「…聖と会えなくなって…、ようやく、会えると思ったんだ」
彼はそのままの姿勢で、ぽつりと話始めた。もういい、やめて。そう言いたかったけれど、嗚咽を堪えるので精いっぱいで、止めることが出来なかった。
本当は、彼からの弁明を望んでいたのかもしれない。手の甲で唇を押さえて、震える吐息を必死に飲み込んだ。
「小学校の卒業式…きっと、さすがにその日には、聖だって登校してくれると思って、待ち望んでいたんだ」
だけど、聖は現れなかった。
もう、俺は、聖に謝ることも、気持ちを伝えることも、何も出来ないのかと絶望した。それでも、諦めきれなくて、持てるものすべてを使って、聖の消息を辿った。急いで、転校手続きもして、うるさい大人も何とか説き伏せて、同じ学校に入学することになった。
「あの日…演台から、聖を見つけることは、簡単だった…」
そうだったなんて、一つも知らなかった。
なぜかわからずに、彼が同じ学校にいることに、喜びと恐怖を抱いた。彼から逃げたくてここに来たのに。なぜか、演台で彼が堂々とスピーチをしていて、驚いた。でも、また同じ空間にいられることが嬉しくて、身体が熱くなったのを覚えている。
あの時、あの場所には、何千もの人がいた。僕が、ステージに立つ彼を見つけるのと、人込みの中にいる僕を彼が見つけるのとでは、訳が違う。それでも、彼は、僕を見つけてくれたらしかった。
「急いで、会いに行った…謝りたくて…」
理由を聞きたくて…、思いを伝えたくて…。とにかく、聖と話がしたかった。
「だが、聖を見つけた時…聖は、俺から逃げたんだ…」
そう言われると、あの入学式の日。帰り際に、遠くに彼らしき影を見つけた瞬間があった。でも、それは遠くて、本当に彼かはわからなかった。もし、彼だとしたら、何を話せばいいのか、何を言われるのかわからなくて、怖くて、走って帰った記憶があった。
「…もう、終わったと思った…聖に嫌われた…嫌がられた…もう、ダメなんだと…」
そこから、何もかもどうでもよくなった…。
誘われたから寝た。別に、誰でも良かった。
「ただ、どうしても、聖の面影を追っていた…何度否定しても、俺の中から聖を消すことはできなかった…」
そういう相手が何人目かになった時、たまたま聖と廊下ですれ違った。
その時、聖が俺を見て、傷ついていたのがわかったんだ…。
「その時、俺は…」
嬉しかった…。
床に伏せながら、拳を握りしめて、絞り出すように彼はそうつぶやいた。
何度も見た。彼が、その日ごとに違うオメガに身体を擦り寄ることを許していた。その度に、傷ついて、息ができなくて、唇を噛んだ。思いがけない彼の一言に、目を見開いた僕の眦が、ぽろりと一粒、涙が零れ落ちた。
「少しでも、聖の意識の中に、俺が入れたことが…嬉しかった…。自分が歪んでいることも、バカなのも、最低なのもわかってる。それでも俺は…」
ごん、と床に額をぶつけて彼は、すまなかった、と囁いた。
「同じやつを二度抱いたことはない。一ミリも感情はそこにない。ただ、俺は、聖の意識に入るために男を抱いた」
それだけだ…。
それだけ。僕の意識を誘うためにした。それだけ。
そう言われても、簡単に心の整理が出来るほど、今の僕には心の余裕も、彼への信頼もなかった。信じたい。でも、信じていいのか、わからない。何度心の中で自問自答しても、答えてくれる人はいない。ずっと、苦しいままだった。
「なんで…」
かすれた声が身体から零れた。その声に誘われるように、額を赤くした彼が顔を上げる。
「なんで…あいつを、抱いたの…?」
静かに、涙がはらはらと無数に頬を転がり落ちていく。まっすぐに彼を見下ろす。彼も、顔を上げて僕を一心に見つめていた。
「あいつだけは…あいつだけは…、抱いてほしくなかった…」
彼を、信じていいんだ。
そう思って、部屋についていったのに。
あの日。彼の自室には、明らかに事後の夢木美久がいた。そして、彼が裸で寝室で寝ていたのだ。気持ちよさそうに。
名前の知らないオメガたちにたくさん心痛めた。だけど、夢木だけは、訳が違う。夢木だけは、僕をあんなにも苦しめたあいつだけは、身体を許してほしくなかった。
「聖…俺は、夢木を抱いてない」
視線は僕のままに、首だけ横に振って、彼は否定した。その言葉に、瞠目して、思わず立ち上がってしまった。
「今更、嘘なんかつかないでよ…っ!」
今までの話は、多分、本当だと思う。彼が真摯に僕と向き合って、話してくれた。信じたいと思う。
だけど、これだけは。
夢木との関係だけは、嘘をついてほしくなかった。
「嘘じゃない」
それでも、彼は、眉を寄せ、真剣な眼で僕に訴える。それが、より僕を苦しめる。
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