初恋と花蜜マゼンダ

麻田

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第37話

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「ひーちゃんの部屋、見に行きたい」

 柊にそう言われると母にご案内なさい、と言われ、僕は柊に抱き寄せられながら立ち上がり、案内した。
 別に部屋は面白いものはない。あるのは、物の少ないクローゼットと、寝具と勉強机と、少し多い本だけ。寮生活だからということを差し引いても、色気のないさっぱりとした部屋だった。だから、入られて困ることは一切ない。

「わあっ、ひーちゃんのいい匂いでいっぱい…」

 部屋に入った瞬間、柊はすぐに深呼吸をしてそう明るく言った。自分では何も感じないけれど、前にもそんなことをアルファに言われたな、と思い出すと、胃がしくしくと疼くように痛んだ。柊は僕をベッドに座らせて、軽く唇を合わせると、立ち上がってクローゼットを開けた。

「わかってたけど、本当にひーちゃんって物欲ないんだね」

 これならすぐに引っ越しできちゃうよ、と明るくにこにこと笑いながら柊はクローゼットを締めた。ぎ、とベッドが鳴るとすぐ隣に密着して柊が座った。

「もうあっちには、ひーちゃんに似合いそうな服も買いそろえたから、このままひーちゃんだけ来れば良いかもしれないね」

 柊が僕の頬を大切そうに撫でながら、朗らかに囁いた。
 もともと物に執着したことはなかった。確かに、衣食住に最低限のものがあれば、暮らせてしまう。どこで暮らしても、同じだろう。何も変わらない。だから、小さくうなずくと、柊は僕を抱きしめた。

「ひーちゃん、大好き…」

 つむじやこめかみにたくさんのキスを降らせる。耳元にある彼の厚い胸板からは、早い心音が力強く聞こえた。耳をかさついた指が撫でて、輪郭を伝って、顎を掬われた。その力に促されるままに顔をあげると、頬を染めて唇を湿らせた柊が、うっとりと僕の名前を囁いた。

「ひーちゃん…、僕のひーちゃん…」

 唇が吸われて、音を立てて離れる。それでは満足できないと、何度も角度を変えて口づけが行われる。

「んぅ…」

 ぬる、と熱い舌が唇の割れ目をなぞると思わず鼻から声が漏れてしまった。それを聞いた柊の舌は力が込められて、僕の唇を割り開いた。中に小さくなっていた舌をべろりと捕まえて、引きずり出すように巻き付かれる。舌根をくすぐられると、勝手に舌が突き出されて、喘いでしまう。その現れた舌を、彼は強く吸った。じゅう、と吸われると、ぞぞぞ、と背筋が痺れて、思わず柊の素材の良いリネンのシャツを握りしめて皺を作ってしまう。

「ひーちゃん」

 熱い吐息と共に、口内にまたやってくる。歯列に沿って舐められて、長い舌は奥歯の裏までくすぐってくる。彼の器用な舌先が、熱い唾液を流し込んでくる。ぐいぐいと舌を押し込められると、飲み込むしかなくて、ごくりと喉仏が上下させる。ぞくりと腰がざわめき、肩をすぼめて目を固くつむって快感を流そうとするのに、柊はそれを許さないように、巧みに上顎の裏を撫でる。

「ぅあ、ぁ…っん、ん…」

 ぎ、とベッドが鳴り、その音に目を見張ると、優しく柊に押し倒されていた。すぐそこにあるエメラルドは、欲を含んで鈍く光っていた。じり、とすべてを焦がされてしまうような熱い瞳だった。

「しゅ、ぅ…」

 れろ、と唇を舐められながら、吐息と共に名前をつぶやいた。すると、眦をじんわりと染めながら、甘く垂れさせる。何度も、優しく唇に吸い付いてくる。子犬が戯れてくるようなキスで、心地よく瞼を降ろすと、するり、と背中を大きな手のひらでなぞった。ぴく、と身体が固まって顔を離すと、柊はまた僕の名前を囁いて、顔を近づけてきた。それから逃げるようにベッドにずり上がると、柊のたくらみ通りと言ったように、まんまとベッドに囲われてしまう。

「ひーちゃん…」

 シャツの下に手が差し込まれて、脇腹を撫でられたところで、強く肩を押した。そのくらいでは、もちろん柊の身体は動かないが、動きは止まった。

「だ、だめ…っ」

 柊は、なんで?と顔に書いたまま、首を傾げた。急いで口を動かす。

「下に、親、いるから…、だから…」

 口元を拭いながら柊の肩を押すと、あっさり柊は引いてくれた。僕を胸元に強く抱き寄せると、大きく深呼吸した。

「そうだよね、僕、がっつきすぎ」

 はあ、と溜め息をついて、もう一度僕のつむじに鼻先をつけながら深く息を吸った。

「もう、明日にでも引っ越そうよ」

 薄い耳朶をなぞられたり、摘ままれたりしながら、柊が唇を尖らして言う。むずがゆいような感覚が項から降りていき、身をよじると両手で抱き寄せられて、額にキスをされる。

「早く、ひーちゃんと僕だけの匂いにならないかな」

 どういう意味かわからずに柊の表情を見ようとするが、ぴったりと胸板に抱き寄せられてしまい、僕には柊の早い心臓の鼓動しか聞こえなくなってしまう。そして顎を掴まれると、また唇を塞がれて、バニラの香りをさせたねっとりとする唾液を送り込まれてくる。その度に、身体がぞわ、ぞわ、と寒気のような快感のような痺れが全身を回り、浮遊感に襲われた。胃がきゅう、と絞られるような感覚になり、身体を固くすると背中をするすると撫でられて力が抜ける。そうやって柊は、僕の身体を探るように楽しんでいた。





