初恋と花蜜マゼンダ

麻田

文字の大きさ
上 下
61 / 127

第58話

しおりを挟む




 夢木美久。
 その名前がいきなり出てきて、身体がぴしりと固まり、指先から一気に体温が抜け落ちていくような感覚に陥る。

「あいつは周囲から一目置かれていたし、能力もそこそこあった。コネクションもあって、利用するしかなかった」

 俺が、聖の隣にいるために。

 強い声色に視線をあげると、まっすぐに僕を見つめる意思を持った瞳があった。

(本当なんだ…)

 この瞳の色は、本当のことを言っている証拠だと思う。強い眼差しに僕は息を飲んだ。

「俺にとってのヤツは、ただそれだけの存在だ。利用できるもの。それだけしかなかった…」

 だから外野がいくら騒いでもデマが流れても、聖が俺だけを見ていれば良かった。俺にはそれだけが重要事項で、あとはどうでもいいことだった。
 聖に会いたかった。それでも、聖が過ごしやすい学校になるように、と思ってひたすらに働いた。聖が頑張れと言ってくれて、会長に就任した時に、褒めてくれた。それだけで頑張れた。
 ただ、俺の中の不安は、なくなることはなくて、むしろ、どんどん美しくなる聖に焦燥と不安の方が強かった。聖が学校に来なくて、会える時間も見かける時間もなくなって、自分が壊れていくような感覚があった。
 あの日。どうしても、聖に会いたくて…。
 体調が悪いってわかっていたから、すぐ帰るつもりだった。

「久しぶりに会う聖は、前よりもずっときれいになっていて…」

 本能的にそう感じていると、不安が欲望に変わった。
 聖を、俺のものにしたい。俺のものにしなくてはならない。他のアルファに捕られたくない。
 こんな美しくて、儚くて、誰もが狂わす色香を持っている存在はこの世の中にいない。
 他の誰かに捕られる前に、俺のものにしたかった。ずっと俺の傍にいるように縛り付けたかった。

「気が付くと、目の前には、傷まみれの聖がいて…」

 彼は顔を覆い、抱きしめるようにうずくまった。

「自分が怖くなった…何よりも大切にしたい聖を、神聖な聖を、俺が汚した…傷つけた…」

 自己制御できないほどに持て余した感情も、自分自身の凶暴性もすべてが恐ろしかった。
 だから、聖がベータで、お前は騙されていたんだと色んな大人に言われて…

「俺は、すべてを聖のせいにしようとしたんだ…」

 喉を絞った、苦しいかすれた声で彼はうずくまりながらそうつぶやいた。それでも、僕は静かに彼の言葉を待った。本当は、指先が震えていて、今にも涙が出そうだった。
 あの時。その瞬間。
 彼が、そんな不安を抱えていたことを知らなかった。そして、その苦しみに気づいてあげられなかった。

「そこから、すべてがどうでもよくなった…」

 聖がベータだと分かった日。聖の家からは、婚約を辞退する連絡があった。俺は頑なに断ったのに、母親によって気づけばそうされていて、次の日には違うオメガを紹介すると言われた。それを聖が望んでいるのだとも言われて、俺は何も信じられらくなってしまった。
 絶対に違うとわかっていた。だから確かめたかった。何度も聖に会おうとした。でも、家の者は母親の命令によって動いてくれなくて、自力で聖の家に行っても、門前払いされた。
 だから、ようやく会えたと思った…。児童会の解散式でようやく、聖で話ができると思った…。

「あの夜…聖が、他のアルファに声をかけられていて…俺が一番、聖と話したいのに…っ!」

 項垂れながらも姿勢を直した彼は、固く握った拳を膝に数回叩きつけた。は、と彼はまばたきをすると、バツが悪そうに視線を床に這わせた。

「前から聖のことを気にかけているアルファだからこそ、苛立った…今考えれば、聖はただ絡まれているだけだったろうに…」

 あの時の俺は、あまりにも聖に対して過敏だった。
 俺は、もういらないのかもしれない。
 次のアルファ候補を見つけているのかもしれない。
 そう思うと、外では出来るだけ聖に目がいかないように、関わるのを避けていたが、我慢できなかった。俺ではないアルファと会話する聖。俺は、聖と会えなくて…苦しくてたまらなかったのに…。素直に、会いたかったと言えば良かった。見舞いに行けなくてすまないと言えば良かった。
 それなのに、目の前に聖がいると、全身がざわめいて落ち着いて考えることが出来なかった。
 久しぶりに会う聖は、また一段と美しくなっていて、さらに焦燥させられた。

