初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第38話

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 到着する頃に、よくやく僕の涙は枯れたようだった。柊も、あれ以上何かを仕掛けてくることはなく、ずっと僕を抱きしめて、こめかみやつむじなどに戯れのキスをする程度だった。

「ひーちゃん、歩ける?」

 座席で縮こまっていた僕よりも先に車を降りた柊は、車内を覗き込むようにして、眉を下げて心配そうに僕に声をかけた。手を差し出されたが、それに触れることがためらわれて動けずにいると、腕を引っ張られて、目をつむると次の瞬間浮遊感の襲われる。思わず目を開くと、柊が頬を緩ませて僕を見つめていた。そして、鼻歌を歌いながら屋敷の戸をくぐる。そこには、十人程度だろうか。若い娘から初老の男性まで、様々な執事が頭を下げて僕らを迎え入れた。二人で住むには大きすぎるその屋敷に柊を見上げると、迷うことなく前を向きながら、屋敷を歩いていく。

「ひーちゃん、色々バタバタで疲れたでしょ?」

 微笑みながら柊は僕に優しく話しかける。ふんふん、と鼻歌を刻みながら器用に戸を開けていく。屋敷は中も立派で、シャンデリアやアンティークな家財が広い部屋に、どこもかしこもセンスよく並んでいた。そして、一際奥まったところのドアを開けるとうっすらと暗い部屋に着く。そこで、僕はふわりと身体を降ろされた。清潔な匂いのする、柔らかく大きなベッドだった。きし、と軽く鳴り、目線をあげると、ネクタイを緩めながら柊が覆いかぶさってくるところだった。

「柊…っ」
「ああ…」

 名前をつぶやくと、柊は、両手で僕の頬をおそるおそる触れた。そして、感嘆の声を漏らしながら、恍惚とした表情で僕を見下ろす。

「本当に、本当にひーちゃんだ…ひーちゃんが、僕のお嫁さんになるんだ…」

 肉厚な唇は、ふるふると震えているようだった。僕の名前をつぶやきながら、まなじりや顎、唇を撫でる。僕は、眉を寄せて、柊の様子を見守ることしか出来なかった。なぜなら、柊のもとへ来ることを僕が望んだのだから。柊は、僕に良くしてくれていた。だから、僕はその恩を返さなければならない。両親のことも含めて、一学期の寂しかった僕の生活に色と温度を与えてくれたお礼として。
 覚悟を決めて、瞼をきつく閉じる。
 本当に、僕が抱かれたいのは…。僕が、一生を添い遂げたいのは…。
 そんなこと、まだ浅ましくも囁いてくる自分を暗闇の中に押し込んで、僕は指先に力を込めて、堪える準備をした。
 どくんどくん、と心臓が大きく跳ねて、冷たい汗がこめかみに滲んだ。
 しかし、いくら待っても柊が何をしてくることはなく、頬に、ぽたりと雫が一滴落ちてきた。その衝撃に、瞼がかすかに震えて、視界が開かれる。すると、目の前で、柊は、翡翠を潤ませて、泣いていたのだ。ぽた、ぽた、とまた涙が僕に落ちてくる。

「柊…?」

 予想していなかった事態に、困惑を隠せない。身体を起すと、柊も上半身を起こして、二人で大きなベッドの上に座り込んだ。ぐすぐすと目の前で大男が泣いていて、肩にそっと手を置く。柊は、涙を拭って、僕の胸元に抱き着いた。

「僕、嬉しくて…。本当に、ひーちゃんが僕のお嫁さんになってくれるだなんて、思ってもみなかった…」

 頑張ってきて良かった…。
 深々と、身体の奥底からにじみ出るようなつぶやきに、思わず喉の奥がぎゅうと絞られた。
 実の両親に貶され、あげく捨てられ、周囲からもひどい扱いを受けてきた。その柊が、大きな身体と素晴らしい地位、そして明るく笑えるのは、柊が努力を重ねてきた日々があったからだろう。異国の地で、小さな少女のような彼が奮闘する日々は、僕には想像できないほどの苦しいものだったと思う。
 ひくりひくり、と肩を揺らして泣く柊は、僕の知っている柊だった。
 整髪料で整えられた柊の頭を撫でると、より一層強く抱きしめられて、わんわん泣きだした。それを突き放せるほど、僕と柊の関係は浅くなかった。温かな身体を僕も抱き寄せた。


 抱きしめて頭を撫でて慰めていると、次第に落ち着いてきた柊は、ぐうう…と盛大に腹の虫を鳴かせた。その音に、ぱっと顔を上げた柊は、顔をみるみる真っ赤にさせて、もう一度顔を伏せた。