「坊ちゃま、いつでも帰ってきて良いのですからね」

 幼き頃を過ごした実家を出る時に、最後に握手をした綿貫がこっそりと僕に囁いた。真剣な眼差しに、本当に僕を心配してくれていることがわかって、久しぶりに頬が緩んだ。

「ありがとう、綿貫も元気で」

 抱き合って別れを告げようとしたところで、腕を引っ張られて違う男に抱きしめられてしまう。この匂いは、ここ数日毎日嗅がされている柊のものだった。柊は、綿貫をちらりと冷たく見やってから、僕に笑いかけた。

「さ、早くいこ、ひーちゃん」

 腰を抱き寄せられながら、僕は生れた頃から一緒に過ごしている執事たち、綿貫、そして両親に手を振って、柊の車に乗った。
 涙目で最後の僕を抱きしめた両親は、二人とも顔色は良く、笑顔だった。父の仕事は、柊の支援もあり、さっそく軌道にのり良い結果が出せているらしい。母からも、改めて礼を言われた。屋敷もこのままでいられると聞いて、胸を撫でおろした。母はいつでも帰ってきていいからね、と微笑んだ。その顔は、やつれた隈もこけた頬も和らいで、美しい昔の母そのものに戻ってきたようだった。その様子が、何よりも、僕の選択が間違っていなかったことを示していて、心の底からよかった、と安堵した。
 綿貫からぜひ最後までお供させてくださいと申し出あり、綿貫の車で新居に行くつもりだったが、柊に笑顔でやんわりと拒絶されてしまい、気づいたら彼の運転手の待つ車で移動することになっていた。寂しさもあって綿貫の話をしたが、ダメだと笑顔で断られてしまった。はっきりと僕の意見を否定してくる柊がはじめてで、底知れぬ暗いものが垣間見えた気がして、何も言えなくなってしまった。

「ん、しゅ、んう…っ」

 車に乗るなり、僕を抱き寄せてキスをしてきた。後頭部を大きな手のひらが包み、がっちりと固定されてしまい、逃げることができない。すぐに分厚い舌が口内に侵入し、頬裏を尖らせた舌先で舐める。柊の運転手は何も言わずに静かに車を走らせた。

「や、んっ、ぁ…んうっ」

 肩を押すも、僕の弱い力ではもちろん彼をどうこうすることは出来ずに、より、ぐいぐいと抱き寄せられてしまうだけだった。顎から混ざった唾液があふれると、それを彼の舌先が掬い上げて口内に戻ってくる。舌を合わせながら、どんどん流れ込んでくる液体を僕は嚥下する他なく、その様子を柊はうろんな瞳でにったりと見つめていた。僕は、びりびりと背筋を電流が流れて、腰が甘く重くなっていく。最近、柊とキスする度に、あっという間に身体が火照っていることに気づき始めていた。明らかに、最初の頃と替わっていく身体におかしいと首をかしげるも、目の前で、顔を赤くして大好きだと囁く婚約者に常に翻弄されていて、ゆっくりと考えることも出来なかった。
 舌先がじんじんと痺れ出す頃にようやく柊は僕の口を解放してくれた。ちゅ、ちゅ、とつややかに光る唇を吸われて、流れた唾液を辿るように、顎や輪郭にキスを落されて、首筋を吸われる。

「だ、だめっ、柊っ」

 ぴくん、と身体が余計に反応していることに気づき、急いでかがんだ柊との間に膝を立てて差し込んだ。距離をとろうとするが、柊は首筋へのキスを執拗にやめない。

「だめっ、柊…っ! やだっ…!」

 喉仏に、柊の犬歯が淡く立てられて、喉から詰まった悲鳴が零れた。その瞬間、じんわりとしていた涙がばらばらと溢れて、嗚咽が出始める。怖い。大きな身体で、出会った頃の屈託ない笑顔を見せなくなった柊が、怖い。どこにいても、熱っぽく僕を爪先から頭のてっぺんまで見つめている柊が、怖い。最近、両親以外との接触を極端に嫌がる柊が、僕の知っている柊ではなくなっていて怖い。
 そう、最近の柊は怖いのだ。
 僕が、大切な後輩として愛していた柊は、獲物を狙う捕食者のように僕をいつも見ていて、僕を離さない。行動を制限されているようで怖い。
 今もこうして、嫌だと言っても動きを止めないことが増えた。

「やだぁ、柊…っく、やだ…やだあ…」

 ぢゅう、と一際強く吸ってから、柊は顔を上げた。熱に犯された瞳で涙する僕を舌なめずりしながら見下ろす。ひっ、と喉の奥が痙攣したように悲鳴が出てしまう。

「ひーちゃん…ようやく僕のものだね…」

 顔を寄せられて、何をされるかわからず、悲鳴が出ないように口を押さえながら身体を縮こまらせて目を固くつむる。べろり、と長い舌が頬を舐めて、耳朶を強く吸った。

「ああ…ひーちゃん、いい匂い…ひーちゃん、大好き…」

 熱い身体に抱きしめられると、身体が冷え切っていることを感じさせられる。漂うバニラの香りに、身体が勝手に小さく震えて、涙があふれた。


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