「だから、どうしても、聖の気持ちを知りたかった。言葉にしてほしかった…」

 そこで夢木の話を持ち出した。

「…聖は、俺に…夢木と付き合えと言った…」

 よく覚えている。
 本当は嫌だった。そんなこと言いたくなかった。
 なんて残酷な話をするのだと、彼を責めたかった。でも、そんなこと僕に言う権利はなかった。
 だって、彼にとって僕は、足枷でしかなかったから。

 思わず俯いて、涙がぽたり、と膝上で組んでいた手の甲に落ちた。

「俺は…俺には…聖しかいないのに…」

 言葉を絞り出す彼も目元を覆っていた。声も震えていて、僕たちは、同じだったんだと、なんとなしに感じ得た。

「裏切られた…嘘はつかないという約束も、俺と一緒にいるという約束も…もう、俺はいらないのだと宣告された…それで頭がいっぱいで、今にもいなくなってしまいたかった…」

 聖の気持ちも考えないで…。

 ぽつり、とつぶやかれたその言葉に顔を上げると、まっすぐに彼が僕を見つめていた。

「あとから聞いた。聖が、どんな目にあっていたか…」

 どきり、と心臓が嫌に大きく跳ねた。知られてしまったのだろうか。ずっと、彼だけには知られたくなかった。僕の、嫌な過去。

「俺は、聖が過ごしやすい学園にするために二年間、我慢して尽くしてきたのに…聖は、その間、ずっとつらい思いをしていたことに、いなくなってから知った…」

 俺の力不足だった。
 そういって、彼は背筋を正して、もう一度、両手を床につけて、頭を下げた。

「さ、さくのせいじゃないから…」

 あれは、僕が、空気の読めない、自己中心的なやつだったせいだから。
 周りからの冷たい空気、嘲笑、無くなる物…。すべてが今にも簡単に思い出されて、背筋がひや、と震えた。

「違う。俺のせいだ。俺の…」
「僕が、…僕が、さくに迷惑をかけていたから…」

 彼が誠実に本当の話をしてくれていることが伝わってきた。それに対して僕だけが話さないのはいけないと思った。自分を責めないでほしいと思ったから。

「迷惑…?」

 彼は眉を寄せて、怪訝そうに顔を上げて僕を見上げた。

「僕が…僕が、ずっと一緒にいたら、さくの将来が…」

 夕影が滲む、渡り廊下で、天使のような少年にたたきつけられた言葉。それが、ずっと、僕の心に突き刺さって抜けない棘となっていた。

「そんなわけないだろう!」

 遠く、あの日を思い出すように目を細めていたら、いきなり強い力で肩を掴まれて、驚きのあまり身体が固まる。目の前には彼が眉を吊り上げて、深い青が寂しそうに揺らいでいた。

「聖のいない未来に何の価値もない!」

 俺を信じてくれと青い瞳が、強く僕を射抜く。

「わ、悪い…」

 硬直して何も発さない僕に気づいて、彼の大きな手のひらは僕の肩から離れて、力なくもとの姿勢に戻っていた。

「聖は…そう、思ってくれてたんだな…」

 彼は、精いっぱいに笑みを貼り付けて、僕のせいではないと話をしようとしてくれた。
 しかし、それだ、と僕は思ってしまった。
 そうやって、彼の将来の選択肢を、僕のせいで減らさせてしまっている。
 今だって、本当は、将来のためにコネクションをひとつでも広げるべき時なのに、無理をしてここにいる。
 これが、彼の迷惑となっているのだ。

「僕は…」

 ぽつり、と言葉が零れた。僕のつぶやきを、彼はまっすぐに僕を見上げて、静かに待ってくれている。だから、勇気を出して、伝えないといけない。

「僕は、さくのすべてを、受け止める…自信が、ない…」

 何よりも、自分を優先してほしい。だけど、それだけの代償を彼が背負うことを僕は許せない。
 彼とずっと一緒にいたい。だけど、それによって起こりうる弊害を、彼だけに戦わせることを、僕自身が許せないのだ。