「…しゅ、う…っ、くく…」
「ひーちゃん、笑わないでよ…」

 恥ずかしそうに、僕をぎゅうぎゅう抱きしめて誤魔化そうとする柊は、ただの少年だった。思わず、吹き出して、声を出して笑ってしまう。
 グレイスとして僕の前に現れてから、柊らしからぬ、大人の男として振る舞ってきた彼が、ようやく、以前の愛らしい犬のような彼に戻った気がして、ようやく笑えたことに気づいた。笑い声と共に、どんどん心がほぐれていくのがわかる。笑う僕をじと目で睨みながらも、柊の腹の虫は大きな声で鳴き続ける。

「もうやだ…僕、いつになったらかっこよくなれるの…」
「大丈夫大丈夫、かっこいいから」

 本当?!と目を輝かせて聞いてくる柊に、笑い過ぎて滲んできた涙を拭いながらうなずくと、絶対バカにしてる…と唇を尖らせてぶつくさ言われてしまう。目が合うと、二人でくすくす笑い合った。柊は僕を腕に閉じ込めて、ゆらゆらと身体をゆったり揺らしながら、機嫌よくころころ笑っている。

「あー、ひーちゃん大好き」

 その言葉に、どきりと身体が固まる。それに返せる言葉が見つからないで困ってしまう。
 大好き、と返すことが正解なのだろうことはわかっている。しかし、それを言ってしまったら、僕は僕でなくなってしまうような気がして、言葉に出来なかった。もしくは、本当のことを柊にすべて見透かされてしまうのではないかと感じていたのかもしれない。
 柊は、一呼吸置くと、肩に手を置いて、ランチにしよう、と僕の好きな柊の笑顔で提案してくれた。その笑顔に、ほっと胸を撫でおろしてうなづいた。



 屋敷に来てからの数日は、実に穏やかだった。
 柊はいつも隣にいたけれど、今までの過度な接触はなかった。時折、思い出したかのように触れるだけのキスをされた。しかし、それだけで柊は、満足そうに笑って、僕を抱き寄せて色々な話をしてくれた。イギリスの文化の話。育ての親のおじいちゃんの話。面白い先生の話。好きなパンの話。楽しい話をなんだってしてくれた。
 僕は、この屋敷に連れてこられた時とは、打って変わって、柊と過ごした図書室での温かい時間を想起させるような楽しい時間を過ごしていた。毎夜毎夜、今日こそ…と覚悟を決めて寝室に入るが、柊はあの大きなベッドで暖色の間接照明に淡く照らされながら、僕をそっと抱きしめて眠りにつくだけだった。

「ひーちゃんが慣れるまで待つから」

 初夜に、そっと囁かれた一言が、僕をどれだけ救ったか。
 今まで、柊の乱暴ともいえるスピード感に振り回されて、思った以上に心身共にへとへとだったらしい。柊の端正な顔に貼り付けられた笑顔は、僕の知らない柊の顔だった。それにますます不安を募らせていったが、僕に逃げ道はない。それに堪えるしか術はなかった。絶望とも思いながら、ここに来たのに、柊は、風呂上がりの優しいせっけんの匂いを漂わせながら、ふわふわの柔らかい髪の毛を枕に沈めて、もう寝よう、と囁き、僕の額におやすみのキスを落して、眠りについた。
 一緒にガーデンテラスで紅茶をすすったり、地下の簡略的なシアターで映画を見たり、本当に穏やかな日々を過ごした。僕にたくさん面白い話をしてくれる柊の隣は、居心地が良かった。

「柊」

 昼下がりに、こぼれ日をたくさん受けて、明るいリビングのソファに並んで座る。僕は本を読んでいて、柊はその僕にぴったりと寄り添って、髪を梳いたり頬ずりをしたりして時間が流れていく。ふと名前を呼ぶと、柊は、僕の指先を大切そうに撫でながら返事をする。

「なあに、ひーちゃん」

 お腹すいたの?と言ってくるので、肘でこづくとくすくす笑う。そんな柊の柔らかい反応に、頬が勝手に緩んでいく。

「今日はひーちゃんの好きなトマト料理にしてもらったよ」

 昨日ふと好きな食べ物の話を振られて、答えたものがすぐに食卓に並ぶらしい。

「柊、トマト苦手って言ってなかったっけ?」

 本から視線を映して柊を見上げると、少し目を見開いてから、頬を染めて微笑んだ。

「覚えててくれたの?」

 嬉しい、と柊は僕を抱き寄せて、すりすりと頬ずりをする。ふわ、ともう嗅ぎ慣れつつある柊のバニラの香りがする。

「そのくらいで大袈裟だよ」

 僕が背中を叩きながら、小さく笑うと柊は、小さなかすれた声で答えた。

「そんなことないよ…ひーちゃんの頭の中で、少しでも僕のことを考えてくれることが、嬉しくてたまらないんだ」

 言っている意味がよくわからずに、眉根をやや寄せるが、柊が嬉しそうに、晩御飯楽しみ、と子どものように身体を揺らし始めるからあまり深く考えるのは止めにした。
 そうして、僕は、次第に柊との結婚生活も良いものかもしれない、とようやく感じるようになっていた。


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