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第58話
しおりを挟む夢木美久。
その名前がいきなり出てきて、身体がぴしりと固まり、指先から一気に体温が抜け落ちていくような感覚に陥る。
「あいつは周囲から一目置かれていたし、能力もそこそこあった。コネクションもあって、利用するしかなかった」
俺が、聖の隣にいるために。
強い声色に視線をあげると、まっすぐに僕を見つめる意思を持った瞳があった。
(本当なんだ…)
この瞳の色は、本当のことを言っている証拠だと思う。強い眼差しに僕は息を飲んだ。
「俺にとってのヤツは、ただそれだけの存在だ。利用できるもの。それだけしかなかった…」
だから外野がいくら騒いでもデマが流れても、聖が俺だけを見ていれば良かった。俺にはそれだけが重要事項で、あとはどうでもいいことだった。
聖に会いたかった。それでも、聖が過ごしやすい学校になるように、と思ってひたすらに働いた。聖が頑張れと言ってくれて、会長に就任した時に、褒めてくれた。それだけで頑張れた。
ただ、俺の中の不安は、なくなることはなくて、むしろ、どんどん美しくなる聖に焦燥と不安の方が強かった。聖が学校に来なくて、会える時間も見かける時間もなくなって、自分が壊れていくような感覚があった。
あの日。どうしても、聖に会いたくて…。
体調が悪いってわかっていたから、すぐ帰るつもりだった。
「久しぶりに会う聖は、前よりもずっときれいになっていて…」
本能的にそう感じていると、不安が欲望に変わった。
聖を、俺のものにしたい。俺のものにしなくてはならない。他のアルファに捕られたくない。
こんな美しくて、儚くて、誰もが狂わす色香を持っている存在はこの世の中にいない。
他の誰かに捕られる前に、俺のものにしたかった。ずっと俺の傍にいるように縛り付けたかった。
「気が付くと、目の前には、傷まみれの聖がいて…」
彼は顔を覆い、抱きしめるようにうずくまった。
「自分が怖くなった…何よりも大切にしたい聖を、神聖な聖を、俺が汚した…傷つけた…」
自己制御できないほどに持て余した感情も、自分自身の凶暴性もすべてが恐ろしかった。
だから、聖がベータで、お前は騙されていたんだと色んな大人に言われて…
「俺は、すべてを聖のせいにしようとしたんだ…」
喉を絞った、苦しいかすれた声で彼はうずくまりながらそうつぶやいた。それでも、僕は静かに彼の言葉を待った。本当は、指先が震えていて、今にも涙が出そうだった。
あの時。その瞬間。
彼が、そんな不安を抱えていたことを知らなかった。そして、その苦しみに気づいてあげられなかった。
「そこから、すべてがどうでもよくなった…」
聖がベータだと分かった日。聖の家からは、婚約を辞退する連絡があった。俺は頑なに断ったのに、母親によって気づけばそうされていて、次の日には違うオメガを紹介すると言われた。それを聖が望んでいるのだとも言われて、俺は何も信じられらくなってしまった。
絶対に違うとわかっていた。だから確かめたかった。何度も聖に会おうとした。でも、家の者は母親の命令によって動いてくれなくて、自力で聖の家に行っても、門前払いされた。
だから、ようやく会えたと思った…。児童会の解散式でようやく、聖で話ができると思った…。
「あの夜…聖が、他のアルファに声をかけられていて…俺が一番、聖と話したいのに…っ!」
項垂れながらも姿勢を直した彼は、固く握った拳を膝に数回叩きつけた。は、と彼はまばたきをすると、バツが悪そうに視線を床に這わせた。
「前から聖のことを気にかけているアルファだからこそ、苛立った…今考えれば、聖はただ絡まれているだけだったろうに…」
あの時の俺は、あまりにも聖に対して過敏だった。
俺は、もういらないのかもしれない。
次のアルファ候補を見つけているのかもしれない。
そう思うと、外では出来るだけ聖に目がいかないように、関わるのを避けていたが、我慢できなかった。俺ではないアルファと会話する聖。俺は、聖と会えなくて…苦しくてたまらなかったのに…。素直に、会いたかったと言えば良かった。見舞いに行けなくてすまないと言えば良かった。
それなのに、目の前に聖がいると、全身がざわめいて落ち着いて考えることが出来なかった。
久しぶりに会う聖は、また一段と美しくなっていて、さらに焦燥させられた。