「僕には…何も、ない…から…」

 夢木美久のように、隣で児童会を取りまとめるような能力も、彼のためになるようなコネクションも、彼の隣に立つにふさわしい美貌も、何も持ち合わせていないのだ。
 だから、僕にとって、夢木美久という存在は、この世で最も嫌悪している存在。そして、憧れの存在だった。
 誰もが、彼の隣に立つ夢木をふわしいと称した。夢木も、その自信で満ち溢れていた。だから、僕も、お似合いだと認めざるを得なかった。彼に、勧めることしか出来なかった。僕は、何もないから。彼にプラスになるようなものを、何も、持っていなかったから。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

運命の番はいないと診断されたのに、なんですかこの状況は!?

わさび
BL
運命の番はいないはずだった。 なのに、なんでこんなことに...!?

ひとりぼっちの180日

あこ
BL
付き合いだしたのは高校の時。 何かと不便な場所にあった、全寮制男子高校時代だ。 篠原茜は、その学園の想像を遥かに超えた風習に驚いたものの、順調な滑り出しで学園生活を始めた。 二年目からは学園生活を楽しみ始め、その矢先、田村ツトムから猛アピールを受け始める。 いつの間にか絆されて、二年次夏休みを前に二人は付き合い始めた。 ▷ よくある?王道全寮制男子校を卒業したキャラクターばっかり。 ▷ 綺麗系な受けは学園時代保健室の天使なんて言われてた。 ▷ 攻めはスポーツマン。 ▶︎ タグがネタバレ状態かもしれません。 ▶︎ 作品や章タイトルの頭に『★』があるものは、個人サイトでリクエストしていただいたものです。こちらではリクエスト内容やお礼などの後書きを省略させていただいています。

愛などもう求めない

白兪
BL
とある国の皇子、ヴェリテは長い長い夢を見た。夢ではヴェリテは偽物の皇子だと罪にかけられてしまう。情を交わした婚約者は真の皇子であるファクティスの側につき、兄は睨みつけてくる。そして、とうとう父親である皇帝は処刑を命じた。 「僕のことを1度でも愛してくれたことはありましたか?」 「お前のことを一度も息子だと思ったことはない。」 目が覚め、現実に戻ったヴェリテは安心するが、本当にただの夢だったのだろうか?もし予知夢だとしたら、今すぐここから逃げなくては。 本当に自分を愛してくれる人と生きたい。 ヴェリテの切実な願いが周りを変えていく。  ハッピーエンド大好きなので、絶対に主人公は幸せに終わらせたいです。 最後まで読んでいただけると嬉しいです。

婚約者に会いに行ったらば

龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。 そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。 ショックでその場を逃げ出したミシェルは―― 何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。 そこには何やら事件も絡んできて? 傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

誰よりも愛してるあなたのために

R(アール)
BL
公爵家の3男であるフィルは体にある痣のせいで生まれたときから家族に疎まれていた…。  ある日突然そんなフィルに騎士副団長ギルとの結婚話が舞い込む。 前に一度だけ会ったことがあり、彼だけが自分に優しくしてくれた。そのためフィルは嬉しく思っていた。 だが、彼との結婚生活初日に言われてしまったのだ。 「君と結婚したのは断れなかったからだ。好きにしていろ。俺には構うな」   それでも彼から愛される日を夢見ていたが、最後には殺害されてしまう。しかし、起きたら時間が巻き戻っていた!  すれ違いBLです。 ハッピーエンド保証! 初めて話を書くので、至らない点もあるとは思いますがよろしくお願いします。 (誤字脱字や話にズレがあってもまあ初心者だからなと温かい目で見ていただけると助かります) 11月9日~毎日21時更新。ストックが溜まったら毎日2話更新していきたいと思います。 ※…このマークは少しでもエッチなシーンがあるときにつけます。 自衛お願いします。

【完結】選ばれない僕の生きる道

谷絵 ちぐり
BL
三度、婚約解消された僕。 選ばれない僕が幸せを選ぶ話。 ※地名などは架空(と作者が思ってる)のものです ※設定は独自のものです

処理中です...