「だから、どうしても、聖の気持ちを知りたかった。言葉にしてほしかった…」
そこで夢木の話を持ち出した。
「…聖は、俺に…夢木と付き合えと言った…」
よく覚えている。
本当は嫌だった。そんなこと言いたくなかった。
なんて残酷な話をするのだと、彼を責めたかった。でも、そんなこと僕に言う権利はなかった。
だって、彼にとって僕は、足枷でしかなかったから。
思わず俯いて、涙がぽたり、と膝上で組んでいた手の甲に落ちた。
「俺は…俺には…聖しかいないのに…」
言葉を絞り出す彼も目元を覆っていた。声も震えていて、僕たちは、同じだったんだと、なんとなしに感じ得た。
「裏切られた…嘘はつかないという約束も、俺と一緒にいるという約束も…もう、俺はいらないのだと宣告された…それで頭がいっぱいで、今にもいなくなってしまいたかった…」
聖の気持ちも考えないで…。
ぽつり、とつぶやかれたその言葉に顔を上げると、まっすぐに彼が僕を見つめていた。
「あとから聞いた。聖が、どんな目にあっていたか…」
どきり、と心臓が嫌に大きく跳ねた。知られてしまったのだろうか。ずっと、彼だけには知られたくなかった。僕の、嫌な過去。
「俺は、聖が過ごしやすい学園にするために二年間、我慢して尽くしてきたのに…聖は、その間、ずっとつらい思いをしていたことに、いなくなってから知った…」
俺の力不足だった。
そういって、彼は背筋を正して、もう一度、両手を床につけて、頭を下げた。
「さ、さくのせいじゃないから…」
あれは、僕が、空気の読めない、自己中心的なやつだったせいだから。
周りからの冷たい空気、嘲笑、無くなる物…。すべてが今にも簡単に思い出されて、背筋がひや、と震えた。
「違う。俺のせいだ。俺の…」
「僕が、…僕が、さくに迷惑をかけていたから…」
彼が誠実に本当の話をしてくれていることが伝わってきた。それに対して僕だけが話さないのはいけないと思った。自分を責めないでほしいと思ったから。
「迷惑…?」
彼は眉を寄せて、怪訝そうに顔を上げて僕を見上げた。
「僕が…僕が、ずっと一緒にいたら、さくの将来が…」
夕影が滲む、渡り廊下で、天使のような少年にたたきつけられた言葉。それが、ずっと、僕の心に突き刺さって抜けない棘となっていた。
「そんなわけないだろう!」
遠く、あの日を思い出すように目を細めていたら、いきなり強い力で肩を掴まれて、驚きのあまり身体が固まる。目の前には彼が眉を吊り上げて、深い青が寂しそうに揺らいでいた。
「聖のいない未来に何の価値もない!」
俺を信じてくれと青い瞳が、強く僕を射抜く。
「わ、悪い…」
硬直して何も発さない僕に気づいて、彼の大きな手のひらは僕の肩から離れて、力なくもとの姿勢に戻っていた。
「聖は…そう、思ってくれてたんだな…」
彼は、精いっぱいに笑みを貼り付けて、僕のせいではないと話をしようとしてくれた。
しかし、それだ、と僕は思ってしまった。
そうやって、彼の将来の選択肢を、僕のせいで減らさせてしまっている。
今だって、本当は、将来のためにコネクションをひとつでも広げるべき時なのに、無理をしてここにいる。
これが、彼の迷惑となっているのだ。
「僕は…」
ぽつり、と言葉が零れた。僕のつぶやきを、彼はまっすぐに僕を見上げて、静かに待ってくれている。だから、勇気を出して、伝えないといけない。
「僕は、さくのすべてを、受け止める…自信が、ない…」
何よりも、自分を優先してほしい。だけど、それだけの代償を彼が背負うことを僕は許せない。
彼とずっと一緒にいたい。だけど、それによって起こりうる弊害を、彼だけに戦わせることを、僕自身が許せないのだ。
「僕には…何も、ない…から…」
夢木美久のように、隣で児童会を取りまとめるような能力も、彼のためになるようなコネクションも、彼の隣に立つにふさわしい美貌も、何も持ち合わせていないのだ。
だから、僕にとって、夢木美久という存在は、この世で最も嫌悪している存在。そして、憧れの存在だった。
誰もが、彼の隣に立つ夢木をふわしいと称した。夢木も、その自信で満ち溢れていた。だから、僕も、お似合いだと認めざるを得なかった。彼に、勧めることしか出来なかった。僕は、何もないから。彼にプラスになるようなものを、何も、持っていなかったから。
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